ある日のバレンタイン

泪視点です。




*******



 部屋中に充満している甘い甘い匂い。それに辟易しつつも、娘の麗とお喋りをする。尤も、麗はまだ話すことができないから、一方的に話しかけるだけなのだが。


「れーい、お圭ちゃんは何やってるのかしらねぇ?」

「あー」

「……なんか、アンタからも甘い匂いがするわね」

「きゃー♪」


  麗を膝に抱きながら、服を捲って柔らかいお腹に顔を寄せると、お菓子とは違う、赤ん坊特有の甘い香りがする。それを吸い込んでブー、と息を吹き掛けると、麗がはしゃいだ。

 妻である圭は今、バレンタイン用のお菓子を作っている。在沢、穂積両家のぶんはもちろんのこと、事務所のメンバーや義弟とその家族、小田桐の同期や同僚、先輩にまで配るというのだから、その量は半端ではない。


「あー、うー」

「んー……お圭ちゃんのところに行ってみる?」

「あー♪」

「ふふ。いいわよ」


 麗を抱いて圭の側に行くと、ある程度のことは終わったのか、圭は洗い物をしていた。


「お圭ちゃん、終わったの?」

「あー♪」

「泪さん。麗も」

「あー」


 麗が圭に手を伸ばして抱っこをねだるが、圭は苦笑しながら手を合わせた。


「ごめんね、麗。抱っこはもうちょっと待って」

「ぶー」

「あらら。まだ何か足りない?」

「ううん。ラッピングがもう少しかかるの」


 そう言ってテーブルを指差した圭は、ふう、と溜息をついた。テーブルの上には、ラッピングされた大量のチョコレート菓子が乗っており、一部はまだラッピングされずにそのままの状態だった。


「あと十五分くらいだから、もう少しお願い」

「わかったわ。でも、見てるのは構わないでしょ?」

「もちろん」


 圭は椅子に座ると、ラッピングを始めた。麗はもの珍しそうに手を伸ばしていた。そんな麗を膝に抱いてその向かい側に座りながら、圭と麗のそんな様子を眺めていた。



 ***



「ただいま」

「おかえりなさい。麗は良い子にしてた?」

「うん。同期とかお父さんたちに構われたてたから、終始ご機嫌で。そのあと穂積のお義父さんのところに行ったんだけど、小野さんに抱っこされてるうちに寝ちゃって……。お義父さん、悔しがってたよ」


 バレンタイン当日。圭は事務所のメンバーにバレンタイン用のお菓子を配ったあと、小田桐と穂積本社に持って行く書類を持ち、麗を連れて出かけていた。麗を見ていてもよかったのだが今日は商談が何ヵ所か入っているうえ、事務所のメンバーも取引先に出かけてしまうため、圭が麗を連れて行くことになっていたのだ。

 預かって来た、と言って紙袋を四つ手渡された。


「瑠香義姉さんから預かったの。小さいほうはお義姉さんたちとお義母さんからで、残りは会社の人からだって」


 そう言われて姉たちからの分をソファーに置き、残りの紙袋の中を覗くと、大量のチョコレートが入っている。げんなりした気分でそれを床に置き、寝ている麗を起こさないように圭から麗を預かると、麗をベビーベッドへと寝かせた。

 「ご飯どうしよう」と呟きながら冷蔵庫を覗く圭の後ろから忍び寄り、後ろから抱き締めながら片手は服の上から胸を掴んでゆっくりと揉み始め、片手はスカートを捲り上げて太股に手を這わせたあと、下着の中へと手を入れる。


「ちょっ、泪、さん……」

「……久しぶりに、圭をじっくり堪能したい」


 手を動かしながら、圭の弱点である低音ボイスと男言葉でそう告げると、圭の耳が真っ赤に染まった。顔を見ると、顔まで真っ赤になっている。


「いいだろう?」

「い、いいけど、先にご飯と、渡したいものが……」

「じゃあ、ご飯のあとで」


 たっぷりと味わわせてね、と囁いてから解放すると、圭はご飯の支度を始めた。

 食後、圭にソファーに座るように言われたため、素直にソファーに移動する。しばらくすると、圭がシェイカーを振ってカクテルを作って持って来た。


「はい、お待たせ」

「あら、カクテル?」

「うん。Kretchmaクレッチマって言うカクテルなの」


 そう言って、カクテルとチョコレートを渡された。チョコは、昨日作っていたものとは違うチョコ。


(いつの間にこんなの作ったの?)


 配ると言っていたもの……圭が作っていたものは、ブラウニーだったはずだ。百円均一で買った小さな紙の型紙に生地を入れて大量に焼いていたはずなのに。

 圭に渡されたものは、小さなアルミカップに入った一口サイズのチョコと、同じく一口サイズに四角くカットしてあるチョコだった。


「アルミカップのほうは普通のチョコと同じ感じの固さで、こっちの四角いのは生チョコなんだ」

「いつの間にこんなの作ったの?」

「泪さんが、麗と散歩がてら商店街に出かけてる時」


 いない時に作ったのならわからないはずだ。生チョコを手に取って口に放り込むと、控え目な甘さと、仄かなブランデーの香りがした。


「あら、そんなに甘くないわね」

「でしょ? 少し甘さを控えてみました」


 ふわりと笑った圭に隣に座るように言うと、圭は隣に座る。圭の腰を引き寄せてから、膝にブランケットをかける。

 今度はカクテルを手に取って飲むと、チョコレートの香りが広がった。その風味と裏腹に甘くはなく、仄かな酸味と爽やかな口当たりがまた合う。


「チョコレート風味なのに、甘くなくていいわね。それに、この酸味。これ、なあに?」

「カカオ・リキュールを使ったカクテルで、酸味はレモン果汁だよ。食後のデザートとして出されるカクテルなの」

「へえ。そうなのね」


 カクテルを飲み干したあとで、もう一つ生チョコを手に取ると舌に乗せ、圭の顎を捉えて口を開かせるとキスをする。


「ん……、んっ……」


 圭の口の中でチョコを溶かすように舌を絡め、長いキスを終えると、圭は俺の服を掴んだまま、ぐったりと凭れかかった。


「今度はアタシの番ね」

「あ、あの……ちょっと待って……!」

「もう、何?」

「ご、五分でいいから! 先に寝室に行って、目を瞑って待ってて」


 お願い、と言われてしまっては仕方ない。冷蔵庫から水を二本取り出して先に寝室に行き、ヘッドボードに水を乗せると、ベッドの端に座って目を瞑る。まだかしら……と思っていると、圭の部屋……今は麗の子供部屋になった扉のドアが開く音がした。


「お待たせ」

「……っ! 圭?! その格好……!」


 目を開いて圭を見ると、圭は透けている下着……ベビードールを着ていた。去年の誕生日に見たオープンベビードールではなく、ごく普通の、透けているだけのベビードールだったが、それはそれで……エロい。


「あ、あの……去年は結婚式とか、妊娠が発覚したりとかでバレンタインは何もしてなかったし、今年の泪さんの誕生日もきちんとお祝いしてなかったし……きゃっ! あっ、あんっ!」


 立ち上がって圭を引き寄せると身体を回転させて圭をベッドへと押し倒す。


「あっ、泪、さ……っ」

「全く……。相変わらず、びっくりさせてくれるわね。……今日は寝かせないわよ。煽ったアンタが悪いんだからね?」


 そう宣言し、久しぶりに圭をじっくりたっぷり堪能した。


 翌日。もらった大量のチョコレートの全てを、封を開けずに穂積本社に持って行くと、姉の瑠香のところへ持って行った。


「あら、泪。どうしたの?」

「どうしたの、じゃないよ。今日は会議だろ?」

「そうだった。で、それは?」

「昨日もらったチョコレート」

「あらあら」


 紙袋を三つ床に置くと、姉と姉の側にいた秘書の小野は苦笑し、小野のアシスタントの女性二人は顔を歪ませていた。


「姉さんたちのぶんはともかく、それ以外は、はっきり言って迷惑。姉さん、悪いけど、責任持って全部処分してくれ」

「それは……」

「今後、預かるのも、預かったものを圭に渡すのも禁止。姉さんのことだから多分阻止するだろうけど、これ全部、圭輔義兄さんがもらったものだったら姉さんはどう思う? しかも、渡して、って言われたら」

「……」


 姉は眉に皺を寄せて、唇をキュッと噛む。


「圭は優しいからそんなことを言ったりしないし、普段は無表情であまり感情を表に出さないけど、それが表に出ないだけで傷つかないわけじゃないんだよ?」

「……ごめんなさい」

「わかってくれたんならいいよ。でも、圭を傷つけた罰として、コレ、処分して」


 そう言うと、アシスタントの女性二人が息を呑み、「もらってくれてもいいじゃないですか!」と抗議の声をあげた。


「化粧もしてない女なんかのどこがいいんですか!」

「あたしたちのほうがよっぽど綺麗じゃない!」


 開け放たれた副社長室の外からも抗議の声が聞こえる。その言葉に、姉と小野は目を眇て眉間に皺を寄せた。その目は明らかに怒っているのだが、彼女たちは同意を得たと思ったのか、ますます付け上がる。


「何を勘違いしているのかわからないし、お忘れのようだから言っておくが」


 そこで一旦言葉を切り、口々に叫んでいる女どもを睨み付ける。


「私は結婚している。それに、圭は私の妻で、二人の間には子供がいる。化粧してないのも二人で話し合った結果だし、圭は肌が弱くて化粧ができないんだよ。他の人はどうかわからないが、少なくとも私は、妻や親族以外の女性からチョコレートを受け取るつもりはない」


 怒気を含んだ低い声でそう告げると、彼女たちは口をつぐんで青ざめる。俺を怒らせたことに今更気付いたといった感じだった。


「この二人やあいつらをどうするかは姉さんに任せる」

「わかったわ。……もしかしたら月に何回かお圭ちゃんを借りることになるかも知れないけど」

「いいよ。向こうの事務所のほうは大丈夫だし、急ぎの文書があったらメールで送ることになるとは思うけど。……先に会議室に行ってる」


 女性たちを睨み付けながら副社長室から出ると、会議室へ向かった。



 ――その日の夕方。外にいた女性たちは仕事中にも拘わらず、仕事を抜け出したという理由から、小野と姉、その上司からさんざん怒られた挙げ句三ヶ月の減俸処分を言い渡され、アシスタントの二人は、姉や小野が今まで見てきた勤務態度から、今月いっぱいで辞めてもらうことにしたから、と聞かされた。


 それを機に、圭は月の半分以上を穂積本社で過ごし、姉や小野、時折父である社長の補佐をすることになる。


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