s1 ep5-5

 事の真相は帰宅から程なく判明した。

 初めは、危惧した通り侵入者と闘ったんだと思った。

 坂上とヒカルがドンパチをやらかした翌日、出勤していた中野が帰宅すると、朝出かけるときには前夜の爪痕があちこちに残ってたはずの部屋があり得ないくらい元通りになっていた。何をどうやったのかは知らない。さすがに尋ねたけど相変わらず教えてもらえなかった。

 が、その室内が今夜、再び惨憺たる有り様に逆戻りしていた。

 惨状は特にキッチンに集中してる。あちこちに点在する血痕、散らかった俎板やら包丁やらフライパンやら、割れたジャガイモや潰れた卵の残骸やら──なんと、今日はこんなもので闘ったというのか。

 想像もつかない格闘の残滓を呆然と眺めていたら、背後に抑えた声が聞こえた。

「ヒマだったから、あんたに食わせるものでも作ろうかと思ったんだけど……」

 振り返ると、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ坂上が俯けた顔を逸らして低く漏らした。

「料理って──やったことなくて」

「──」

 中野は倒れそうになった。

 もちろん、料理をしたことがないという告白や、何をどうしたらこんな惨状になるのかという戸惑いのせいじゃない。

 坂上が自分のためにメシを作ろうとしたという衝撃に打ちのめされて、本気で一瞬、気が遠くなった。

「じゃあ、まさか包丁使っててそんなに怪我したってこと?」

「刃物のこういう使い方は慣れてなくて」

「どういう使い方なら慣れてんのかな」

 疑問への答えはなく、代わりに坂上はこう言った。

「あんたからしたら馬鹿みたいだろうな、こんなこともできねぇとか」

「ちなみに何作ろうとしたわけ?」

 坂上は少し考えてから僅かに首を傾け、オムレツ……? と曖昧に呟いた。

 ジャガイモと卵が散らかってるところを見ると、スパニッシュオムレツでも作ろうとしたんだろうか。坂上はそんな名前も知らないかもしれないけど、作ってやったことは一度や二度あるはずだ。

 人間は容赦なく撃つくせに、食材相手にはてんで歯が立たなかったらしい姿を想像して、中野はなす術もなく頬を緩めた。

「あぁでも、確かに馬鹿みたいだ」

「──」

「ほんと馬鹿みたいに俺、今すごく舞い上がってるよ」

 坂上がキャップのブリムの陰からチラリと目を上げた。

「その手、銃は撃てるの?」

「この程度の傷は問題ない」

「ならいいけど、風呂で身体とか頭とか洗うのは、ちょっと面倒くさそうだよね」

「別に全然……」

「まぁそう言わず、オムレツのお礼に俺が洗ってあげるよ。あんたの傷がある程度治るまで。ね?」

「俺、作ってねぇ」

「あんたが作ろうって思った時点で、俺は食べたも同然だよ」

 坂上はそれ以上何も言わなかったけど、それでもキャップとフードを取っ払われ、パーカーを脱がされることには抵抗しなかった。

 衣類を全て剥ぎ取りながら洗面所の脱衣スペースに辿り着くまで、大して時間はかからなかった。ただ、坂上が中野のベルトのバックルを外すのに手間取ったときには、やっぱり少し傷の具合が心配になった。だから、その手をやんわりと押し遣って自分で脱ぎ去りながら、中野はもう一度確認した。

「その手、ほんとに大丈夫?」

「同じことを何度も言わせんな」

「そうだね、ごめん。この程度の傷はあんたにしてみりゃ蚊に刺されたようなもんだよな」

 言いながら坂上の身体を抱え上げてバスルームに入り、シャワーの栓を捻って壁に背中を押しつける。冷たさにひとつ身震いした坂上が、中野の肩口に鼻先を押し付けて吐息混じりに呟いた。

「──あんたの匂いがする」

「そう? もう香水の匂い、しなくなった?」

「まだする。けど……」

「俺の匂いもする?」

 答えはなく、かわりに彼の股間が芯を孕むのを腹で感じた。

 坂上は最近、セックスの最中に中野の匂いに触れると感じやすくなる傾向がある。それを思い出して、ふと他愛のない問いが口から滑り出た。

「なぁ、俺の匂いと卵料理の匂い、どっちが好き?」

「は? 何だよ急に……」

「答えによっては、風呂上がりにオムライス作ってあげるけど?」

 すると坂上は微かな逡巡を眉間に刷いて数秒黙ったあと、どこか頼りない口ぶりでこう漏らした。

「あんたの──ほう?」

 結局、本当はどちらが好きなのか判然としなかったけど、中野は笑って頭の隅にメニューを思い描いた。

 キッチンの惨状は、今は考えないことにする。

 もう随分遅い時刻ではあるけど、この分だと何も食ってないに違いない。

 だから今夜は坂上の好きなもの全部載せの、とびきりスペシャルなオムライスにしてやろう。

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