越境
砂の豪風は明け方まで続き、止んだ。砂漠に耀と立つ岩の風下に張った野営の陣で俺は目を覚ました。そこはまるで、砂漠の砂が砂嵐で削がれたことで地下の岩盤が張りだしたような岩だった。三十人ほどの人数が寝泊りできる広さをその岩盤で確保できたのは、まさに天の恵みというにふさわしい。ミスナ教にとってこの自然も神の被造物であるのだ。
岩を見上げ、その威容に感嘆するとともに、少し寂しさも募る。多神教徒にとってはこの岩自体が神、ということにでもなるのだろうか。そこのところの感覚が、いまいち掴めないままだ。
乱れた髪を整えながら晴れた視界を恐る恐る見渡すと、うっすらと東の空が橙色に染まっていた。層雲がパノラマ状に、薄く長く東の空に横たわっている。
季節が変わっていくことを感じさせる空だった。それを俺は凍りついたように動けないまま、立ちすくんだ状態で眺める。
「やあ」
寝ぼけ眼をこすりながら、セオが歩いてくる。彼自身の話によると、セオドア・キャリー・ルイスというのが正式な名で、面倒だからセオと読んでほしいと各地で出会った人に触れ回っているそうだ。
面倒なのは名ではなく、それに付き従っていつまでも離れてくれない自身のルーツなのではないかと俺は踏んでいる。確証はないが、彼には俺と同じ匂いがする。しかし、そんなことは、今はどうでもいい。
「どうも」
俺はどうも眠れなかったらしい。頭がズキズキと脈を打って痛む。壮観なはずの景色も、目に刺さるようだった。心なしか不愛想になってしまった朝の挨拶に、セオは機嫌を悪くしたかと心配だったが、どうにも痛みに耐えがたく彼の顔を見上げることは諦め起こした身体を再び横たえるべく、テントに戻ろうとする。
「おや、ロドさんは二度寝ですか?」
からかうように俺の顔を覗きこんだセオは、その寝ぼけて呆けた顔を引き締めた。
「体調が優れませんか」
俺は腕で顔を隠したまま頷いた。ずっと一人で生きてきたからか、本調子でない姿を赤の他人見られるのには抵抗がある。野生動物が本能で弱った姿を隠すように、俺はまだ人間になれてはいないのかもしれない。
そういえば、俺は妹にはこんな姿を見せたことがあっただろうか。
「うっ」
思わず声が漏れてしまった。妹のことを考えると、締め付けの脈動が一層きつくなる。神が俺を罰しようとしているようで、どこか心が冷え冷えとした。
顔を隠していた両腕で、無意識に頭を抱え込んでいる俺の姿を見て、セオは狭いテントの中で寝袋にくるまった俺の背後に回り込む。そうして、俺の背に優しく触れた。
「苦しかったら、言ってください」
そう言って彼は俺の背中をさすり始めた。それは長身の彼にしては意外なことに、繊細で力を込めすぎず、誰かの背を擦り慣れているような感触だった。
不思議なことに、さっきまで俺の頭を痛めつけていた吐き気を催すほどの激痛が、いくらかマシになっていく。
――なんとか、耐えられる。痛みがその程度になったとき、音が戻ってきた。
「おーい、セオさん? 朝ごはんがもうすぐできそうですよ? 早く全員起こしてきてくださーい?」
語尾をあげる妙な抑揚でセオを呼ぶのは、恰幅がいい女の人だった。
「ああ、すぐ行く。だがロドさんの体調が悪そうなんだ。誰か寄越してくれないか?」
セオの声が通った。それを聞いて、俺は上半身をゆっくりと起こした。
心配そうにセオがこちらを見ている。俺はただもう大丈夫だとだけ言った。
激しく動くと痛みが増すような気がして、俺は身体の調子を確かめながら皆が集まっている場所に近づいていった。いい香りがしたが、今の状態では香りすら気持ちが悪くなる要因になってしまうのがとても残念だ。
「ロドさん、おはようございます」
バナージがそう言ってくれたのに頷きだけで返し、俺は給仕をしている女の人に食欲がないと伝える。
「そうかい? でも今日は長く歩くさね。食べておいた方がいいと思うよ?」
説得にも応じずただ首を振る俺を、女の人もバナージも心配そうに見つめてきた。俺は意図して目を逸らし、地べたに座りながら優雅にくつろぐ駱駝たちの元に向かった。
俺が出たことで俺のいたテントは片付けられつつあった。出来ればもう少し横になる時間が欲しかったのだが、長く歩くと彼女が言ったことを考えると皆を待たせていたのだろう。出立まで駱駝さんに身体をもたれかけさせてもらおうと思った次第である。
ふっくらと横にはみ出すような駱駝のお腹を拝借した。寝れなかった反動で、安定した体位になるとドッと眠気が襲ってきた。俺は、そのまま寝てしまった。金髪の少女が、こちらを心配そうに見ているのが、俺のまぶたの裏でちらついた。
揺りかごで揺られるような心地いい揺れで目が覚めた。目を刺すような強い日差しに驚いて強く瞼を閉じたのち、ゆっくりと目をあける。そこには青空があって、なにやら人の声が多く聞こえた。
体を起こすと、そこには市場の喧噪があった。誰もいない荒野を進んでいたはずの俺たちが、どうしてここに……?
「――ッ」
俺は慌てて、さっきまで自分が寝ていたと思われる馬車の荷台の干し草のなかに顔をうずめた。
粗悪な金を高値で売りさばく、悪徳商人ヘリスが通りを歩いていた――。
なぜ、あいつがここに?
頭がうまく回らない。それに、不覚ながら眠りについてしまうまで行動を共にしていた、バナージ、リオと一族、セオたちはどこにいった?
俺は明らかに、視界のなかに彼らを見なかった。そして俺たちが使役していたのは駱駝だったはず。そもそもここはどこだ? 荒野にいたんじゃなかったのか?
混乱する脳内に、トドメを指す一言が、俺の背の方向から聞こえた。
「おっと、ここにいましたか、ダリ。契約でわかりやすいところに置いておくと言っていたんですが、これはちょっと分かりにくいですねぇ」
「……!」
「やっとあの忌々しい女に邪魔されることなく、お前を独占できます」
「な、なぜお前がここにッ」
「わざわざ部下を遣わしてお前をあの女から離れさせた甲斐があったわ」
「仲間……仲間はどうした!」
「仲間? 連れがいたのか?
荷馬車の上で、じりじりと後退しようと俺は試みている。だが、できない。俺は自分の身体に起こった異常を知る。
「な……なんで脚がッ」
ヘリスは悪趣味に口角をあげてみせた。
「ああ、今後私の元から去らぬように、神経毒を盛ってもらったよ。お前の下半身はもう一生動くまい」
真っ青な空を俺は見上げていた。ついぞ忘れていたが、こいつはそういう男だ。目的達成のためなら手段は選ばない。そのヘリスの手に落ちぬよう、あの鉱山にいた頃は妹に守られていたということも知る。
こいつの性癖は、おかしい。男女問わず、己の前で肉体を傷つけさせ、それを眺めることでこの男は絶頂を得る。サディストと言えばいいのか、サイコパスと言えばいいのか、適当な称号を彼に与えられた者はいないのではないだろうか。
「い、嫌だ」
俺は真昼間の公衆の面前で惨めに泣きそぼっていた。通行人がこちらをゴミを見るような目で見てすぐ目を逸らす。乞食か泥酔者とでも思われているのだろう。
――上等だ。人権を持たないモノとして扱われるのには慣れている。しかし、バナージともう会えないのが我慢ならなかった。彼となら、自分を見つけられると思ったのに。こんなところで、俺は、慰み者になり果ててしまうのか。
「私の連れになにか用ですか」
聞きなれたはずの声が違って聞こえる。温厚なところしか見たことのなかったバナージが、血管が顔に浮き出るほどに怒りを湛えている。
「バナージ!」
するとヘリスの後ろにも人影が見えた。
「対象に連れがいた場合の指示は伺っていませんですからねー。私はちゃんと、対象を一人、薬を飲ませた上であなたに引き渡しましたよー。ご精算を、お願いしますねー」
口調は丁寧だが、その人影はさらに多くの人影を連れている。所詮、裏の稼業ということだろうか。人を必要以上に殺さず、だからといって契約には違反せず、契約金だけを持って行く手腕は見事である。そして、今回ばかりは俺はその闇の稼業に救われた。
「う……クソッ」
ヘリスとて、公共秩序に反する取引を露呈させられても困る。そして少なくとも人数においては、ヘリス側は不利である。
視線を戻せば、バナージの後ろにはセオたちの姿があった。そして、
ヘリスが未練を残しつつここを去るのと万事屋の男たちが満足げに去っていくのを見届けて、セオが話しかけてきた。
「ロドさん、まずは謝らなければいけませんね。私たちは町についてから、あなたとバナージさんを宿場に残して買い出しをしていたのです。少人数になったその隙に、あなたは攫われてしまった。怖い思いをさせてしまったことをお詫びします」
俺はセオの謝罪を許した上で、こう聞き返した。
「リオさんたちとは、別れたのですか?」
「――ええ。この町に入る直前に、袂を分かちました」
俺は胸の中に、寂しさが吹き荒れるのを感じた。
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