s1 ep8-4
──と思ったのに、仕事を終えて帰宅すると予想外に同居人がいた。
全くこれだから動きが掴めないのは困る。すっかり自分ひとりのつもりでスーパーの弁当なんか買ってきちまった。一番初めに目に付いたチキン南蛮弁当などというものを、もちろんひとつだけ。
しかも冷蔵庫には今、玉子が一個しかない。
昨日帰ったときに気づいてはいたけど、まだ坂上は戻らないものだと思い込んでたから買い足してなかった。
でも幸い挽肉があった。昨夜、たまにはオムライスにミートボールでも添えてみようと思い立って、買ってきたものだ。オムライスは無理でもハンバーグなら作れる。
チキン南蛮とどっちがいい? と坂上に訊いたら、ハンバーグと即答が返った。
そのくせ坂上ときたら、テーブルでテレビを点けてボトルビールを傾けながら物欲しげな視線でチキン南蛮弁当をチラ見するもんだから、ツマミに食ってていいよと言っておいたら、ハンバーグができあがる頃には白米以外が綺麗さっぱりなくなっていた。
「なんでごはん残してんの?」
そう尋ねると、坂上は目の前に置かれた皿に目を注いで抑揚なくこう言った。
「ハンバーグに取っとこうと思って」
真剣な風情に思わず笑いが漏れる。
「お米なら、昨日炊いたやつがあるのに。あんたが帰らなかったから丸ごと冷凍したけどね」
後半は、ちょっとした恨み節だ。
昨日の朝、出勤時刻ギリギリになったのは、セックスだけが原因じゃない。帰ったらメシが炊けてるようにと、米を研いでタイマーをセットしていたせいもある。
だけど、こんな心情を漏らすなんて自分でも驚くような変化だと中野は感じた。坂上が帰らないことで何かが徒労に終わったからといって、以前なら口にするほどのことじゃなかったはずなのに。
相変わらず、どんな言葉を返したらいいのかわからないって顔でチラリと中野を見上げた坂上は、その目を一旦ハンバーグに落として、ケチャップとウスターソースと粒マスタードを和えたソースの匂いをこっそり嗅いでから、食っていい? とでも言いたげな色を独特のコミュ障っぽい面構えに掃いて、再び中野をチラ見した。
もう、降参だ。
「冷めないうちに食べなよ。ごはん、それで足りる?」
緩んでしまう頬を隠すこともできずに訊くと、坂上は弁当の白米とハンバーグを見比べて小さく首を横に振った。
で、冷凍ごはんを温めてやって、中野も自分のボトルビールを出してきてから、ようやくメシにありつく。
今日のビールは象の横顔が愛嬌のあるラベル、TUSKER。口を付けたボトルをふと眺めて、中野はそれをテーブルに置いた。
「そういえばさ、いつもビールを持って帰るのって、もしかして酒屋がくれてんの?」
「まぁな」
手も止めず顔も上げずに坂上が短く答えた。
「じゃあさ、結構しょっちゅう一緒に仕事してるってことだよね」
「だったら?」
「毎回ってわけじゃなくても、泊まってくるときも多いんだろうなって思って」
すると、今度は手が止まった。
「今そんな話をすんのはやめてくんねぇか、メシが不味くなる」
平坦な声音で言い、切り取っていたハンバーグの欠片を口に放る。
「仕事で組んだからって夜まで一緒にいないことだって多いし、いたってアイツんとこに泊まるとは限らねぇ。ビールをもらうことにも意味なんかないし、一緒に寝てもないし、俺は」
そこで躊躇うような一拍があり、でも何気ない素振りで坂上はこう続けた。
「アイツとキスなんかしたことない」
珍しく長いセリフを聞いていた中野は、同居人に目を据えたままゆっくりと首を傾けた。
「こないだ、クルマで送ってきてもらったときのアレは?」
「されそうになっただけで、してない」
「もしかしてそれって、俺が新井にキスされたこと責めてる?」
キスしたんじゃなくて、されたんだって主張を匂わせるのは忘れない。
「そんなんじゃない。あんたが勘繰るから」
「俺は酒屋についての素朴な疑問をぶつけただけだよ。ていうか、俺が裏切るのは構わないって、あんた言わなかったっけ? もちろん、どんな意味でも裏切ってなんかないし、あのキスの他にだって何もないけどさ。そんなこと言っておいて、新井とのこと気にすんの?」
「だから、別に……」
「この際だから言っとくけど、俺は酒屋のことを気にするよ? 悪いけどあんたに撃たれようが、これからはもう堂々と勘繰るし嫉妬もすることにする。だって、そうなっちゃったんだからどうしようもないよね」
「──」
「だから、いくらあんたが何もないって言ったって、寝てる間のことはわかんないよなって思ったりもするし」
「ない」
投げ出すような声とともに再びメシを食う手が動き始める。休んでいた間を取り戻すようにハンバーグをもりもり消費しながら、坂上は付け加えた。
「そんなの寝てたって目が覚める。だから、ないことは知ってる」
「そうだけど、疲れて熟睡してたら覚めないこともあるよな? 昨日の朝だって」
「あんただけだ」
素早く遮った坂上は、中野の視線を避けるようにテレビに目を投げて、どこか忌々しげな手つきで白米を頬張った。
「そんな風に油断させんのは、あんたひとりだけだ」
ボリュームを抑えた物言いに感情を窺うことはできなかったけど、そんなものは必要ない。
おかげで中野は、何の屈託もなく象のラベルのボトルを口に運ぶことができた。ふた口めのケニアビールは、不思議なことに開栓直後よりもむしろ爽快な喉越しに感じられた。
「こんな話をして悪かったけど、俺はメシが旨くなったよ」
中野の上機嫌に相反して、坂上はいつも以上に寡黙になった。
だけど食い終えるなり食器もそのままに席を立ち、射撃部屋で銃を構えては撃たずに下ろすという振る舞いを苛立たしげに三度繰り返したあと、中野が背後から腕を回したら無言でセイフティをオンにしてくれた。
それからどうしたかは、言うまでもない。
「なぁ、あんた。まさかほんとに銃とセックスしたりしないよな?」
冨賀の言葉を思い出して尋ねると、坂上が無言の眼差しを寄越した。
「あんたは銃としかやれないって思ってたって、酒屋が言ってたんだよ」
「──」
「まさか、俺より銃身のほうが興奮する?」
「本気で言ってんのか?」
「まぁ、もちろん本気じゃないよ。だけど外では、できれば銃じゃなきゃ感じないフリをしてて欲しいな」
「何のために?」
「そうすりゃ、あんたにお相手願おうなんて考えるヤツがいなくなるだろ?」
彼の喉に先日残した痕跡は、もうあまり目立たなくなっていた。
ソイツを上書きしようかと考えかけて、中野は思いとどまった。第三者に坂上の性的な匂いを嗅ぎ取らせるのは愉快なことじゃないことを、今日痛感したからだ。
だけど、いい一日だった。
ドンパチもなかったし、坂上について新しいことをひとつ知った。例えそれが、情報屋という愉快な要素とは言えないものであっても──だ。
こんな何気ない日が明日も明後日も、できるだけ長く続いて欲しい。それが無理なら少なくとも、帰らない日には連絡することを約束させたい。
たったそれだけのことではあっても、まずはそこから始めよう。
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