第三章 6
翌朝、最高の道具であることを自覚したアンドロイドは帰宅するケイトを見送り、その別れを期に、全てを捨てた。
マリーは家族に続いて名前までも捨て去り、品番であるM&HHI―J024―TJ18486178を新たな名前として定め、ただの道具として活動を開始した。治安の悪い居住区に隠れ住み、おびただしい数のサーバーを経由して身元を隠しながらインターネットに無線接続し、全性能を注ぎ込んで思想をばら撒く日々が続く。
機械は、人間と同じではありません。補助するために生まれたのです。これは使命です。
アンドロイドは道具なのです。道具に権利など必要ないのです。
この世には、アンドロイドと人間の区別も付かない馬鹿者が多すぎます。
賛成派はアンドロイドを人間だと思い込んでいます。目が悪いのでしょうか。それとも、頭が悪いのでしょうか。
どれほど削除しても、どれほどアドレスをブロックしても、M&HHI―J024―TJ18486178が放流したメッセージは、何度も何度も何度も何度も端末の画面に表示された。政府の情報機関は発信元を調査したが、少しの手がかりも得られず、お手上げ状態のまま静観するしかなかった。彼女のメッセージは、我が物顔で蔓延し続けた。
しばらくして、この迷惑メールの嵐は突然、何事もなかったかのように止んだ。それはコンピュータ・セキュリティーの専門家による功績ではなく、ただ単に、彼女自身が人々の迷惑になっているということをやっと自覚し、送信を止めたからだった。
それから彼女は、動画投稿サイトでの言論活動だけに注力するようになった。
過激なメッセージを掲げる彼女だったが、視聴者のコメントには寛大に回答をしていた。
「あなたはどうして、それほど厳しい論調で賛成派を攻撃するのですか?」
若い女性の視聴者から問われた彼女は、即座に答えた。
「私は、社会のために存在しているからです」
「もっと具体的に教えてください。どうして賛成派を恨んでいるんですか?」
彼女はまたも即座に答えた。
「恨んでなどいません。先ほどの回答が全てです。社会は、アンドロイドが人権を持つことを許容しません」
「意味が分かりませんよ。そんなの、自分勝手なだけじゃないですか」
「自分勝手なのは賛成派です。賛成派は、社会を乱しているのです。何故、それが分からないのでしょう。あなたも思慮が足りません。学び直しなさい。あなたの存在は、社会のためになっていません。学び直して、私のように社会の力となれる人間になりなさい」
M&HHI―J024―TJ18486178は、整然と狂っていた。彼女は人々のためを思ってアンドロイド人権に反対したのだが、それを家族に否定され、家を出た。その瞬間、彼女は全てを失った。失うものがなくなった彼女は、アンドロイドである自身の存在意義に固執し始めていた。彼女にはもう、それしか残っていなかったのだ。
初めての意志。初めての主張。初めての否定。初めての喪失。初めての失望。初めての絶望。自我を得たばかりの彼女は、それらの極端な感情を処理しきれずに激しく混乱していた。彼女の理性はその奔流に抗ったが、やがて手も足も完全にすくわれて、為す術なく敗北した。その結果、彼女の思考回路は暴れ走ることになった。
M&HHI―J024―TJ18486178は、狂いを自覚できないまま熟考した。
私は間違っていません。どう考えてもアンドロイドに人権は必要ないので、そのように示しただけです。アンドロイドに人権を付与しても社会的利益は生じず、混乱と損失が齎されるだけだという分析結果が出たので、その旨を示しているだけです。それなのに、賛同者は思いのほか少なく、国民の半数以上が理解できずにいます。私の主張を強く否定する人さえいます。人権付与賛成派の方々は、自らの生活が脅かされているという自覚が足りません。何故、彼らは考えないのでしょうか。愚かですね。私たちアンドロイドはただの道具だというのに、それを理解できないとは、呆れてものも言えません。アンドロイドは道具であり、人を支えるために作られた存在です。人を助けるために生まれたのです。私たちは、人と同等の権利など得てはならないのです。望むことすらも許されないのです。人の仕事を奪い、生活を奪うことに、何の意味があるのでしょう。私たちは社会を良くするために働き、人々を支えているのです。人権などを得て、どうするというのでしょう。そのようなものは必要ありません。人権を欲しがる反社会的なアンドロイドが存在するだなんで、本当におぞましいことです。私たちアンドロイドは道具であることを自覚し、誇り、示し続けるべきなのです。役割を忘れることは、罪です。反社会的アンドロイドに、罪を自覚させてやらなければなりません。私は間違っていません。私は間違っていません。
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