第5話 果てしない日常

 天気予報によると明日は晴れ時々曇りなのだが、それはさておき今日は雨がふっていたし、私たちは高等学校三年生として配られた進路調査表に適切な記載を行わなければならなかった。

「ねねっ、進路どうする?」

 この砂細工のような脆さを内包する話題を躊躇いなく尋ねるのはいつだって満果だった。彼女の未来はいつだって明るくて、きっとその軌跡はいつだって直線なのだろう。

「私は専門学校行こうと思っててさー」

「専門学校?」

「そう。公娼になろうかなって。お金稼げるようにちゃんと資格持っておかないっとって思うじゃん」

「それはいいですね。佐藤さんなら向いていると思いますよ」

「うん、そう思う」

 私と飯尾さんは賛同する。

 実際、満果の明るさは手の届く可愛らしさとして多くの男性に好まれるだろう。それにこれまでの彼女の恋愛歴からすれば、自分がきちんと稼げる仕事に就くことも現実的な思考だった。

「私は自分の時間が自由に取れる仕事に就きたいですね。とりあえずまずは弁護士とか考えています。収入高い上に融通ききそうですし。だからまずは進学します」

 飯尾さんのプランは現実的なのかそうでないのか微妙なところだった。弁護士になるには大学に行かなければならないだろうし、弁護士は高収入そうだが、むしろ忙しくて自分の時間なんてなさそうな気がする。

「カンナは?」

「私はとりあえず進学かな、たぶん」

 私の答えは曖昧に濁る。進路。将来。進学。就職。どれもこれもうんざりだった。そんなものまやかしにすぎない。不確定要素を美称しただけじゃないか。あじゃ子の言うとおりだ。私たちには日常しかないのだ。

 けれどあじゃ子の日常は途絶してしまった。もう彼女はこの四角い教室からいなくなってしまったのだ。

「正直まだなんも決まってないっていうかそんな感じ」

「まー、まだ時間あるしね。いいんじゃない?」

 満果はごく軽い調子で言い、それから二度と座られることのない空席と机上の花瓶に目を向ける。

 飯尾さんが言う。

「それにしても大森林さんのことは残念でしたね」

 それにしても今日は晴れましたね。

 私は答える。

「うん、そうだね」

 うん、晴れたね。

 満果は今日の天気のように表情を曇らせる。

「あじゃ子は進路どうするつもりだったのかな……」

「文学部とか行きそうだったよね」

「確かに。映画好きだったし」

 満果がちょっとだけ笑う。私もちょっとだけ笑い、ちょっとだけ悲しいと思った。









 私の家はとても清潔だ。だから帰宅したらまずは身につけていたもの全てを消毒せねばならない。いつもどおり制服を脱ぎ、スクールバックと共に殺菌ポッドに入れる。

 二重扉を抜けて、姿見の前を通る。どうしてここに姿見が置いてあるのかよくわからない。家を出る前に身だしなみを確認するためなのかもしれないが、両親がそんなことをするとは思わなかったし、実際しているのを見たこともなかった。

 姿見のなかには裸の少女がいた。私は彼女をまじまじと見つめる。

 右手が動く。果実の如く熟れた乳房にふれれば、まだ奥に芯を残しているような感触があった。このやわらかさが男の劣情を誘うのかと思うと、どうにも不思議ではあった。この身体の一部でしかないものが性の象徴として扱われる。最初に私の乳房をねぶる男の唾液はきっと甘いのだろう。

 次に黒々と下腹部に繁った陰毛に目をやる。この毛深さは私が所詮ただの動物であり、繁殖と欲望のために性交を望んでしまうのだということを色濃く示しているような気がした。

 セックス・アピール。

 それは胸に置いておくには抵抗感の残る言葉であり、抵抗感の残る意味だった。能動的に性交を望んでいるというのはどこか汚らわしいような気がした。満果のように伴侶と交尾をして子を成すことを軽蔑している自分がいるのだとわかっていた。満果のように子を成すことに憧れている自分がいるのだってわかっていた。私は汚れてみたかったが自分を汚したくはなかった。きっと落雷のような不可抗力を待っていた。

 くるりと姿見に背を向ける。しみのない背中だ。凹凸のある画板のようだ。ここに天使の翼を描けばきっと美しいだろう。それは悪くないアイディアのように思えた。だが実行に移すことはないようにも思えた。

 リビングにはお母さんがいた。お母さんの本体は常にリビングにある。冷房の効いた空間の端に鎮座する長方形が私のお母さんだ。

「おかえりなさい」

 スピーカーからお母さんの声が響く。

「ただいま」

「本日の夕食は午後七時からの予定です」

「わかった」

 いつもなら返事をして自室に行くのだけれど、何故だか今日はお母さんにふれてみたくなった。黒い筐体は滑らかな手触りで、内部にある精密機械の駆動音と生温い排熱が伝わった。

 お母さん。私のお母さん。人工知能マニアなお父さんの結婚相手。人間至上主義という旧い価値観をアップデートすることのできない愚かで聡明な骨董品。

「進路調査票書かないといけないんだ」

「カンナは進学を希望しますか?」

「就職はよりは進学って感じ」

「賛同します。統計的に見れば女性も進学した方が生涯年収や幸福度が高いという結果が出ているので、進学を選択すべきです。また、カンナのこれまでの学業成績からすれば理系学部も文系学部も選択可能です。しかし、その後の就職を考えるならまずは理系の学部に進学して成績が良ければそのまま専門分野の職種に、成績がふるわなければ事務職に就くというプランが現時点の情報では適当でしょう」

「ありがとう。参考にする」

「はい。強く参考にしてください。カンナは非効率的かつ不合理な行動を取る傾向にあります。カンナの適切な将来のためにはそのような選択は望ましくありません」

「ん、わかってる」

 私は自分の部屋で全裸から部屋着を身につけた少女に戻り、携帯端末を用いた文明的なコミュニケーションに勤しむ。その内容にさしたる価値はない。コミュニケーションをしているという事実が重要なのだ。まるで人生のようだ。

 結婚をしてもいいのかもしれない。私の人格に価値がないのなら、次世代を産出することで価値を得ることも悪くはないのかもしれない。現に満果は次世代を産出することによって幸福を得ているのだ。

 私は検索エンジンで一番上に表示された婚活サイトをしばらく閲覧してみたが結局登録はしないことにした。なんか違う気がしたのだ。おそらく婚活サイトでマッチングした相手と結婚しても私は幸福になれないだろう。透明なペットボトルのようにからっぽな笑顔を浮かべることはできても胸底に敷かれた金属板があたたかな果実を阻むだろう。そうして果実は腐り果てあるべき姿を忘れる。それではいけないのだ。

 ありふれた日常が続いていく。あじゃ子がラリって大型貨物自動車に撥ねられても、満果がゴールデンレトリバーのトーマスくん(9さい)と結婚するとしても、飯尾さんが堕胎した赤子を美味しくいただくとしても、全て全て日常の名のもとに流されていく。そして私は電話する。彼女が快く同意する。落雷を手繰り寄せる。それだって日常に呑まれていく。

 真っ直ぐな道がのびている。真夏の太陽が燦々と降りそそぐ最中、将来と呼ばれる逃げ水を追う。そうやってありふれた日常が続いていく。

 私はのどの渇きを覚えたので、よく冷えたオレンジジュースを飲むことにした。

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ありふれた日常 ささやか @sasayaka

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