第八話 艶やかな唇をした女
日本のみならず世界に名を轟かせた赤嶺財閥の最年少女性役員であって、何度も雑誌の表紙を飾る容姿とスタイル。凛とした大人の色気と少女の趣を残す顔立ちに魅了される者は数多い。
伽耶乃の行動は常に注目の的。
ファッショントレンドに大きな影響を与え、彼女が赤を着れば翌日は街に赤を着た者が増え、青を着れば青が増える。パーティー出席となれば予想番組が組まれ、翌日には解説番組が組まれるほど。
メディアを通じ紹介される美しい姿は誰もの憧れであった。
だが――今の伽耶乃の姿は、そうした様子とはかけ離れている。
「疲れた……
呻くように言う伽耶乃は、テーブルの上に両手を投げ出し突っ伏していた。疲れ切った様子の姿は華奢で小柄な体つきもあって、まるで少女のようだ。
衣装がドレスなのは、上流階級主催のパーティーから戻ったばかりのためである。次のトレンドとして流行するに違いない衣装は、今やクシャクシャだ。しかし、着ている本人は少しも気にする様子はないのだが。
傍らに控える初老の執事が、間を置かず飲み物を差し出した。まるで予め分かっていたかのように絶妙のタイミングである。
「こちらをどうぞ、伽耶乃様」
「ありがと」
伽耶乃はよく冷えた緑茶に癒やされつつ、窓の外へと視線を向けた。
良く茂った木々の森。そこだけ光が当たったような清涼な泉。小鳥が飛び魚が跳ね、水辺には鹿が憩う。まるで物語に出てくるような、美しい光景。
しかしここは、都会の真ん中にある高層ビルの一室。窓の外に広がる景色は、本物と見まがうばかりの高密度精細な映像でしかなかった。
「怠い眠い疲れた……休み欲しい」
伽耶乃は深々とした息を吐くと、夢も欠片もない事を言う。
世間では華々しく思われるセレブリティな生活。しかして、その実態はプライベートの欠片もないブラックな日常であった。
スケジュールの殆どは自分で決める事が出来ず、分刻みの予定が勝手に入ってくる。官公庁や重要取引先などの会議やイベント、講演会や意見交換会に引っ張り出され、その合間にご機嫌伺いや挨拶だのと来客もやって来る。
いずれの場でも言質を取られぬよう、言葉ひとつ仕草ひとつにまでも気を使わねばならない。
さらに担当部門の運営もある。
部下に指示をするためには、当然ながら指示できるだけの知識が必要で勉強が不可欠。さらに、指示を一つすれば報告連絡相談が次々とやって来る。
お陰で忙しくて堪らない。
とは言えど、そうした苦労はメディア報道には出ない。世間では優雅なセレブ生活をしている程度にしか思われていないのだった。
「それで御座いましたら、どうぞ休暇をお取り頂けませんか」
「言ってみただけよ。休んでられないわ」
「事は伽耶乃様だけの問題ではありません。ご存じですか、トップが休まないため部下の有給取得率が非常に悪う御座います。この赤嶺関連の中でも断トツに」
「えっ!?」
「部下を思うのでしたら、まず率先して休暇取得をお願い致します」
「そうなの。ごめんなさい……検討しておくわ」
反省した様子の伽耶乃を見やり園上は静かに頷いた。
「ところで伽耶乃様、クリムト社のパーティーは如何でしたか?」
そして老執事の園上は新たに温かな飲み物を用意する。言わずもがなの事を問うたのは、話題を変えるためであろう。
実際、伽耶乃は水を向けられるなりテーブルに肘をつき、片手をヒラヒラとさせ愚痴りだした。
「あそこの社長と来たら、本当にネチネチネチネチしつこいのよ」
「さようでございますか。それは大変でございましたね」
「しかもね、自分の立場が弱い事を利用して来るのよね。こちらが断り難いように、融資に支援に技術提携とまあしつこくって。相手するのも面倒なのよね」
「いかがなさるので?」
「あら支援の事かしら。当然、却下よ却下」
伽耶乃は断言した。
「ああいう自分の弱さを武器にして要求を通そうとする人間なんて、だーいっ嫌い。自分のお金儲けしか考えてない人の会社なんて、誰が支援するものですか。むしろ、資金の流れを絶って、干上がらせて破滅に追い込んでやりたいわね」
怒ってふて腐れたような口調。赤嶺伽耶乃は世間で思われているよりは、ずっと直情的な性格をしている。
もっとも社長個人が気に入らないからと、会社を破滅させるような事はしない。大勢いる社員たちを路頭に迷わせるほど伽耶乃は傲慢ではないのだ。
そんな主に、園上という執事は穏やかな口調では言う。
「調べましたところ、その者のやり口は彼の社内でも不満の声が多いようですな。一方で別役員の中に、随分と社員に慕われた者がおるようです」
「あらいいわね。そんな人なら、私も支援してあげたくなるわ」
「さようでございます」
園上は深々と頷いた。
雑談的に伽耶乃の言葉が伝われば、忖度の連鎖が始まる事は間違いが無い。かくして一人の零落と一人の栄達が決定されたのだ。
そんな闇は知らぬ伽耶乃は、いそいそと何かを手に取った。フォトフレーム端末だ。それを眺めると表情が緩み、ご機嫌な様子でハミングまでしだす。
「ふふふんっ」
端末に表示されるのは、年の頃は十代の半ばといった小柄な少女。顔立ちは可愛らしく、何を楽しみにしているのか表情は生き生きとしたものだ。青空を背景に、ポニーテールにした髪を背後になびかせ全力で走っている。
「ああ、やっぱり
ふんわりと笑う顔は、完全に癒やされ、まったりしたものだ。広報用ポスターで見せる、きりりとした笑顔とは全く質の違うものであった。これはこれで世に出れば、別の意味で大人気となるであろう。
しかし、それが一転して引き締まり目付きも鋭く、頬を軽く膨らませもする。
「でも、この前は九凛が危険な目に遭ったのよね。そうよ清駿学園の学園長……九凛を危険に晒すだなんて許せないわ。あの人が居なかったらどうなっていたか!」
「お言葉ですが伽耶乃様。報告によりますれば、学園長はむしろ反対の立場だった模様でございます。一人の教員が教育委員会に根回しを行い、強行した結果が危険に繋がったとか」
「……なるほど」
伽耶乃の顔には、ちらりと怒りが現れた。
「なお、その教員は戦闘中行方不明となっております」
「あらそう。残念ね」
残念の意味合いが違うのだろう。伽耶乃の顔は不満そうなものになった。
「それはそうと、九凛の定期考査の成績はどうだったかしら。確か今日が結果発表だったわよね。もちろん成績なんて少しも気にしないけれど」
などと言いながら、伽耶乃はわくわくした顔で答えを待っている。
「乃南様からの報告によりますと、実技試験の成績は学年上位との事でございます」
「当然よね、私の娘だもの」
赤嶺伽耶乃は公的には子供は存在しない。
もしメディアが堅香子九凛が実子と知れば一大スクープとして報じるに違いないだろう。しかし九凛という少女は児童養護施設で育ち、本人ですら自分の出自を知らない。
「しかしながら、筆記試験については下から数えた方が早いとの事でございます」
「ま、まあ……そういう結果の時だってあるはずよね、うん」
賢い執事は、過去にも報告してきた結果について述べるような事はしない。ただ静かに頷き、穏やかに言葉を続けるのみだ。
「そのため、今はご学友の方々と勉強に励まれているとか」
その言葉に伽耶乃は耳聡く反応した。
「方々? あのユミナ・シューベルトと言う子以外に、友達が増えたのかしら?」
「はい。
「どんなの子かしら、九凛に相応しい子かしら?」
「さて? ご本人様が自らお選びになった方で御座いましょう。相応しいか否か、それを決めるのは、ご本人のみかと思われますが。違いましょうか?」
園上という執事は、主に対し盲目的に従う者ではない。主が道を踏み外さぬよう、間違った事はしっかりと諫めもする男だ。
「うっ、そうよね。もっと子供の事を信じなければ駄目ね」
反省する伽耶乃の傍らで園上は深く頷き、今度は熱い飲み物の準備を始める。そうしながら、話題を変えるべく別の話題を持ち出した。
「どうやら最近は、また新たな危険ドラッグが流布しておるそうでございます」
「まったく、世の中ってものは相変わらずね」
伽耶乃は不満そうな顔で言い放った。
世界には幻想生物と呼ばれる存在が出現しており、それによって人類絶滅という言葉が冗談ではなくなっている。そうした不安が増大すればするほど危険ドラッグに逃げる者が後を絶たず、今や大きな社会問題にまでなっていた。
「詳しくは調査中ですが、噂によれば幻想生物を原料にしているのだとか」
「はっ? あんなものを原料だなんて……」
「すでに、かなり浸透している模様です。最近では青少年にも蔓延しつつあるとか」
「……警察関係だけに任せておけないわね。赤嶺としても、直ぐにでも調べさておきなさい」
「そう仰ると思いまして、既に手配をして御座います」
老練な執事という存在は、どうやらとても手回しが良いらしい。
「危険ドラッグの名前はイマジナリと言うようです」
「イマジナリね……馬鹿げた名前だこと。直ぐに調査なさい」
伽耶乃の言葉に園上は執事の鑑のように見事なお辞儀をしてみせた。
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