第86話 ドブのような悪臭
「改めて……久し振りじゃのう? カジ?」
「ああ、そうですね……」
自分とアルティナが対面するのは、何ヵ月振りだろうか。随分と長く会っていなかったような気もする。
「カジがここにいるということは、爺から任された仕事が片付いた――ということかのぅ?」
マクスウェルに依頼された冒険者退治が、すでに筒抜けになっているではないか。アルティナに内緒で頼まれたはずなのに、彼女もそれだけ勘が良いということだろう。
「定期連絡で帰還しただけで、すぐに戻らなければなりません」
「何じゃ、つまらんのぅ。暇なら儂の傍で仕えさせてやろうと思ったのに」
勘弁してくれよ、とカジは思った。こんな我が儘娘に仕えていたら、体がいくつあっても足りない。
彼女の傍にいる護衛たちの様子を見れば明らかだ。アルティナが変な発言をしないよう、隣で秘書らしき女性が神経を尖らせている。予定外の降車に、近衛が慌しく動いていた。
一方、アルティナの護衛をしていたラフィルは、カジの背後に縮こまっている人間族の奴隷に、何か気付いていた。
二人いるうちの、小柄で眼帯を着けた少女。あの顔、どこかで見たことがある。かつて拠点近くで対峙した冒険者ではなかろうか。
「む? お前、あのときの――」
「……」
シェナミィも訝しげな視線を送られていることを察知し、必死に顔を逸らした。
「カジよ。そこの人間族は何じゃ?」
ラフィルにつられ、アルティナもクリスティーナたちに興味を示した。
ここをどう乗り切るか。それらしい嘘を吐いて誤魔化さねばなるまい。
「家事でも任せようかと思って、先程この奴隷たちを購入したんです」
「ほぅ、こんな汚ならしい人間族共を家の中に置くなんて、儂には考えつかないが……」
アルティナは角度を変えながら、クリスティーナをジロジロと観察する。クリスティーナは彼女と視線を合わせぬよう、少し顔を背けた。正体を見破られては、魔族領に逃げてきた意味がない。
「おい、そこのオッパイ!」
「オ、オッパイ? わ、私……ですか?」
「貴様以外に誰がおるのだ。そんなにオッパイを前に張り出しておいて自覚がないのか乳猿!」
アルティナは何を思い立ったのか、クリスティーナを指差しながら近づいてくる。いつもの可愛らしい顔に、今は眉間に皺が寄っていた。
まさか、彼女の正体が王国の元王女であることがバレてしまったのだろうか。
カジたちは固唾を飲み、アルティナの顔を見つめた。
「やっぱり人間族は不潔よのぉ! このオッパイからドブの臭いがするわい!」
「ド、ドブ!?」
「深すぎる谷間は菌がよく繁殖するでのぉ。あぁ、臭い臭い! さっきから珍妙な悪臭がすると思ったら、原因はコイツじゃったわ!」
どうやら、クリスティーナの正体に気付かれたわけではなく、アルティナは人間族の匂いが気になっただけのようだ。
正体が暴かれなかったことに安堵しつつも、クリスティーナはショックを隠せない。
自分の胸は、そんなにも臭いのだろうか。部下やメイドからも浴びたことのない罵倒に、指先と唇が震えていた。
アルティナの暴挙はこれだけに留まらない。彼女の視線は、今度はシェナミィに向けられる。
「おい、そこのデブ!」
「デ、デブ……も、もしかして私のことでしょうか?」
「そうじゃよ!」
今度はシェナミィの前に立ち、彼女のふくよかな腹に指を突き立てた。アルティナの白い指先は贅肉の中に深く埋まり、さらにグイグイと何度も押し込んだ。
「全身に余計な贅肉を纏っているくせにデブの自覚がないのか? 養豚場に送り返してミンチにするぞ、この雌豚!
言葉をオブラートに包む方法を知らないアルティナは、本心をそのまま相手へと浴びせてしまう。人間族への当たりが強い。
「アルティナ様、そろそろ次のご予定が……」
「ええい! 分かっとるわい!」
アルティナはラフィルに耳打ちされ、護衛と一緒にゴーレムの担ぐ演説台へ戻っていく。
「それではのぅ、カジ」
「あ、ああ。またな、アルティナ」
「『アルティナ様』と呼べい!」
「アルティナ様……」
こうしてアルティナは部下と共に街の中へ消えていった。周囲に集まっていた人々も散り始め、人混みは彼女と共に移動していく。
どうにか乗り切れたらしい。カジたちは溜め息を吐き、心の中で無事を喜び合う。
「何か、嵐のような子だったね……」
「悪いな。昔からあんなヤツなんだ」
「どうしてカジが謝るのさ?」
「俺も、アイツを甘やかした連中の一人なのさ」
師匠、先代魔王マクスウェルの初孫ということもあり、彼女に厳しく教育した人物などほとんどいないだろう。マクスウェルですら彼女にデレデレだというのに、他に誰が彼女を叱れるというのか。
「あれが……魔王なのか」
「まぁ、まだまだ子どもさ。態度だけは一人前だがな」
「だといいがな……」
クリスティーナは小さく溜息を吐き、アルティナが消えていった方向を見つめた。彼女を乗せたゴーレム演説台はすでにかなり遠くまで移動している。
カジが安堵する一方で、クリスティーナは彼女の纏うオーラに何か違和感を覚えていた。彼女は胸元に手を置き、胸騒ぎを鎮めようとする。
「なぁ、シェナミィ?」
「どうしました、クリスティーナさん?」
「さっき、アルティナとかいう子どもと話しているとき、妙な感じがしなかったか? 全身の魔力が固められて、息苦しいような感覚が……」
「分かります。あの子が傍に来た途端、何か苦しくなって……ちょっと苦手かも」
シェナミィもそれを感じていた。自分の体内に流れる魔力が薄くなったような、息は吸えているのに窒息してしまいそうになる奇妙な現象だ。
クリスティーナやシェナミィが苦しさを感じる一方で、カジはそれを感じていなかったようにも見える。人間族だけに与える感覚だったのだろうか。
「何にせよ、もう出会いたくはないな」
クリスティーナは踵を返し、カジの目指す自宅へと歩いていった。
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