第10話

 珍しい陶器を買ってきた珠華は、ざわついている人々の群れをかき分けて汕子の元へと戻ってきた。何やら、男が女を取り合ってもめていたようだ。結構な修羅場だったようで、皆、若い奴はいいねえなどと声を揃えている。


「ごめん、汕子。店主と話をしてたら遅くなっちゃった。…あれ、志輝は?」

 汕子の側にいるはずの志輝が見当たらない。

 それに汕子の表情は固く、顔色も悪いように見えた。嫌な予感がして、珠華はまさか、と思いつつも、汕子の言葉を待った。


「…雪花さんを連れて、どこかに行ってしまったわ」

「…え」


 やはり嫌な予感は的中である。


「眼帯をした人が、その…。雪花さんと口づけしたの。それを見てた志輝が、そのまま———」


 眼帯、と言われて思い浮かぶのは一人しかいない。

 迦羅の皇子、花嗣・羅儀だ。一人で花街に滞在している事は白哉達から聞いていたが、問題は弟である志輝のことだ。

 どういう流れなのかは判らないが、やばいな、と珠華は天を仰ぐ。

 我が弟は、思いのほか忍耐力がない。特に玄雪花とのことに関しては、杏樹より厳重注意を受けている。色んな意味で。

 今まで他の女に大した興味を抱かなかった反動からか、あの少女に対してだけは、並々ならぬ思慕の念を抱いているのは確かだ。思慕、というより一種の執着か。


(志輝…。あんた、お願いだから理性だけは手放さないでよ)


 ここで雪花との関係が修復不可能になってしまえば、せっかく考えた計画がおじゃんだ。

 いつもの冷静な彼なら分かる筈だが、果たして———。


(今まで異性に対しては、関係はもてども踏み込まない、踏み込ませない、淡白で理性的な冷たいやつだったけど。どこでトチ狂ったのか、今じゃその理性もすぐにプツンと切れる紙縒同然だし…。ああもう、馬鹿な真似はやめなよ、志輝…!)


 珠華は疲れた吐息をはきだすと、汕子の肩を叩いて屋敷に戻ることにした。

 置き去りにされた汕子に、申し訳なく思いつつ。


「志輝は、本当にあの人が好きなのね」

「あー…」


 微妙な立ち位置にいる珠華は、答えに窮する。機嫌を損ねたかな、と横目で彼女を見たが、汕子は怒っていなかった。考えるように、視線を地面に落としている。


「あんなに怒った志輝、初めて見たわ。あんな風に感情をだすなんて…。志輝を変えたのは、彼女なの?」


 汕子の問いに、珠華は首裏をかきながら頷いた。


「…そうだね」


 雪花が、過去や血に囚われていた志輝を助けてくれた。珠華が夫に助けられたように。


「例え私と結婚したとしても、きっと、あんな顔は見せてくれないでしょうね。…悔しいけど」

「汕子、」

「…だからこそ、嫌なの。土俵にも上がってこない彼女が。私は、今回ここにきたのは、一族のこともあるけど。…私自身、ちゃんと、志輝に気持ちを伝えるためよ」


 きゅっと唇を結びながらも、前を向く汕子の横顔は美しい。

 汕子はこうみえて、性格的に曲がった事は大嫌いだし、何より負けず嫌いだ。

 だけどそれは、決して嫌な印象を与えるものじゃない。


「…私は、二人、どっちの味方をするわけでもないよ。どっちも好きだからね」


 卑怯な言い方かな、と思いながら珠華は小さく笑う。


「ありがとう、珠華。…あーあ、貴方が男だったら、志輝よりも貴方を選んだのにね」

「ははっ。確かに、志輝よりもてる自信あるよ」


 二人は目を見合わせて笑うと、汕子が珠華の腕を引く。


「志輝をじっと家で待つのも辛いから、もう少し買い物に付き合ってくれる?」

「うん、勿論。そういえば、美味しい甘味屋が…」


 そして二人は雑踏の中、道を引き返して行った。



 ◇◆◇



「部屋は空いてますか。できれば静かな部屋がいい」

「ひぇっ!?あ、え、ええ、さ、三階の柊の間が、」

「金が足りなければまた後で言って下さい」

「は、はいっ」


 志輝は、雪花を抱えたまま出会い茶屋の店主に金を握らせると、そのまま足を進めていく。

 店主の男は突然現れた麗人に、案内することもなく呆けたまま見送っている。

 仕事をしろよ、そしてこの状況がおかしいと思わないのかと、担がれたまま雪花は目で訴えるが、店主は志輝の美貌に心奪われそれどころじゃないらしい。

 さすがの雪花も、出会い茶屋となれば危機を覚えるわけで。なんせ男女の密会場所を提供している店である。聞きなれているはずの情事の声が、何故かやけに大きく響いてくる。

 いつものように「何すんだ、やめろ!」と言いたいが、今の志輝にはそれすらもただの起爆剤にしかならない気がして、雪花はますます逃げ場を失っていく。

 志輝は黙ったまま三階まで辿りつくと廊下を進み、一番奥にある部屋の扉を開け放った。手前には簡易な卓と長椅子がおかれ、その奥には寝台がある。情事の匂いを紛らわせるためか、それとも雰囲気を作りだすためかは分からないが、部屋には甘ったるい香が焚かれている。

 志輝は寝台の上に雪花を下ろして座らせると、雪花の足元に膝をついた。

 志輝は何も言わない。そのまま長い指を滑らして、雪花の靴を脱がせにかかる。


「…っ」


 指が触れた箇所が熱を帯びる。息を飲む雪花に追い打ちをかけるように、志輝は脱がせた足の甲に口づけた。


「ちょっ、き、汚いから、そんなことやめて…!」


 志輝は無言のまま両方の靴を脱がせると、布団をめくって雪花を寝台へと押し倒した。

 いつかみた、仄暗い熱と欲望を孕んだ目が雪花を覗き込んでいる。飢える獣のような目だ。

 彼は指の腹で、雪花の唇の形を確かめるように何度もなぞる。


「…今日は、何をしていたのですか」


 やっと口を開いたと思えば、志輝から出たとはそんな台詞で。


「な、何をって…。美月さんの、事を、調べに…」


 雪花はとりあえず、逆らうことをせずにその質問に答える。


「何か分かったのですか?」


 唇を弄ぶ指先に、奇妙な感覚が背筋を駆け抜けていく。雪花は耐えるように、敷布を握りしめた。本当は逃げ出したいが、そんな素振りを見せれば一思いに牙を突き立てられそうで、奇妙な構図のまま話を続けるしかない。


「…若旦那の亡くなった両親が、美月さんの仇かもしれなくて。彼女はそれを知っていたのかはわからないけど、それで色々、考えだしたらわからなくなって」


 そう説明すれば、志輝は自嘲するような暗い笑みを唇に浮かべた。


「…なるほど。まるで、私と貴方のようじゃないですか」

「え?」

「貴方の家族を奪ったのは、曲がりなりにも私の実父です。そして生き残った貴方を望むのは、その子である私。…美月という女性に失礼でしょうが、殺される事でその男に復讐できたのでは?」

「…どういう意味ですか」


 志輝の言いたいことが分からず、雪花は眉をしかめる。


「ですから、貴方をやっとこの手にすることができると思った矢先に、貴方の存在が目の前で消えてしまうこと。それは、私を奈落の底に落とすも同然。絶望しかない。そして貴方は残酷にも、似たような事をしようとしている。———私の前から姿を消すことで」

「っそんなこと、」


 狼狽して息を飲んだ雪花を、志輝は極上の微笑で一蹴した。その黒曜の目は静かだが優しさはなく、氷柱のように尖っている。雪花をあからさまに詰っていた。


「一度は掴んだくれた手を自分から切ろうとしている。ねえ、随分と残酷な仕打ちじゃないですか。そんなこと、今更許されるとでも?」

「っそんな、私はただ———」


 反論しようとすれば、上から注がれるきつい眼差しが言葉を奪う。


「先ほどだってそうじゃありませんか。何で、許すのですか」

「え?」

「なんで、他の男に口づけを許すのですか。貴方は私に応えてくれた筈なのに」

「べ、別に許したわけじゃ…!あれは、羅儀が勝手に!」

「でも、その前に貴方が奪ったと」

「そ、それはっ。迦羅で、場を切り抜けるために仕方がなく、その、嘘も方便というか、そもそも羅儀が———」


 志輝は長い睫毛を伏せると、それ以上は何も言わせないように、雪花の小さな咥内に指を侵入させた。


「んんっ!」


 志輝の長い指が、咥内を無遠慮に荒らしていく。歯列をなぞり、口蓋、頬裏、舌。余すことなく犯される。

 志輝の胸を何度も叩くがビクともせず、離してくれない。むしろ全身で押さえつけられる。

 溢れた唾液が口端から零れれば、志輝は誘われるように舐めとり、そのまま唇を頸へと滑らせる。

 きつく吸われはしないが、音を立てて志輝の唇は下へと下がっていき、服の合わせ目を解かれていつのまにか心衣が露わになっていた。

 さすがに雪花は焦り足をバタつかせるが、志輝が体重をかけて押さえ込んでいるためなんの効果もない。志輝の匂いに、壮絶な色香を含んだ眼差しに頭がくらりとする。意識を彼に、その熱に奪われる。

 舌を弄る指を噛むしかないと思うのだが、獣のような眼差しを前にできなくて。でも、このままでは色々駄目だと意を決して噛もうとしたら、それを見越したように指を引き抜かれた。


「———っふ…!」


 雪花は水面に浮上する様に息を吸い込むが、すぐに塞がれる―――今度は志輝の唇に。すぐさま舌を絡め取られ、呻きさえも彼に吸い取られ消えていく。志輝から伝わってくる熱にあてられ、全身から力が抜けていく。思考がぐずぐずに溶けていく。

 そんな雪花を狂おしそうに見つめながら、志輝は唾液に濡れた指を雪花の頸に這わせて心衣を剥ぎ取った。冷えた空気にさらされた胸が、ふるりと震えた。

 志輝は唇を解放することなく、熱い手を雪花の胸に這わせていく。時たま唇は解放されるが、すぐに捉われて何度も執拗に貪られる。まるで呼吸まで支配するように。絡み合う舌が痺れていく。


(どうなるんだ、私は…)


 掻き消されていく理性と、無理やり引きずり出される熱に心がついていかない。置いてきぼりをくらっていく。心と体がばらばらになっていく。


(バチが当たったのか…。私が半端だから。答えを出さなかったから…)


 なら、このまま流されようか。そうしたら、彼は怒りをおさめてくれるだろうか。まぁ元々、そこまでの貞操概念は持ち合わせちゃいない。やったか、やらないか。ただそれだけだ。

 だけど、それで彼は満足するのだろうか。いや、逆だ。満足させられる身体でない事に気付くだろう。

 彼が相手にしてきた女性達のように女らしくない体つきだし、身体にはいくつもの傷がある。

 そうしたら、彼は雪花から遠ざかっていくのだろうか。なら、その方が良いかもしれない。

 汕子の様に、彼女のように全てを兼ね揃えた女性の方が、志輝の隣に立つのがふさわしい。きっと誰からも祝福される。自分とは違う。

 そこで、雪花は気づいた。

 心の奥底に溜まっていた、切なく苦しい滓の存在に。


(…私は、怖かったのか?)


 他の女と比べられることが。志輝に、嫌われることが。

 もっともらしい言い訳を並べて、踏み込みもしないで。


(この男の為と言いながら、逃げようとしていたのか…)


 そして、どこかで嫉妬していたのだ。身分も教養も兼ね揃えた、彼の隣に立っても引けを取らない汕子を。そうだ、本当は羨ましく思ったのだ。

 胸を張って隣に立てる彼女が。


 ああ———最低だ。


 臆病者は、卑怯者は自分じゃないか。


「———雪、花…?」


 志輝の手が止まり、透明な糸を引いて唇が離れる。なんでだろう、志輝の顔がぼやけている。だけど彼が目を瞠り、固まったのが分かった。そして苦し気に美しい顔を歪め、雪花の顔に手を伸ばしてくる。

 思わずぎゅっと目を瞑って身構えたら、目尻から大粒の涙があふれ出したのが雪花にも分かった。志輝の震える指は、雪花に触れる寸前で止まる。


「っう…」


 ぽろぽろと雨粒のように、涙が次々と敷布に零れ落ちては吸い込まれていく。噎び泣き、嗚咽が止まらない。

 こんなの卑怯だ、泣くな、と自分に言い聞かせるのだが、堪えようとすればするほど熱い涙が頬を伝う。馬鹿なのは自分なのに。

 志輝が自分の名を呼び、雪花を躊躇いがちに抱きしめた。その両手は震えている。何度も、ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きそうな声が降り注ぐ。

 そして乱れた雪花の服を元に戻すと、志輝が離れていこうとした。

 雪花は反射的に、彼の腕に縋りついた。


「っやだ…!待っ、て…!」

「でも、」

「いやだ…行かないで…!」


 自分でも何を言っているの分からない。確かに志輝は怖かった。それなのに、その相手に縋りつくなんて。心がもうぐちゃぐちゃだ。でも、離したらだめだ。

 無理にでも振りほどこうとする腕にしがみ付き、その胸に顔を埋めて、しっかりとその背を捕まえる。

 だって、自分よりも傷ついている顔がそこにある。

 ―――そうさせたのは自分だ。


「…雪花、すぐに戻りますから今は、」

「っいやだ!」


 おまえは子供か、と思わず自分に呆れたくなるが、駄々をこねるような言葉しか出てこない。だって今、離してしまったら。何か手遅れになるような気がして。

 すると志輝の震える吐息が頭頂部に落とされ、硝子に触れるように、そろりと雪花の背を抱きしめた。


 二人とも、しばらく何も言葉を発しなかった。ひっく、ひっくとむせび泣く雪花の背を志輝の手が規則正しい律動リズムで擦っていく。

 さっきまでは怖かった。全てを奪われ、志輝に囚われ、底なし沼に引きずり込まれるようで。でも、どうしてか安心を与えてくれるのもこの腕の中なのだ。


(…馬鹿だったのは、私か)


 落ち着きを取り戻せば、思考を覆っていた靄が晴れていく。

 そりゃ、羅儀に阿呆や馬鹿だの言われるわけだ。

 本当に自分は最低だ———。


「すみません…本当に。許して下さい…」


 雪花が落ち着いたのを見計らって、志輝の身体が離れていく。


「つい、頭に血が上って…。貴方相手だと、余裕がないんです。最近は特に」


 志輝は雪花の乱れた髪を、いったん紐を解いて手で梳いていく。その手つきは許しをこうように優しい。


「貴方は羅儀殿下とも、グレン殿下とも仲が良いですし。…口調からしても、私よりも二人の方が距離が近いし」

「っそれは、羅儀は元々同業者だと思ってたし。それにグレンは昔に少しの間、一緒に過ごしていたから…」

「この際だから言わせてもらいますけど、貴方は誰に対しても距離が近すぎます。それは貴方の良い所だと分かるのですが、私は心配でならないんです。…貴方を縛ろうと、奪おうとする自分を押さえられなくなってる。貴方を傷つけたくないのに、守りたいのに、自分が毎回傷つけているんです…」


 雪花の髪を器用に結ぶと、志輝は立ち上がった。


「貴方に手を伸ばして欲しいと、こちらの舞台に立ってほしいと思っていましたが…。少し、焦りすぎたのかもしれません。きっとこのままでは、貴方を傷つけてしまう」

「っちが…!私が、悪いんです!」

「いいえ、貴方を毎度泣かせている時点で、私に非があります。…でも、覚えていて下さい。これが私なんです。貴方の前では、自分でも感情を制御コントロールできない無様な自分がいるんです。それを引き出すのは、多分、後にも先にも貴方だけです」

「…っ」


 志輝は自嘲するように力なく笑うと、雪花の手を取って立ち上がらせた。


「…行きましょう。嫌でしょうけど、せめて送らせて下さい」

「嫌なんかじゃ、」

「いいえ、力づくで襲おうとしたんです。…すみません」


 そう言って、志輝は雪花から手を離して歩き出していく。

 違う、自分が悪いのだ。

 その背中に向かって叫びたいが、今は何を言っても聞き入れてくれないだろう。

 彼を深く傷つけてしまったのだ。…自分の不甲斐なさ故に。

 雪花は再び泣きそうになって顔を歪めたが、頭を振って押しとどめた。

 今の自分には、泣く資格なんてない。

 雪花は黙ったまま、彼の背中を追った。


 これからどうやって、彼との距離を取り戻せば良いのかわからないまま。

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