2001年7月26日(木) 後半

 そこは確かに、安愚楽の話通り、医療施設の跡地だったのかもしれない。

 階段から降りて入っていった地下は、横幅数メートルの廊下がまず先のほうへと伸びていて、その左右にはいくつもの部屋があった。それから、まず近場にあった部屋に入ってみると、恐ろしく古く、しかし巨大な戸棚が設置されていた。棚にはめられていたであろうガラスは、割れて地べたに散らばっている。そして戸棚の中にはガラス瓶だのビーカーだのが複数並べられていて、その中には黄緑色に濁った液体が入っていた。


 まるでホラー映画の世界である。ビーカーをひとつひとつ、懐中電灯で照らしていくと、中には小動物だかなにかの死体が液体の中に浮かんでいるのもあって――これがいわゆるホルマリン漬けってやつだろうか? 気味が悪くなって、俺たちはすぐに部屋から出た。


 次に、また別の部屋に入る。

 そこにはカビ臭い段ボールが積まれており、横には古新聞が乱雑に散らばっていた。

 日付を見ると――これが案外新しく、1980年のものだった。最低でも21年前には、ここに人が入ったことになるが……。さらによくよく室内を見回すと、漫画雑誌や写真週刊誌も複数落ちていた。ほとんどがねじ曲がったり、変色していたりして、とにかく汚い。手に取ってみる気にはならなかったが、表紙に書かれてあるニュースや発行日付を見てみると、ほとんどが1970年代後半から1980年ごろのものだった。


「誰かが暮らしていたのかね?」


「まさかでしょ……。いくらなんでも、こんなところ」


「分からないぜ。たまたま鍵が開いていたときに、ホームレスなんかが入り込んだのかもしれねえ」


「……そうね。そういう立場の人なら、そうかも。……そうか、さっき私たちが入った雑木林の中の穴。あれがこの地下室に通じているとしたら……。ホームレスの人が外から入り込んで暮らしていて、それが分かったから、あっちの入り口をコンクリートで塞いだのかもね?」


袴田はかまださん、さすがに冴えてるね。それはなかなか納得のいく推測だよ」


 長谷川、みなも、安愚楽がそれぞれの意見を交換しあう。

 それはそれなりに楽しげな議論ではあった。……状況がこんなときでなければ。


「みんな、そんな話、どうでもいいじゃん。それより若菜っちを探そうよ」


 キキラが言った。俺も同じ気持ちだった。いまは冒険よりも若菜が心配だ。

 どうしてか、嫌な予感が止まらなかった。この地下室のどこかに若菜がいるんじゃないかという不安。それも、なにかとんでもない状況になっているんじゃないかという懸念。そしてそれは現実になる。……それから俺たちは、地下をくまなく移動した。小汚い、なにやら酸っぱいニオイまで漂う地下空間を、口呼吸でうごめき回り、やがて俺たちは地下のもっとも奥深くにある部屋に辿り着いた。


 そこに入った瞬間、なにか、殺気のようなものを感じた。

 人間がまだ獣だった時代に獲得したであろう本能が、俺の意識をピンッと覚醒させ、その場の張りつめた空気を皮膚で実感させてくれたのだ。


 室内は見えなかった。

 電気がないのだから、当然だ。


 それでも俺は懐中電灯を、部屋の中に向ける勇気が、なかなかもてなかった。

 やるしかない。やらねばならない。そう思いながらも、どうしてか、電灯を持っている右手が上がっていかなくて……。


「天ヶ瀬。……懐中電灯」


 キキラが、震える声で俺に行動を促した。

 やるしかない。確認するんだ。ここに若菜がいなければそれで済む。それだけの話だ。そう思っていた。


 電灯で、室内を照らした。

 なにもない部屋だった。棚も机も、古新聞も。

 もともとは、なにひとつ物が置かれていなかったであろうその部屋に――




 若菜は確かにいた。




 八畳ほどの部屋の中央に、白目を剥き、舌を出し、血を垂れ流し……。




 制服姿のまま、その場に横たわっていた。後頭部から出血したものが、垂れてきたのか、顔面の半分は血で覆われていた。そして、そして、ここからは昨日の日記にも書いたけれど、いま思い出してもゲロを吐きそうなんだけど、若菜の右手の人差し指は、根元から切り取られ、そしてその指先は天井から、もともとは電灯を吊るすために作られたであろう出っ張りから糸で吊るされていたんだ……。

 

「指風鈴……」


 キキラがつぶやいた。

 その言葉が、妙にこの眼前の現実を的確に表現していたので、俺はいまだにそのときの声をハッキリと覚えている。


 風鈴だ。

 指の風鈴。

 あの若菜の可愛らしく小さな指がぶら下がっている。誰だ、どこのどいつが、なんのためにこんなことをやりやがったんだ!? 俺はそのとき、震えながら呼吸を繰り返し、みなもは甲高い悲鳴を上げ、長谷川はその場に突っ伏して戻し始め、安愚楽は、安愚楽のヤツだけは憎いほど冷静に、だけども青ざめた顔で、


「先生を……誰か先生を……呼んでくる……」


 そう言って、地下室から出ていったのだ。




 そこからが大変だった。

 まず教頭先生と2年の学年主任の先生がやってきて、絶句したあと、警察と救急車を呼んだ。

 救急隊の人は若菜を見た瞬間、「これは……厳しい」とうめいた。その言葉で、俺は若菜が本当に死んだことを悟った。なんで、どうして、こんなことに。そのとき俺は恐怖と絶望と怒りと、自分でも分からない感情に支配され、その場で泣き喚いた。泣きすぎて、泣きすぎて、その後は母親が学校に迎えに来てくれたんだけど、ほとんど立って歩くこともできなかった。


 翌日には警察の人が来て、事情をあれこれと聞かれた。

 今回のことは誰がどう見ても殺人事件であり――若菜の死の直前までいっしょに行動していた俺たちも、たぶん容疑者なんだろうなと思ったが、警察の人はなかなか優しく、俺のメンタルに気を遣いながら事情聴取してくれたのが分かった。


 警察の人は母親にもいろいろと質問していたが、当然だけど母親はこの事件になんの関わりもないので、たぶん向こうが得るものはなにもなかっただろう。警察が質問するたびに、母親が俺をかばうような回答をしてくれていたのが嬉しかった。


 それでも、警察が帰ったあと、母親は俺を抱きしめながら、震えつつ泣きじゃくった。


「若菜ちゃんが、なんでこんなことになるんよ……。あんなにいい子はおらんのに、どうしてよ……」


 子供のころから若菜のことを知っている母親は、自分の娘が殺されたかのように、泣きじゃくっていた。

 その気持ちは痛いほど分かる。俺だって同じ気持ちだ。若菜が、あの、パフェを喜んで食べていた若菜が、カラオケでアニソンを楽しげに歌っていた若菜が、ビーチバレーで俺とにこやかにハイタッチを交わした若菜が、なぜあんな無残な最期を迎えなければならなかったんだ?




 俺はいま、部屋の壁を殴った。

 右手が異様に痛い。だけどこんな痛み、若菜が受けたものに比べればなんでもない。

 怒り狂っている。涙が止まらない。好きだった。若菜のことが、子供のころからずっと大好きだった。もっと一緒にいたかった。ずっと側にいたかった。


 俺は犯人を許せない。

 必ずどこかにいるはずだ。

 警察に逮捕してほしいって気持ちもあるけれど、それ以上にいま俺は、復讐がしたい。

 俺は若菜を殺したやつを見つけ出す。そして、この俺自身の手で、犯人をブチ殺してやる。必ずだ。




(筆者注・『俺はいま、部屋の壁を殴った。』以降の文字は大きく乱れている)

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