29. 「……切れた、のか?」
田代を運んできたのは、教会の居住スペースにある談話室だった。クッションのついた椅子に田代を座らせ、救急箱を傍らに置いて名嶋が彼の足を手当てしていた。スラックスに隠れていた脛の部分にも浅い切り傷がついている。名嶋はそこに消毒液を含ませたガーゼを押し当てた。
「いてて……」
「染みるわよ」
「言うのちょっと遅いよおねーさん……」
目尻に涙を溜めながら田代が声を絞り出す。力なく笑うが、それが強がりなのは火を見るよりも明らかだった。名嶋の応急手当てを受ける田代を、コウキはじっと見つめた。刺さるような視線に気が付いたのは、当の本人ではなく隣にいた古海だ。
「どうしたのコウキくん」
「……いや、あいつの怪我見てただけ」
声を掛けられても、コウキの視線が動くことはない。彼が注視していたのは、傷がついた田代の足首だ。痣だけではなく、何かが擦れたような痕が赤く残っている。コウキは僅かに目を細めた。古海に近付き、彼だけに聞こえるよう小声で囁く。
「カズ。あいつのミサンガって左足についてたよな」
「え? う、うん、多分」
「……切れた、のか?」
「でもそんなに古くなってる感じはしなかったよ」
「だよなぁ……」
最後に田代を見た時は、確かに足首に黒いミサンガが結ばれていた。学校のマネージャーに貰ったものだ、と大切そうに扱っていたお守りは、何故か今はその足から姿を消している。
「……シスター、ちょっとそいつと話したいことがあるから席外してくれ」
「え?」
「ちょっと、コウキくん……」
「手当ては俺がやる。頼む」
膝をついて田代の傷を消毒している名嶋の横に立ち、コウキが見下ろす。その目はただ真っ直ぐに名嶋を見ていた。名嶋はしばらく彼の目を見つめ返していたが、やがてわざとらしいため息を吐いて名嶋が立ちあがった。
「仕方ないわね。いいわ、じゃあドラッグストアまで消毒液買い足しに行ってくるからそれまでによろしく」
「助かる。ゆっくりでいいからな」
にやりと笑ったコウキは、名嶋の肩に軽く手を乗せてから場所を変わるようにしゃがみこんだ。古海はそんな二人を困惑しながら交互に見る。着けていたウィンプルを外して、名嶋はやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「古海くん、二人の事ちゃんと見てあげてね」
「あ、はい、もちろん」
「よろしく。じゃあ行ってくるわ」
そう言い置いて、名嶋は談話室から出て行った。振り返ることもなく、その足取りに迷いはない。コウキはそんな彼女の背を見送ってから、足のガーゼを押さえたままの田代に向き合った。
「さて、田代……その怪我はどうしたんだ」
「ちょっと転んじゃった」
「んなわけねーだろ」
コウキはわざと田代の頬についた青痣を人差し指で押した。田代の声のない悲鳴があがり、慌てて古海が止めに入る。
「コウキくん!」
「おぉ、痛そう」
「いっ……! 酷いよコウキさん! こっちは怪我人だよ!」
「見りゃ分かる。誰にやられた?」
「……っ何で? なんでそんなこと聞くの?」
今までとは打って変わって、田代は警戒するような視線を投げる。口元に浮かんでいた軽薄な笑いはそのなりを潜めていた。コウキは対照的に、まるで好青年のように人好きのする笑みで言う。
「そりゃお前、傷の種類がおかしいからな」
おもむろにコウキは、田代が着ていたカッターシャツの裾を捲りあげた。露わになった少年の薄い腹には、時間が経って黄色く変色し始めている痣が無数に浮いている。顔をしかめるコウキの後ろで、古海が小さく息を呑んだ。
「やっぱりな」
「コウキくん、これ……」
「シスターを外に出したのは、これも含めて話を聞きたかったからだ。田代、ここにお前に危害を加えるような奴はいない。正直に話してくれ。なんだ、この怪我」
コウキの力強い視線が田代とかち合った。対する田代のそれは忙しなく動き続けている。すぐに逸らされた目にコウキは舌打ちを一つすると、よっこらせ、と声をあげて立ち上がった。
「おいコラ田代。ちょっと服脱げ」
「は?」
「え、嫌」
その場にいた古海と田代が似たようなタイミングで声を発する。拒否されたにも関わらず、コウキはまだ諦めの姿勢を見せなかった。
「今シスターいねえんだからいいだろ。おら、その腹の痣も診てやるから」
「医者じゃないでしょ、コウキさん……」
「往生際が悪いな……あ、そうだ」
コウキは手近な椅子を音を立てて引き寄せ、そこに乱暴に腰かけた。背もたれに手を掛けて足を組み、暴君の如くにやりと笑う。ぴん、と右手の人差し指を立てて、こう続けた。
「それを誰にやられたか俺が一発で当てたらいう事聞けや。それならいいだろ」
「全然よくないんだけど。何、コウキさんそういう趣味なの?」
「さて、それじゃあちょっと推理するか」
「探偵ごっこのつもり? ねぇ話聞いてよ。ちょっと、カズさん何とかして」
「えぇー? オレもその傷に関しては気になるからそれは聞けないなぁ」
「わざとらしい……」
歯噛みするも、まだ身体のあちこちが痛む様子の田代は立ち上がって逃げだす兆しを見せない。それを見て気をよくしたコウキは、田代などお構いなしに調子よくしゃべり出した。
「まずその腹と足は違う期間につけられた傷だ。痣の変色具合から見てもそれは間違ってないだろ。その感じだと……腹の怪我は一週間前くらいか?」
田代の肩が小さく動く。物言わぬ少年のサインに、コウキは小さく頷いた。
「んで、足はつい最近できたばっかりの傷だ。その脛の切り傷も含めてな。九重教会でサッカーした時の動きに違和感はなかった。リフティングも軽々やってたってことはやっぱり怪我したのはここ数日だな」
「脛のはまだ出血が続いてた……あ、じゃあ今日できた傷ってこと?」
「だろうな。どうだ? 今のところ間違った点はあるか、田代?」
何も言わない。田代は俯き、口を閉ざしたままだ。
「……まぁいい。あと、お前のミサンガだ。あれはどこにやった」
「……そんなこと聞いて、何になるの」
「気になっただけだ。大事そうにしてたのに失くしたなんて妙だからな」
ポケットから取り出したライターを掌で転がしながらコウキが言う。古海はそれを横で見ているだけだ。田代は、やはり口を開こうとしない。
「お前の足の傷で特に気になるのは左足だ。こうやって軽く見ただけで、重点的に痛めつけられているのが分かる」
スラックスの裾が捲り上げられている両足はどちらも痛々しい傷をつけているが、より酷いのはコウキが言った通り左足だ。足首に巻き付く赤い蚯蚓腫れ、青黒く浮かんでいる痣、まだ血が滲んでいる切り傷などその種類は多岐にわたる。切り傷はガーゼで押さえられているが、まだ手当ての終わっていない他の傷はそのままだ。まだ新しい痣に加え、注視しなければ分からないが治りかけの怪我も疎らに散っていた。
「これ……こんな怪我でオレたちとサッカーしてたの?」
「……治ってるし、別に大丈夫」
「若いなぁ。無茶して後から泣きを見るのはお前だぞ」
「無茶じゃないよ。俺がやりたくってサッカーしてるんだから」
俯きながらも頑なな態度を崩さない田代に、コウキは眉間の皴を深くした。古海に向き直り、ひょいと指で談話室奥の厨房を指す。
「カズ、悪いけどなんか飲み物持ってきて。三人分」
「え、いや、今は」
「いいっていいって。俺麦茶飲みたい」
古海は渋い顔をした。以前、秋原ちえと二人きりにして起きた殺人未遂を思い出したのだろう。彼の視線は厨房とコウキを何度も往復している。コウキは無言で厨房を再度指した。
「……分かった、よ」
「サンキュ。ゆっくりでいいから」
名嶋に掛けたのと同じ言葉を口にする。それが分かったのか、古海は苦笑いを浮かべた。何度も気にするように振り返りながら厨房に向かうが、コウキはしっしっと追い払うような仕草で談話室から追い出した。
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