悩める青少年の全肯定・後編
「ごめん、レン君。いま私、ものすっごく忙しいの」
教会に駆け込んだレンに対して、常連シスターさんことファーンの対応は素っ気なかった。
「繁忙期って、わかるかな。うん、レン君にはまだわからないかもね。でもね、仕事っていうのは一定の割合でくるものじゃなくて波があるの。いま年に四回あるうちのピークの一つでね、ごめんだけどレン君に割く余裕ゼロなんだ」
淡々と平坦ながらもやや早口で語るファーンは完全無欠に無表情だった。
指で叩けば、からんころんとがらんどうな音が出そうな無の表情。人間、余裕がなくなると顔から生気がなくなる。絶望しているわけではない。絶望というものとは、なんかこう、ちょっと違うのだ。ただ疲労と仕事と心労が重なると、人間の顔面に虚無がこびりつくこともあるというだけであり、人生というのは虚ろなる存在と折り合いをつけて行かねばならないと悟った大人が行き着く先である。
「まあ、それでも? レン君がどうしてもっていうなら時間を割いてもいいんだけど、うち、治療部門だから。その割いた分で誰かの命が手遅れになるかもだけど、レン君はそれでも大丈夫?」
忙しい時に私用で仕事場に来るんじゃねえよ暇人が、という婉曲表現だった。
「だ、大丈夫じゃないです……!」
虚無の瞳を向けられて完全にビビっていたレンは、平身低頭、土下座をしかねない勢いで頭を下げる。
「お忙しいところ本当にごめんなさいっ。お仕事のストレスは奴隷少女ちゃんとの時間で――」
「奴隷少女ちゃん、なんか最近公園広場にいないんだよね。どうしたんだろうね」
「――失礼します! ファーンさんの都合のいい時に愚痴でもなんでも聞かせてくださいっ。それでは!」
ストレスのやり場を失っているファーンの瞳の虚無が濃くなった。レンは撤退を選択した。
もはや自分の手に負えない。仕事のピークとやらが過ぎた時に、いくらでも愚痴を聞こう。いまはただ邪魔にならないように去るだけだ。一礼して、現場から離れる。
治療部門の現場から急いで逃げ出したレンは、礼拝堂で一息ついた。
シスターが対応する受付が設置され、多くの冒険者が行き交っている。すっかり見慣れてしまった光景だ。
教会は、人の感情より生まれた異界、ダンジョンを管理している。冒険者と縁が深い施設なのだ。
ダンジョンから魔物を出さないためにと都市民の祈りを集めた蓋であり、常世と現の出入り口でもある祭壇には今日も冒険者たちが出入りをしている。
礼拝堂の椅子に座るレンは、ぼうっと人の行き来を眺める。
「それにしても、奴隷少女ちゃんが公園にいないってどうしたんだろう」
前にも数日、公園広場を留守にしていたことはあった。ファーンのストレスのためにも早い復帰をしてほしいものだ。そんなことを考えながら、ぼんやりとしていた時だ。
にわかにダンジョンの出入り口である祭壇付近が騒がしくなった。
「あ、ありがとうございます……! あなたがいなければ、全滅していたところでした!」
「私は当然のことをしたまでだ。早く怪我人を治療部門に連れて行くがいい」
「は、はい!」
どうやら救出劇があったらしい。
ダンジョンで危機に陥ったパーティーを、他の誰かが助ける。稀にあることだ。
傷だらけの冒険者を助けた立役者は、どうやら一人の女性のようだった。すらりとした高身長の、スタイルのよい美女だ。
レンの知り合いだった。
「教官?」
「ん? ……おお、隊員ではないか!」
レンが目を丸くしていると、彼女もこちらに気がついた。
スノウ・アルト。
見た目だけは百点満点、武芸の腕前も超一流。ちまたで『聖騎士』とも呼ばれる彼女は、朗らかにレンへと手を振る。
「教官、なにをしてるんですか?」
スノウにはレンを誘拐した挙句、誘拐先で彼に稽古をつけていたという意味不明の行動をしていたという前科がある。とはいえレンは「まあいっか。すごい有名な人だし」と庶民特有の謎の納得で深くは気にしておらず、教官呼びを継続していた。
「少し前から教会勤めになっているんだ。治療部門とやらを任されている」
「へえ! あ、でも治療部門って、いまは超忙しい繁忙期だって聞きましたけど……」
「はんぼーき? なんだ、それは。特殊な箒かなにかか?」
スノウが不思議そうに首を傾げた。
「よくわからんが、なんにしても忙しくなどないさ。治療部門の現場には仕事がないらしくてな。部門長たる私など、ダンジョンに行ってピンチになっている冒険者を助けて来いと勧められるくらい暇なんだ」
体のいいやっかい払いだった。
部門が同じでも、立場が違えばここまで異なるのか。先ほど見たファーンの虚無との落差にレンは戦慄した。
「それで、隊員。君はどうしたんだ? いま一仕事終わったところだ。他でもない将来の部下である君だ。用事があるなら付き合うぞ」
「ああ、いえ。大したことじゃないんです」
「なんだ、君と私の仲だろう? 遠慮など無用だ!」
「いえいえー、だから大したことじゃないんですって!」
スノウに悪気がないのはわかっている。
ただこの人に相談事をすると、事象歪曲現象とも呼ぶべきなにかに巻き込まれる気がしてならなかった。なのでレンは全力の愛想笑いで断る。
だというのに、なぜかスノウは善意で近づいてくる。
「気にするなと言っているだろう? ほらほら、言ってみろ!」
マズい。このままでは押し切られる。
危機感と焦燥感に襲われる。自分の押され弱さをレンは知っていた。かわいい女の子にぐいぐい押されるのとはまた違う弱さだ。ぶっちゃけレンは、男女関わらず年上と権威のある相手には滅法弱いのだ。
「い、いえー……その、ですねぇ……」
愛想笑いを貼り付けて口ごもりつつも、レンは祈った。ここが教会だからこそ、神に祈った。
神よ。偉大なりし世界創世を成し、人類を創造された唯一神よ。全なりし主に願い給う、どうか我をお助け下さいと祈った。
うっかり本気で神に救いを求めるほど、スノウに恋愛相談をするとマズいことが起こる予感がしたのだ。
普段ならば、どこにも届かない祈りだ。
だがここは礼拝堂。例外的に、彼の祈りは聞きとどけられた。
「少年」
踏みしめられた土よりも固く、風に舞う砂埃よりも乾いた声が響いた。
祈りの誤送信を察し、レンの背筋が凍りついた。
「真なる願望による曇りなき祈願、感心である。しかして全能なる神の救いを、この世の人間は自ら肉袋となった故の原罪により、愚かにも投げ捨てた」
「ちょっと待ってください。なにか、これはなにかの間違いです……!」
「ゆえに神は決して人を救わない。主の御手が全知全能であるが故に、人は原罪を克己し、自ら救われなければならない」
思わず真顔になったレンの懇願は、完全に無視された。
その女性は外部からの要素に影響されることなどなく、己の内面で完結している存在だからだ。レンのちゃちな言い訳など通じるはずもない。
「しかして、愚かに迷うのも求道の常」
大量の神典を背負う鉄面皮の修道女、イーズ・アンが礼拝堂で真摯に祈りを捧げた迷える子羊の前に立つ。
「正しき道にあるために、汝が救済の願い、この泥の身が代行して聞き遂げよう」
「……ち、治療部門はお忙しいのでは、ないでしょうか」
「労役は人の義務であり、神に捧げる祈りでもある。信徒に寄り添うのも神に仕える者の勤め。幾重積み上げようと厭うことはない」
「…………」
レンは無言のまま唾を飲みこみ、視線を巡らせた。
「なんだ。前に会ったときも思ったが、隊員はイーズ・アンと知り合いなのか? なかなか得難い資質だな」
「敬虔な祈りを知る者は、神の教えを深く知る。少年はよき導き手を得た仔羊である。ゆえによりよき道を固める術を知る機会が与えられた」
「そうか。なにを言っているのかよくわからん」
右を向けばスノウ・アルト。左を向けばイーズ・アン。とっさに後ろを向くと、開きかけの扉の向こうでは絶賛お仕事に忙殺され中のファーンが見えた。なんの偶然か、一瞬だけ彼女と視線が合う。
助けてください、と目で縋り付く。
すぐに、ふいっと視線が外された。
「……!」
ファーンに見捨てられた。
いつも自分を助けてくれた常連シスターさんに見放されたという事実は、虚ろな衝撃をレンの胸に与えて打ちのめした。
「ふむ。では別室に行くか」
「それもまた、よし」
人の話を聞かない女性二人に肩を押され、静かに絶望したレンは連行されていった。
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