第12話
紫水楼に帰れば、風牙が部屋の隅で不貞腐れて膝を抱えていた。
いい年した大人が何やってんだと雪花が呆れて声をかければ、すごい形相で振り向かれてこんこんと説教された。
あの男は狼だから簡単に近寄るな。あんな紙縒の理性しか持ち合わせてない、ちょっと顔がいいだけの男なんてちょん切ってしまえとか。雪花もちゃんと貞操概念を持てとか色々と。口には出さなかったが、風牙も人のことを言えたクチではない。特に、一番にちょん切られてしまうのは志輝よりも風牙自身であろう。そのうち帰蝶あたりにやられるんじゃなかろうか。
だが心配をかけてしまった手前、雪花は黙って大人しくネチネチと続く叱責を受けていた(といっても、ほとんど志輝の悪口だった)。しかし扉の向こうから様子を伺っていた帰蝶が、よく言うよ、と助け舟を出してくれた。そりゃ全部、あんたに言えた台詞だね、と。
まあそこからはいつもの光景で、締めくくりもいつも通りだった。
『身体を許すも許さないも自己責任だから、人の恋路に口を出すな。本能のまま生きてる人間がとやかく言ってんじゃない』と、帰蝶がもっともな事を言って目くじらを立てれば。
『でも俺はちゃんと避妊してる!』と、ドヤ顔で言い切った風牙。
その直後、そのドヤ顔に帰蝶の足がめり込んだのは言うまでもない。我が養父ながら、本当に救いようがない奴である。
とりあえず、ご自慢の美顔がしばらくは役に立たないだろうな、と雪花はそそくさと部屋を後にした。相談に乗ってくれたのがネイサンでよかったと、心から感謝して。
一方の志輝も、幽鬼のような暗さを纏って屋敷に戻っており、珠華から『鬱陶しいなぁ。やったならちゃんと責任取りなよバカ。あんたが暗い顔してどうすんの』などと、手厳しい言葉を受けていた。だが、まぁ一線は超えてないことを知ると、杏樹とともに安堵のため息をつき、紙縒の理性でもないよりかはマシだね、と二人で密かに毒づいていた。志輝に対しては、昔からなかなか手厳しい二人である。
そんなこんなで、それぞれが色々と悩みを抱えて眠れぬ夜を過ごした翌日———。
朝を迎えて、客達が別れをおしみながら花街を後にする頃。
どうにも気になっている美月の件を報告するべく、喜雨楼を訪れることにした。
一階に降りると、仕事を終えた姐さん達が集まって煙管をふかしている。一服終えたら風呂に入るのだろう。
いつもは一人を好む秀燕も、珍しくその中に混じって煙る宙を眺めている。物思いにふけるようにぼんやりと。何か考え事でもしているのかなと思いつつ雪花は喜雨楼へと足を進めた。
美月の件もあって、喜雨楼の前には強面の男達が見張りとして立っている。
(こわ…。厳戒態勢だなぁ)
軽く頭を下げ、雪花はその間をそろりと抜けて中へと入った。
かくして喜雨楼の一室に通された雪花は、居住まいを正して美雨を待つことになった。
妓女同士が仕事のことで揉めているらしく、止めに入っているらしい。
(どこの妓楼でも同じだなあ)
こりゃしばらく時間がかかるかなと思っていると、一人の禿が茶を運んできてくれた。確か、美月に付いていた禿だ。
「ありがとう」
雪花の言葉に禿は微かに首を横に振ると、部屋の隅で静かに控えた。年は十を過ぎたあたりだろうか。小柄で線が細い少女だ。
動かないところをみると、美雨が来るまでここに残るようだ。
さてはて、どうしたものかと雪花はとりあえず、名乗ることにした。
「私は雪花。ええと、あんたの名前は?」
確か口が聞けないと言っていたが、とりあえず尋ねてみる。
すると禿は、小さな声で何かを囁いた。だが口がわずかに動いただけで、雪花の耳には全く音が届かない。仕方がなく、雪花は立ち上がって禿のそばに膝をついた。
「文字は書ける?」
禿は雪花を見上げると、床に指で文字を書いた。
沙霧、というらしい。
「沙霧か。美月さんから文字を教わったのか?」
沙霧はこくん、と頷いた。
「…そうか。私は美雨に用があって来たんだ。美月さんのことを調べていてね。少し気になることがあって」
すると、少女の指が僅かに動いたのが雪花の目に留まった。目も、不意に逸らされる。
少しだけ不審に思いながら、雪花は気づかないふりをして話を続けることにした。
この禿、やはり何か知っているのではないか。
「なんでもあの徐宇呈はさ、美月さんの家族を自殺に追い込んだ家の息子らしいんだ。それを彼女は知っていたのかな」
「…」
「私はね、彼女は知っていたと思うんだ。…彼に、自身を身請けさせるために全てを捨てさせたんじゃないかって」
昨日、なかなか寝付けない中で雪花は考えていたのだ。
志輝が言っていた言葉。
“殺される事でその男に復讐できたのでは?”
結ばれる寸前で、男の心を捉えたまま死んだ美月。
美月の両親の自殺と、徐家との関係性。
そして、事故で死んだという徐家の両親。
「これはあくまで、私の推測だ。彼の両親が亡くなったのは事故だったらしいけど、
雪花の推測に、沙霧は小さな拳を握りしめて震えだした。
―――当たりか…。
雪花は目元に陰りを落とした。
本当は、当たってほしくなかったのだ。
萌萌に最後に会いに来た時の、あの嬉しそうな笑顔。あの笑顔に隠された本当の意味は―――。
雪花は嘆息すると、沙霧の手に自分の手を重ねて彼女の瞳を覗き込んだ。
沙霧の目が、わずかに開かれる。
「…知っていることがあるなら教えてほしい。妓楼は違うけど、私はこの花街の衆の一人だ。この花街のために真実を調べなければいけない。それに、うちの萌萌姐さんが美月さんとは友人だったんだ。美月さんが死ぬ前にも会ってる。彼女も、美月さんが死んだ原因を知りたがっているんだ。彼女が浮かばれないって。…それに、美月さんの最後の言葉。あれは、誰に向けられたのか―――。それも、私は伝えなきゃいけないんだ。教えてくれ…。彼女は誰に、自分を殺す様に頼んだのか」
自分を誰かに殺してもらう―――それは自殺だ。しかし、嘱託殺人でもある。
いくら本人が願ったとしても、誰かが人を殺めたことに変わりはない。
すると、少女の瞳から透明な滴が溢れて頬を伝った。
彼女は声を押し殺しながら、ただ静かに涙を零した。
◇◆◇
美月姐さんはいつも微笑の下に感情を隠す。
彼女が泣いているところも、怒っているところも、側についている沙霧は見たことがない。穏やかででしゃばりすぎない静かな女———この妓楼にいる人間はそう思っている。皆、本当の彼女を分かっていない。
そして彼女の側についている沙霧でさえ、彼女という人間が分からなかった。
でも、最後に少しだけ分かった。
彼女は、天女の仮面を被りつづけた復讐者だった。
―――彼女との出会いは数年前だ。
沙霧は口減らしのためにこの喜雨楼に売られた。物心ついたころから人と話すのが苦手で、口下手で。村の中でも、家族にも厭われていた。
でも、見た目だけはそれなりに良かった。だから家族は、村の男たちに手をつけられる前にと、一番金になりそうな沙霧を手放した。
そしてこの妓楼でも浮いていた沙霧を、美月が禿として側に置いたのだ。
静かで優しい美月。彼女は花案でも上位に選ばれるほどに、美貌と教養を持つ妓女だ。
そんな彼女が、妓女として生きる術を一から丁寧に教えてくれた。飲み込みが悪くとも、根気強く教えてくれた。文字の読み書き、月琴の弾き方、詩のやりとり。
人とうまく言葉は交わせなくとも、彼女のおかげでこの妓楼で生きてこられた。他の禿から虐められそうになれば、美月が身を挺して庇ってくれたこともあるし、自身で解決できるようにと助言をたくさんくれた。
そうだ―――本当の姉のように、彼女は沙霧に接してくれたのだ。
こんな風に誰かに優しくされたのは初めてで、沙霧は彼女の顔に泥を塗るまいと、口がうまく聞けない分必死に努力した。そうして努力を重ねるうちに、次第に沙霧を認めてくれる人が増えた。
ある時、どうしたら姐さんのようになんでもできる人間になれるの、と尋ねたことがある。
すると彼女は笑ってこう言った。
“私のようになったらだめよ。私は沙霧が思っているような女じゃないの”、と。
その時の彼女の笑みが、とても艶美だったことを覚えている。
その意味を沙霧が知ったのは一年程前だ。
偶然彼女の元を、幼馴染であった商家の若旦那が訪れた。その男、徐宇呈はすぐに彼女に惚れこんだ。
そして、美月を身請けしたいと思いはじめた宇呈を、彼の両親が猛反対した。当たり前だ。妓女一人を身請けしようとするものなら、それなりの金を用意しなければならない。いくら有名商家の跡取りでもさすがに無理だ。
皆、そう思っていた。
ある夜、美月はその男の肌の上でぽつりと呟いた。
『…私なんかに構わないで、他の誰かを見つけてね』
沙霧は衝立を挟んで、体を清めるための湯の準備をしていた。
彼女の言葉に、宇呈が慌てて言う。
『違う、必ず助け出すから。お願いだから、そんなことを言わないでくれ』
男の言葉に、美月は首を振った。
『でも、ご両親は絶対に許さないわ。…だって、私の両親を殺したのはあの二人だもの』
『!?』
衝撃の台詞に、沙霧は危うく手巾を湯の中に落としかけた。
宇呈もそうだったのだろう、反応に幾ばくか遅れた。
『な、何を…。どう言う意味だ?』
『そのままの意味よ…。私の両親の店が潰れたのは、貴方のご両親の策略だもの』
『そ、そんな。何を馬鹿なことを…。嘘だ、何かの間違いだろう』
『貴方が知らないだけで、確かめれば分かる事よ。…私も、貴方のことを誰よりも想ってる。添い遂げたいと願っているけれど、でも、ご両親がいる限り、貴方とは一緒になれないの。貴方の言葉を信じたいけれど、信じられない。それに、私を身請けしたいとおっしゃっているお方もいるし…。私はこのまま、どこかの家の妾になる運命なのよ』
『そんな…!そんなことはさせない!』
『なら、真実を確かめて…?そうしたら分かるはずよ。貴方の両親がいる限り、私は貴方の元にはいけない。貴方を想うことができても、私はあの二人を許せないのよ…。貴方は、私なんかのために全てを捨てられないでしょう…?』
美しい涙をほろほろと流しながら、美月は男の胸に顔を埋めた。試すような台詞と共に。
そして、知らずのうちに衝立から顔を覗かせていた沙霧に気づいていた美月は、汗ばむ頬に髪を張り付かせて、視線だけを沙霧に向けた。
ドキ、と構えたのも一瞬だった。
彼女は、涙を流しながらも唇で弧を描いてみせたのだ。
ぞわり、と全身が総毛立った。底の見えない、美しすぎる笑みだった。
それは天女か、それとも羅刹女か。
“私は貴方が思っているような女じゃないの”
あの時の言葉が、頭の中でこだました。
そして一つの季節が去った頃。徐宇呈の両親が死んだ。馬車の事故だったそうだ。だけど、沙霧は知っている。
おそらく、故意的に起こされた事故だと。
その事故のあと、彼は狂ったように美月を激しく抱き潰した日があった。その時、彼は美月を何度も貫きながら確かに言ったのだ。縋るように。
『っ美月…!美月、これで僕には君だけだ…!何があっても君を守る、だから、これから共に生きてくれ…!僕を信じてくれ…!』
その時も、美月は揺さぶられながらも笑んだ。
宇呈の頭をその白い胸に抱き寄せて。
彼女の胸の内を知る者はいなかった。楼主である美雨でさえ、わからなかっただろう。
———しかし、一人だけいたのだ。
美月の心を理解していた人物が。
その者は、美月が水揚げした時から、彼女の髪を結い続けている道興という男だ。
彼は寡黙だが優しい男で、沙霧にも優しく接してくれた。時折、金平糖や饅頭などの菓子を持ってきて、喜ぶ沙霧の頭を撫でてくれたし、簡単な髪の結い方も教えてくれた。街での面白い話も聞かせてくれた。
そんな男と美月は、いつも穏やかに会話をするだけ。彼は、彼女の髪以外は触れることはない。
そして美月もまた、彼に触れることはない。
どちらも指一本すら、触れることはない。
触れてしまえば、まるで後戻りできなくなるように。柔らかな空気の中に、どこか緊張を含んでいた。
二人の目は互いに慈愛に満ちているが、時に切なく、時に静かな熱を孕むことがある。
そのことを、側にいた沙霧は知っていた。
だからこそ、わからなかった。
身請けを了承した美月の心が。
そして———。
二人はあの日、互いに最後の言葉を交わしたのだ。そう、あの道中の日だ。
道興は美月の髪を派手に結い上げることはせず、その日は編み込んだ髪を二つに分けて胸元に流し、豪奢な髪飾りの代わりに白い香雪蘭を挿した。
『今までありがとう。それに最後の仕上げまで…。わがままを聞いてもらってごめんなさい』
『いえ…。ですが、本当にいいのですか』
『ええ。これで、本当に終われるわ…。やっと、自由になれる』
美月は鏡を見ながら紅を引き、鏡越しに道興に視線をやった。
そして、鏡に映る男の頬を指で撫でる。
『…会える、わよね』
『ええ…、必ず』
道興は泣きそうな顔で笑った。美月も同じような顔をすると、涙を堪えるように瞼を閉じた。
まるで、今生の別れのように。
この時、気づいていればよかったのだ。
やっと終われる、自由、というのは、この花街から解放されるという意味ではなく。
本当にいいのか、ということは仇の息子の元に嫁いでいいのか、という意味ではなかったことに。
『———沙霧、こっちに来なさい』
そして、美月は沙霧を呼んだ。彼女は自身の手箱を取り出すと、その中から三日月の形をした耳飾りを取り出した。
『これを、貴方に』
『姐さん…?』
そして彼女は、沙霧の両耳につけながら言う。
『私の姐さんだった人がくれたの。欠けてしまったものは戻らないけれど、何かで満たすことはできるって。だから貴方も、自分の中を満たすものを見つけなさい。欠けたものを、いつまでも惜しんではだめよ』
沙霧の耳元で煌めいた月を優しげに撫でると、美月は立ち上がった。
『さぁ、沙霧。最後のお供を頼むわね』
そういった彼女の横顔は、とても凛として美しく。
そんな彼女の姿を見つめる道興は、なんと表現したらよいのか…。強張り、悲しみに暮れているような。けれども、何かを覚悟した目をしていた。
そしてその後、間も無くして美月は死んだ。
彼女が残した最後の言葉———あれはきっと、宇呈に向けたものではない。
道興に向けたものだ。あの場にいた中で、沙霧だけがわかった。
美月は、道興に殺されることを願ったのだ。
宇呈への、徐家への復讐をやりとげるために。
宇呈に両親を殺させて。自分を娶らせるために家を手放させ。
そして最後は自身の死をもって、終焉へと導いた。
ただ、不思議なことに美月は何も手を下していない。
彼女はただ、男と睦言を交わしただけ。耳元で囁いただけだ。
証拠など何もない。
そして、道興の姿もあれから見ていない。
多分、彼に会うことはもうないのだと思う。
おそらく、彼はもう———。
そう。きっと、もういない。
美月との約束を守るために。彼は、彼女に会いに向かったはずだ。
―――あぁ。二人はもう、いないのだ。
沙霧の目から、透明な雫が溢れ出した。
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