第78話 一流紳士の狂気
その翌朝、王城の一等客室のベッドで、外科医ハワドマンは目を覚ました。
天蓋付きの豪華な装飾が施された寝具。横から漂うアロマの香りが睡眠の質を向上させてくれた。何とも清々しい朝だ。
昨夜はいささか悔しい思いをした。まさかクリスティーナに逃げられるなんて。
尤も、自分は外部から雇われた只の外科医で、逃亡の責任は警備を担当していた騎士団にあるのだが。自分はたまたまそこに居合わせただけ。何の責任もない。
「やはり、最高の人生は、最高の睡眠からです」
パジャマからスーツに着替え終わると、ドアノッカーが鳴った。
「どうぞ?」
「失礼します、先生」
ドアを開けて入ってきたのは、勇傑騎士団団長のリミルだ。
「ご気分はいかがですか?」
「実に良い寝心地だったよ。特に、アロマの香りがリラックスさせてくれる」
「それは良かったです」
「ま、朝の挨拶はこれくらいにして、騎士団長自らワタクシに何の御用ですかな?」
「実は、昨夜の件で色々と報告がございまして……」
リミルは軽く咳払いをして、少しの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「まず、私が先生の護衛を務めることになりました」
「おやおや、団長自らワタクシを護衛してくださるとは……」
「先生の護衛を任せていた部下が数人、何も言わずに城を逃げ出しましてね。私しか適任がいないようでして……」
「それは苦労をかけますな、ハッハッハ」
護衛が逃げた理由は、ハワドマンの敵味方関係なしに向けられる精霊紋章への好奇心だ。
もしかしたら次は自分が彼の餌食になるかもしれない――そんな恐怖から、精霊紋章を保持する兵のうち数人は彼に気付かれぬよう城を脱出した。
彼らは王国を守るため命を張る覚悟でいたが、精霊紋章に発情するという訳の分からない性癖の持ち主に殺されるなど、さすがに言語道断である。普通に敵と戦って戦死する方がマシだ。
「それから、逃亡したクリスティーナの件です」
「行方は掴めましたか?」
「いえ……王都を封鎖して徹底的に検問を行いましたが、クリスティーナは発見できませんでした。おそらく、川上に逃げたかと」
リミルは机上に地図を広げ、クリスティーナの予想逃走ルートへ指差した。
地図の隅には小さな文字で「作戦名:狐狩り」と書かれている。
ハワドマンもその地図を見つめ、リミルの指した地域の情報について尋ねる。
「この近くに彼女を匿いそうな権力者はいますか?」
「現在、王都周辺はほとんどジュリウス様の息がかかった貴族連中の領地です。すでに彼らへ呼びかけてますから、居場所の特定にはそれほど時間はかからないでしょう」
確かに、地図を見ると王都周辺はジュリウスと近しい貴族たちの屋敷に囲まれている。
となると、彼女が向かうのは、やはり自分と親交の深い貴族の領地だろう。
しかし、誰が敵で誰が味方になってくれるのか、今の彼女に判断できるだろうか。彼女は重罪人の烙印を押されている上、ジュリウスの勢力は数も財力も圧倒的に有利だ。突然裏切られるリスクを考えると、そう簡単には貴族を頼れまい。
「では、こちらの隣国に亡命する可能性はありますか?」
「そこは魔族の支配地域ですよ? 魔族にはギルダという彼女の宿敵がいますから、それは考えられません」
「そうですか……」
確かに、魔族の中には彼女を目の敵にしている者も多いだろう。そんな地域へ亡命するなんて、オオカミの群れの中にウサギが飛び込むようなものだ。
しかし、魔族領は王国の軍事的・政治的な力が及びにくいメリットがある。紐帯となる人物が魔族側にいれば、あるいは……。
一流紳士はクリスティーナの逃走ルートを予想するのが楽しくなってしまった。あちこち地図を眺め、不意に笑みが溢れる。
やはり、自分の責任がかかっていない問題に首を突っ込むのは楽しい。もし失敗しても、自分が失うものは何もない。そういう気楽さが、逆に自分を真剣にさせてくれる。
「今、王国が抱えている問題はクリスティーナの件だけではなく、貴族の粛清などもありましてね。我々勇傑騎士も忙しいのですよ」
「粛清?」
「指揮系統や体制の変更に、僅かにですが反抗の兆しを見せている連中がいましてね」
「ほぅ」
「ジュリウス様が彼らを『片っ端から排除しろ』との命令を下したのですよ。規模は大きいにしろ小さいにしろ、どこかで武力衝突が起きるのはほぼ確実かと」
「やれやれ、王国も一枚岩ではないですな」
「とにかく、今は体制の急速な整備が必要です。我々がクリスティーナの追跡に割ける戦力は限られてきます」
すぐには解決できない問題に直面すると、どうも苛々する。
ハワドマンは我慢弱く、何でも俊敏に効率よく物事を達成できなければ気が済まない。クリスティーナの追跡など、さっさと切り札を使って解決させてしまえば良いものを。
しかし、今の正規軍には彼女以上に力を持つ者はほとんどいないのも確かだ。彼女を捕縛するためには、最終的にそういう人材が必要になるかもしれない。
「なら、戦力を増やせばいいのでは?」
「増やす――って、新たに兵を雇うのですか? 失礼を承知で申し上げますけど、使い捨ての雑兵を増やしたところでクリスティーナに勝てるとは思えませんね。彼女を捜索するために戦力を各地に分散すれば、各個撃破される。仕留めるは、それなりの人材が――」
「なら、個々の戦力を上げればいいのです」
「それは確かに理想的ですけど、短期間の鍛練では限界が――」
「使うなら、大人数の適当に金で集めた者たちより、一人の目的達成意志がより強い者の方が良い」
「まさか、先生――!」
リミルはハワドマンの考えていることが分かってしまった。
世間の常識では、絶対に思いつかない奇策。
「追跡者に精霊紋章を移植するおつもりですか!」
「そのとおり」
ハワドマンはニコッと微笑み、頷いた。
確かに、精霊紋章を移植すれば、短期間で一気に魔力量が増加し、飛躍的に強さを上げることが可能だ。しかし、それは誰かを強くする代わりに、誰かを犠牲にしなければならない。
「王国各地の刑務所から、収監されているギフテッドのリストを取り寄せるよう依頼してくれませんか? それと、彼らの精霊紋章の詳細なデータも添付するように」
「で、では早急に手配いたします……」
きっと、その囚人たちから精霊紋章を取り上げるつもりなのだろう。
早速、リミルは各地へ連絡しようと、客室の出入口へ戻っていく。しかし、彼は扉の手前でハワドマンに振り返り、最後の要件を伝えた。
「ところで、先生にはペイシェントオーガやグラナイトトロルの軍隊を作ってもらわなければなりませんからね。そちらを忘れないでくださいよ」
急にハワドマンの責任が絡む話題になってきた。
何だか、昂っていた気分が白けてしまった。この仕事がうまくいかない可能性も考えると、妙に体へ力が入らなくなるのは気のせいだろうか。
ハワドマンの口から笑みが消え、視線は天井へ向き、フゥと溜息が漏れる。
「早ければ、来月には彼らを実戦投入する予定です」
「ちなみに、どこで彼らを使うおつもりですか?」
「おそらく魔族領になるでしょう。内乱の隙を狙って侵攻されぬよう、布石を打っておきます」
リミルはゆっくり扉を閉め、ハワドマンだけが残された。
やれやれ、面倒くさいが、頼まれた仕事はしなければならないな。
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