条件29 魔王の龍

強い風と咆哮に気づいて、アルターはテントの外に出た。

「なんだ?! 」

いつもの東の豊沃な自然は風と夜の帳に落ち、砂塵の彼方に竜巻が生えるのみ。

アルターはテントの群衆の向こうに影を見つけて眉根を寄せた。

(あの坊主、あんなところで何してんだ)

魔王を連れて逃げろと言ったはずなのに。

しかし彼の性格を考えれば、未だ魔王を連れずに突っ立っているのはアルターの予想外だった。

魔王に関しては過保護なくらい反応するのに。

彼の手にあるのは魔剣か。

と、アルターは木目の皮膚で彼の異変を感じ取った。

(なんだ? )

肌を撫ぜる風が運んでくる、魔力の変質。

「——俺は、マーヤを守りたい」

リョータロの声が、確かに、風にのってアルターの耳に届く。

天啓のように彼のこの先の行動が読み取れた。

「おい、何してんだ!? 」

思わず駆け出す。

——あいつ、まさか!

ぶわりと。

彼の魔剣から魔力が溢れ出す。

「! 」

風塵がアルターの額を襲う。

砂の礫に腕で目元を覆った。

「俺は、マーヤのつくる世界を見てみたい——こんなところでくたばってる暇はねえんだよ! 」

暴風の隙間からリョータロの声が聞こえた。

(マーヤの、世界、だと……? )

次に目を開けた時には、風塵の帳の一枚向こうに瑠璃色があった。

吐いた息が細かな雪を降らす。口元からは上向きの牙が覗いている。

空を仰いだ首元は腕からひと続きに、磨き上げられた宝石の如くに光沢のある鱗がぎっしりと覆っている。

翡翠色の薄氷のような鱗に覆われた耳殻の軟骨は大きく張り出し、何本かに枝分かれして棘を作る。

頭部には、耳の上に後ろ向きの角が生えている。象牙のような白い角。

(竜人——フロストドラゴンの因子か! )

分厚い棘が一本の線を描く尾。

矢尻のような先端を地に垂らす。

竜人として残った髪の間から、羽のような青緑色がまばらに伸びている。

「龍の因子も入ってるのか」

アルターは誰ともなく呟いた。

——あいつは、決めたのか。

魔族になることを。

あの新魔王のために。

「っ……おい、早まるな! 」

竜の足が地を蹴る。

「いくら竜の鱗だっつっても、生えたての鱗は柔らかいんだ! 斑熊の風を防げれる保証はねえぞ! 」

アルターの叫びも虚しく。

竜となった騎士が風塵を巻き上げる影に向かって走り出した。


「魔族じゃねえ……魔族じゃねえ」

テントの隙間から、男のうわ言が聞こえた。

「やだよ……やだよ……」

「なぜですか? 」

涼風のような声が、一瞬、世界を静謐にした。

少女の声にハッとする。

(あいつ、こんなところに! )

「おい魔王! あんたの騎士が——」

彼女の姿が眼に飛び込んだ瞬間、アルターの喉からその叫びは出なかった。

暴風の中。

患者と看護官と、布と器具と、砂塵の吹き荒れる荒野の中で。

魔王マーヤは——少女は、或る男の隣に立っていた。

男の肌は透けて、黄緑色の血液が脈打っている。

呼吸は水面で溺れる人間のように切れ切れだ。

胸が異様に上下している。

虚ろな眼は妙な微動を繰り返している。

その視線が、不意に彼女を捉えた。

くっと見開かれる。

「人……間……? 」

「——」

マーヤは答えなかった。

代わりに男の目から涙が溢れ出た。

「体が……俺の体は魔族になるんだ……俺は人間じゃなくなるんだ……」

人間の彼女を前にした男の視線にアルターはゾッとした。

悲しみ。憧憬。妬み。喜び。悔しさ。

絶望と正気。

「俺は人間じゃなくなるんだ……見ろ、俺の腕はこんな色をしている——緑色だ——人間のモンじゃねえ——」

その言葉に呼応するように、透けた肌に棘が生まれた。腕と擦れたシーツに穴が開く。

男が震える自分の腕を持ち上げる。

ありったけの力で示された腕は、ベッドから数ミリ浮上しただけだった。

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……」

こわい、と。

男の乾いた唇から転がり落ちた。

「——」

マーヤが男の手を握った。

男がかすれた声をあげた。それは悲鳴だった。

「やめてくれ。あんたに怪我をさせる。俺の体は気持ち悪い。やめてくれ、やめて——」

「なら、私が傷つかないように、あなたに触れればいいのです」

マーヤは言った。

「魔族になるあなたの手を、私はずっと握ります」

眉が痙攣する。

泣き笑いのような、微笑みのような。……縋るような。

「それでは、だめですか」

男の顔から。

憑き物が、落ちた。

「そうか——触れてくれるのか——触れてもいいのか——」

唇が痙攣した。

「そう——か」

きっと、笑ったのだ。

その瞬間。

崩れるように変化が始まった。

マーヤの白い手の中で男の指先が透けていく。

どろりと溶けた。

固いスライム状の肉体は、途中まで変化して、息を引き取った。

——ああ。

理解した。

これが、あいつの守りたいものってわけだ。


暴風の中心地に騎士は居た。

竜が、巨大化した斑熊の首元をかじりついている。

鉤爪を突き立て、黒と白の剛毛をよじ登る。

斑熊にとってかの竜人はノミのようなものなのだろう。

そのたびに斑熊は首を振って、体によじ登る竜人を地に投げ捨てた。

飛べない竜は、代わりに尾を使ってしなやかに着地する。

何度も何度も繰り返す。

幾度目かの着地で、騎士は態勢を崩し地に伏した。

「なに転がってんだ、ドラゴニュート」

放り投げられた竜人を見下ろす。

金の虹彩ドラゴンアイがアルターを逆さまに映している。

「立て。足場を作ってやる」

「……」

牙の生えた口元から小さな吹雪が吐かれた。

棍を構える。

立ち上がった竜人と並ぶ。

「いいか。呼吸を合わせろ。この場の全て、世界と一体になるくらいに耳を済ませるんだ。最適なタイミングなんてのは、決めるのは自分自身じゃない、自分の外側が教えてくれる。そしてそれは——」

ざわり、と。

アルターの肌の木目が瞬いた。

「——一瞬だ」

お前が守りたいといったもの。

これから見られる世界っていう、夢幻という名の未来。

そんなものに覚悟を決めるだなんて、なんて賭けだろう。

なんて酔狂。

だが。

当てられてしまったら、あとは酔うしかない。

——おれもその舌先に乗ってやろうじゃないか。


一方その頃。

「フェンネル! 竜巻がくるっ! 」

「た、竜巻?! 」

シシリアが伝えた突然の自然災害に、収容所は再びの狂騒に陥った。

「あれっ……あれは竜巻じゃありません! 斑熊です! 」

「えっなんで人里に下りてきてるのよ」

「知りません!!! 」

夜空の下、フェンネルは頭を抱えた。

「ユリア、あなたの部下に風を操れる者は!? 」

「うーん、いるっちゃいるけど」

一人冷静なユリアは月を見上げた。

「むしろ、今頃あいつが起き出して——」

「呼んだか姉上! 」

三人の背を影が覆った。

「呼んだよな! この俺! ラルフを!! 」

ユリアが長いため息をついた。

「ラルフ。斑熊の風の実の芽、摘んできて。仕事。上司命令」

登場した青年は姉の命令を鼻で笑った。

「ふっ。誰に物を言ってるんだ? 」

白皙の美少年なのでいちいち絵になる。

ただしその美貌は他人を癒すことはなく苛立ちを煽り立てるだけだ。

「夜は!! 無敵だ!! ふははははは!!! 」

彼はコウモリになると夜空に旅立った。

ぱったぱったと小さな羽音が竜巻に向かっていく。

「……」

「………」

「テンション……上がってんなあ……」

シシリアはぼそっと呟いた。


ラルフ。

サキュバス=インキュバス、つまり夢魔の将軍ユリア=ユリウスの弟。

ある意味で今回の騒動の元凶——とは言い過ぎでも、一因。

齢にして十五。

美青年と言っていいほど大人びて整った容姿を誇り、馬術の大会で優勝しこの若さで群の一角を担うほどの才覚を持ちながら、日光の下では動けず超絶役に立たない男。役に立たないどころか駄々をこねて被害を拡大する少年。

変幻自在の肉体を備え、夜になると活発になる眠らない種族。

彼はアルターなどとは比べようのない、生まれながらにしてホンモノの昼行灯。

吸血鬼だった。

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