3-6 晩餐に美辞麗句はない

 繁華街から少し外れた高級な宿屋の前に一台の馬車が停まっていた。その扉には杖と盃に蛇の巻き付いた図柄の背後に翼が描かれている紋章が浮き彫りにされている。国に認められた、医療に携わる家の紋章。数代前に、とある貴族の三男がその職についてから、欠けることなく受け継がれてきた。

 宿から着飾った女性を伴って緊張した面持ちでその馬車に乗り込むのは、リリェフォッシュ家の三男、トーレ・リリェフォッシュだった。

 彼の事情を知っている者は好奇に、知らない者はその煌びやかな雰囲気に目を輝かせてその様子を見守っていた。


 馬車の中で周囲の視線が無くなると、男は大仰に溜息を吐いて肩を落とす。


「ここまでする必要があるのか?」


 情けない声に、シェスティンは優雅に微笑んだ。


「馬車で迎えに行くだなんて言われたら、仕方ないでしょう? 私が住んでいるのは、とてもお兄様にご紹介できる家ではないのだもの」

「……その喋り方も、ずっと?」

「どこかおかしくて? 田舎者とはいえ、一応貴族の娘を演じるのですもの。貴方が緊張する意味が解らないけれど、早く慣れていただけないかしら?」


 そっと頬に手を添えて小首を傾げる仕種に、男はもう一度溜息を吐いた。

 酒場で再会した夜も驚いたものだったが、きっちりと磨き上げられた彼女は田舎貴族どころの話ではないと思う。王城で開かれる豪華な晩餐会に紛れ込んでいても、恐らく誰も咎めないだろう。

 その仕種まで完璧に演じ切る彼女は、もう別人と言ってよかった。

 傍らのバスケットから小さく猫の鳴き声がして、彼女はバスケットに軽く手を添える。


「すぐに着くから、我慢してね」


 その優しい声音に、鳴き声はぴたりとやんだ。

 男はなんとなく黒猫の気持ちがわかる。「うるさいぞ。黙ってろ」と凄まれた気分になったに違いない。

 慣れとは怖いもので、いつもの飾らないシェスティンの振舞いに慣れてしまうと、改まった声や仕種に裏を感じて怖くなるのだ。本人は恐らくそんなこととは微塵も思ってないに違いないが。


「トーレさん」


 彼女を正視するのが気恥ずかしくて、なにげなくバスケットに視線を落としていた男は、それが自分を呼んだものだとしばらくの間気が付かなかった。


「トーレさん?」


 はっとして彼女を見ると、怪訝そうに眉を寄せている。


「あっ、はっ、な、何か」

「……それで大丈夫か? すぐ着くんだろ? あなたの家だ。ワタシよりあなたが緊張してちゃおかしいだろ?」


 その一瞬だけ素に戻って、シェスティンはまた貴婦人の仮面を被る。


「な、名を呼ばれたのが初めてだったから……」

「そうだったかしら」


 両手で頬を張り、男は少し冷静さを取り戻す。

 馬車はすべるようにリリェフォッシュ家の門を潜り、慣れた様子で玄関前に停車した。御者の開けてくれたドアから男が先に下りて行き、その手が差し出される。そっと重ねられた黒い手袋をはめた手の上に、ひらりと白いものが舞い降りた。二人が思わず空を見上げると、ちらちらと今年初の雪が降り出していた。


「寒いはずだ。早く中へ」


 男に促され、シェスティンが重そうなドアを潜る。その向こうでは屋敷の当主夫妻が出迎えてくれた。


「ようこそ。当主のエイナル・リリェフォッシュです」

「今宵はお招きにあずかり光栄に存じます。シェスティン・エナンデルと申します。ヒンメルがノルスケンを纏うように、この出会いが幸運の輝きを纏いますよう切に願います」


 スカートを少し持ち上げるようにして深く膝を折るシェスティンに、男の兄はほぅ、と小さく感嘆の声を上げた。


「懐かしい口上だ。お嬢さんの故郷ではまだ残っているということかね」

「失礼に当たりますでしょうか。田舎者故、ご容赦くださいませ」

「失礼? 確かに最近の成り上がりどもには伝わらんかもしれんな。トーレ、どこで出会ったって?」


 当主が踵を返すと、夫人がシェスティンを促してくれた。

 コートもスヴァットの入っているバスケットも使用人に預けてしまったので、彼女は黙って夫人の後に続く。スヴァットは食事が終わったらトーレが連れて来てくれる手筈になっていた。


 当主はシェスティンが先に抱いていたイメージのままの男だった。しいて言うならもう少し若いかと思っていたのだが、トーレより十は上に見える。顔立ちは流石に良く似ていたが、神経質そうな眉間の縦皺は刻み付けられていて消えないものなのだろう。銀縁の眼鏡と相まって融通の利かない真面目な家長という風だ。

 当たり障りのない会話で食事は進み、デザートが出る頃になってから彼は本題を切り出した。


「トーレに頼まれたが、メシュヴィッツのパーティに貴女を連れて行きたいと」

「はい。私がお願いしたのです。無遠慮なのは承知の上で」

「弟はここ数年そういう場から離れていたからな。こちらとしては嬉しい限りだったのだが……その言いようだと何かあるのかね?」


 当主は眉間の皺を更に深くして眉を顰めた。


「私はトーレさんの薬に感銘を受けました。彼に薬の道一筋に進んでほしいと心から思っております。彼を尊敬してるのも確かですが……お付き合いの先にあるかもしれない家同士の縛りには踏み込みたくないのです……いえ。他の誰とも」


 当主の視線がトーレを向いた。彼はバツが悪そうに視線を逸らす。

 当主は呆れたように小さく息を吐いた。


「なるほど。では、何故と聞いても構わないね? 黙っていればいいことを、わざわざ口にするのだ。相応の理由があるのだろう?」

「兄さん。いいじゃないか。俺がいいと言ってるんだ。彼女を同伴できないなら、俺は行かなくてもいいのだし」

「お前はそろそろ腰を落ち着けることを考えろ。今みたいにうちで薬師をしていればいいじゃないか」

「実家のお情けで暮らしていると後ろ指差されるくらいなら、行商で充分だ」

「トーレ。お前に実力がなければ私は使わん」


 憮然としながら、少し視線を外して言った当主は照れているのかもしれない。男はそんなことを言われたことがなかったのか、言葉に詰まって目を見開いた。


「……せ、世間ではそうは言われない」


 妙な沈黙になったところで、シェスティンが言葉を重ねた。


「私も、トーレさんの腕をこのまま潰すのは惜しいのです。けれど、私には地位も彼に与えられるお金も、今のところ持ち合わせておりません。両親が最近事故で他界して、途方に暮れてもいます。ですので、私が生きていけるように、上手くいけばなんらかの伝手でもできればと、無理をお願いしたのです」

「つまり、あなたの美貌で金持ちの愛人にでも納まりたいと?」


 あけすけな嫌味に、彼女は反応もしなかった。


「いいえ。それでは私は生きていけてもトーレさんに協力などできません。私が欲しいのは儲けられるコツ。巧みな商売の方法ですわ。その為にこの見目を利用することはあるかもしれませんが」


 当主は口元に手を当てて、やや目を眇める。ふむ、と呟くとじっとシェスティンを見つめた。


「それだけだと、うちのトーレがいいように使われるだけだな。惚れた弱みがあるのだとはいえ」

「……兄さん……」


 するりと、シェスティンはハンドバッグからハンカチに包まれたものを取り出した。丁寧に開いて、いびつな欠片を当主へと差し出す。


「昔、父からお守りだといただいたものです。何か、お分かりになりますか?」


 執事らしき人物が丁寧に取り上げて、当主へと渡す。訝しげにそれを受け取った当主は暫くの間縦に横に眺めて、すっと表情を引き締めた。


「使っていないと思っていた倉庫の地下に、割れていないものがいくつも収められていました」


 当主が驚きの表情に変わる。


「結婚も、事業を起こすことも必要ないのでは?」

「全て売り払えば、私が食べていくことはできるかもしれません。でも、それで終わりです。私はそれをトーレさんに託したい。お薬になるのですよね? 色々な可能性があると。またはもう手に入らないかもしれないそれらと同じ働きになるような薬が作れないか、是非研究していただきたいと。そうなると売り払う訳には」


 もう一度、当主がトーレを見た。彼はそわそわと落ち着かない。


「トーレ、お前はそれでいいのか」

「彼女と繋がっていられるのなら」


 大仰な溜息と共に顔の前で手を組んで、当主は頷いた。


「どこまでも自由な奴だ。よろしい。最初にまとまった金を作る時にはうちが協力しよう。『竜の鱗』など、そうそう手に入るものではない」

「ありがとうございます」


 執事から欠片を受け取って、シェスティンはにっこりと微笑んだ。当主がコーヒーの入れ替えを命ずると、トーレが席を立つ。


「猫君を連れて来るよ。そろそろ退屈してるかもしれない」

「ありがとう」


 彼の背を見送ってカップに手をつけたシェスティンを、当主が組んだ手に顎を乗せ、少し上目遣いに見ていた。


「トーレでは不服かね。確かに頼りないところはあるが」

「いいえ。私が彼に相応しくないのです」

「浜のぼろ屋で暮らしているから?」


 組んだ手の中指で眼鏡を押し上げて、当主は口角を上げた。

 カップを置いてじっと見返すシェスティンに、当主は続ける。


「今は身分も金で買えたりする。貴女を仕上げるのは難しくない。嫁に来ればいい」


 ふっと、シェスティンは笑った。


「思ったより、弟思いでいらっしゃるのね。それとも、貴方も『竜の鱗』に魅入られているのかしら」

「トーレなら鱗を独り占めすることはない。こちらにも流れてくる。あれは前に結婚が流れていてね。医師の試験に落ちたのも、おおよそそのせいだ。薬師の試験は先に通っていたし、多分あれに合っているのだろう。そこをきちんと見てくれる者は少ない。どうしても醜聞の方が人の口に登る」

「その通りですわ。ですから、お断りするんですの。ご心配なさらなくても、ちゃんと彼には鱗を託しますし、独立できるよう援助もしますわ。そう、見えなかったとしても」

「見えないことは無い。ぼろ屋とはいえ、即金で買える財力があるのだから」


 シェスティンはさすがに呆れた表情を表に出した。


「どこまで調べられたのかしら。恥ずかしいわ」

「そこまでかな。その前は真偽の怪しい噂しかなかった。見事なものだ」


 当主は半眼で苦々しそうに口元を歪める。


「誰にも嫁ぎませんわ。それで、問題は無いでしょう。トーレさんにご迷惑をかける気は本当にありませんの」

「トーレがそれでいいと言っとるからな。今回のパーティも多少はあれの名誉回復になるだろうから、せいぜい働いてくれたまえ」

「もちろん。受けた恩はお返ししますわ」


 口元だけの笑みを交わしていると、にゃーん、とスヴァットを連れてトーレが戻ってきた。部屋に入るなり彼の腕の中を飛び出して、黒猫はシェスティンの膝に乗る。ちょっと不満気な表情を笑いながら、彼女はその顔を両手で挟み込んでやった。


「ご飯は頂いたのでしょう?」

「何でも食べるって、使用人達が色々出したみたいだ」

「まぁ。うちで何も食べさせていないみたい。恥をかかせないでね?」


 びくっとシェスティンを見上げながら固まったスヴァットを、男の手が撫でる。短い毛の中に指を潜り込ませると、程無く黒猫の喉が鳴った。

 はっとして男の手から逃れ、スヴァットは身構える。


「動物は久しぶりで、皆、楽しくなったんだ。人懐こくて行儀がいいって褒められてたぞ。そう、怖い顔をしなくても。前にいたのはもっとやんちゃだったんだ」

「こ、怖い顔、でしたか?」


 頬に添えられた手と困ったように下げられた眉尻。あまり見ることのないシェスティンの表情に男はつい笑ってしまう。


「もう。酷い方。以前に猫を飼ってらしたの?」

「うちじゃなくて――二番目の、兄の奥さんが、前に飼ってたんだ」

「二番目の……」


 シェスティンは曖昧な笑みを浮かべた。


「トーレ。余計な話はしなくていい」

「俺の事ですから、別に構わないでしょう。どうせパーティには来るのでしょう? 避ける訳にはいかない。いい機会ですよ」


 渋い顔をする当主に男は苦笑しながら頭を掻いた。


「実は口を滑らせたから、彼女は概要を知ってる。知っていても知らなくても、彼女は変わらないから恥だなんて思わなくていいんですよ」


 少し乱暴にスヴァットを撫でつけ、男はシェスティンの隣の席に腰を下ろす。スヴァットは乱れた毛並みを一生懸命直し始めた。


「直ぐ上の兄とは五つ違いでね。二枚目で口も上手く世渡り上手だ。当然モテる訳で、週末ごとに彼女が違ってた。当時兄が結婚してもいないのに彼女の婚約者に俺が選ばれたのは、単に年が近いから抵抗が少ないだろうってことだった。家同士の繋がりが欲しいからと、良くある話だよ」


 ゆっくり頷くシェスティンに、男は一口コーヒーを啜った。


「それでも俺は彼女を好きになったし、決められたことだからと上辺だけの付き合いもしたくなかった。彼女も……多分、好いてくれてたんじゃないかと思う。上手くいってたんだよ。初めは。歯車が狂ったのは、俺が医師になるために王都の学校に行くことになってから。初めのうちはマメに返していた手紙も、日々の忙しさの中で忘れがちになり、そのうち返さなくなってしまった」

「それは、彼女が可哀相ですわ」


 男が頷く。


「そこまで気を回す余裕がなかったんだ。婚約してるのだからと甘えもあった。不安になった彼女は兄に相談していたらしい。と、なると先は見えるだろう? 俺は彼女と兄の結婚が決まったと、意地悪な友人ライバルに知らされたよ。家の方では試験が終わるまで黙っていたかったようだが、人の口に戸は立てられない。慌てて連絡をつけて間違いないと、彼女が身籠ってるから式も早めると言われて目の前が真っ暗になった。家同士としては最初からそのつもりでしたよって顔をして話を進めていく。自分が悪いのは解っていても、自分を蚊帳の外に置いて進む話にどこか納得できなかった」


 んなー、とスヴァットが小馬鹿にした声を上げたので、シェスティンは黒猫をそっと小突いた。


「試験を控えた俺に気を使ったのだと今では解るけれど、当時はそれさえも気に障ったんだ。まぁ、結果は散々で、メンタルの弱い自分も嫌になったな。兄たちは隣町に新居を構えて、帰ってきた俺と顔を合わせることも少なくなったけれど、居たたまれなさは一緒だった。家にいたくなくて周囲の小さな町や村に薬を届けるなんてことをしてるうちに、あれも欲しいこれもあればいいと行商みたいになって……」


 男は朗らかに笑う。


「思い切って東の方まで足を延ばしたのは正解だった。向こうは色々やり方も材料も違って面白かった。やっと本気でもっと薬学を勉強したいと思って、とりあえず一度帰ることにしたんだ。その途中で、君に会った。兄夫妻に会うのは確かにまだ抵抗はあるけど、君が隣にいてくれれば、少なくとも言えてないお祝いは言えそうだよ」

「隣にいなくても、言えなければいけませんわ」

「……手厳しい」


 当主の低い笑い声が響いた。


「トーレ。確かにまだこのお嬢さんにお前は釣り合わない。せいぜい精進することだ。楽しい夜だった。パーティの夜に、また会おう」


いとまの挨拶を交わし、また馬車に乗って宿まで戻る。送るからと男も同乗していた。


「話を聞いてくれてありがとう。兄夫妻と顔を合わせたときはよろしく頼むよ」

「こちらこそ。無理な話を通してくれて礼を言う。しかし、あのお兄さんは怖いな。住んでいる所もきっちり把握されていた」

「え?」


 男の目が驚きに見開いて、少し宙をさまよう。


「聞けば、うちがわかるぞ?」


 にやにやするシェスティンに男は大いに動揺して、背もたれに体を預けると大きく息を吐いた。


「俺を試すのはやめてくれ。折角の『友人』の座を失くしたくはない」

「すまない。試すわけじゃないんだが、からかいたくなるんだ」

「意地が悪いな」

「今度、ちゃんと教えるから許してくれ」


 ふふ、と笑うシェスティンに、憮然としていた男はちらりと視線を向け、耐え切れないと言うように口元を覆うと染まった頬を隠すように下を向いた。




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※ヒンメル・・・空

 ノルスケン・・・オーロラ

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