35.たくらみ

 皆で劇場で観劇しているときでした。上演の合間に女神さまが立ち上がりました。片言ですが意思の疎通ができるようになったポロを相手にデニスとハリは一生懸命話していて、ミハイルとエレナだけが女神さまを見上げました。

「用を足してくる」

「あ、うん」

 言い置いて、女神さまは人込みをすり抜けて行き止まりの方へと向かいます。

 ちょっとちょっと、どこに行くのですかー? 嫌な予感がした時には遅かったのです。


 女神さまが向かったのはもちろん禁域です。参拝者が押しかけているだろう正面側のざわめきが漏れ聞こえてはきますが、禁域の広場は人気がなく穏やかなものでした。

 崖を登りきった女神さまはそのまま禁域に足を踏み入れました。広場の隅には訓練の際に使用される合宿所があります。女神さまはすたすたとそちらに向かわれます。

「め、女神さま。見付かってしまいますよ」

「心配ない。娘たちはお忍びで劇場に来ておったぞ。今ここに残っているのはアルテミシアだけなはずじゃ」

「え……」

「昨日、広場で買い物していたとき、やっぱりお忍びで来ていた〈聖衣の乙女〉の娘たちがそう話し合っていた。ティア、気付かなかったのか?」

 女神さまはにやりと微笑まれます。もう、意地悪な方。わたしがお祭り気分に浮足立って、注意力がおろそかになっていることはお見通しだったに違いありません。


「アルテミシアに何の御用ですか?」

「……」

 女神さまはさっと木陰に身を潜められました。見ると、神殿裏の回廊を誰かが歩いてくるところでした。柱の間を見え隠れする姿は、アルテミシアです。相変わらず凛として堂々としています。

 彼女は合宿所の建物に入りました。石壁にくりぬかれた大きな窓からは室内がよく見えました。アルテミシアは壁に吊り下げられた衣に手を触れています。


 アザミ色のつややかな布地に金糸で花模様が織り込まれた見事な衣です。〈聖衣の乙女〉たちが丹精込めて織りあげた、それが今年の聖衣であることは一目瞭然でした。

 点検するように聖衣を嘗め回すアルテミシアの視線は、ですが次の瞬間には悲しげなものに変わりました。うなだれて思いに沈んでいるようすが遠目にも見て取れます。


「ティア」

 女神さまがひそめた声でわたしを呼びました。

「風の妖精たちに頼んでおくれ」

 そう囁いて具体的に告げられた内容は、すぐには承諾しかねるものでした。

「いけませんよ、女神さま。そんなこと」

「なぜじゃ?」

「あれは娘たちが心をこめて女神さまのために織り上げたものですよ」

「そう。あれはわらわに捧げられる物じゃ。わらわの物をわらわがどうしようが勝手ではないか」

「まだ儀式の前にございます。不手際があったらアルテミシアのせいになるのではありませんか」


「それがどうした」

 女神さまは鼻から息を吐いてせせら笑いされました。

「あの娘、わらわより美しいなどと言われていい気になりおって」

「ええ? アルテミシアがそんな娘ではないことはご承知のはずですよね?」

「あの娘の性根がどうであろうと関係ない。はようやれ、ティア」

「いけませんったら」

「ティア」

 冷然と女神さまはおっしゃいます。

「やるのじゃ」

「…………」


 ああ、もう。この方は何を考えておられるのか。それでもわたしは、風の妖精に呼びかけました。妖精たち、力を貸して。女神さまがお望みです。

 さわりと葉擦れの音が巻き起こりました。穏やかだった禁域の広場を突風が吹き抜けました。わたしの心苦しさなど知らぬげに、いたずら好きな風の妖精たちはくすくすと笑い合いながら窓から室内に侵入し、聖衣を空に持ちあげます。


 驚くアルテミシアの手をすり抜けて、聖衣は滑るように戸外に舞い上がり、近くに植わっていた大きなオリーブの樹のてっぺんにかぶさってしまったのでした。

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