勇者は全否定・後編
一足、地を蹴る。
イチキが控えていた場所は、広場から遠くない。
蹴り上げた反動が生んだ推進力は、少女の細足とは思えないほどの力強さがある。いまのイチキの脚力ならば、ほとんど時間をかけずに目的地までたどり着ける。
魔術でもって、己の『階位』の引き上げているのだ。
人間を階位で分ける知識体系から生まれた、存在として格を上げる魔術。この国の肉体強化とはまた別の概念より生まれた肉体強化。イチキは祖国の魔術に、この国の物質的な近接魔術を重ね合わせている。
二つの強化魔法を併用は、ただの一系統を凌駕する。むろん二種以上の知識体系を理解し、理論をすり合わせ、矛盾のないようにしなければ併用は不可能だが、イチキは己の中で二つの知識体系を消化し身に着けていた。
魔術とは人の感情から生まれるダンジョンとは真逆の存在、人類の知恵と理性の産物だ。
認識を体系化し、かんさつ、試行、証明によって枝分かれを繰り返しながらも人類が後世に受け継いでいった知識の積み重ねが、人の魔力によって確固たる力として定着した。学識を得る度に、人は魔術の深みに足を踏み入れ、謎を解明することでさらに発展させる。
木々に囲まれた、閑静な公園広場。外からでは広場の様子はうかがえないように造られているが、姉と勇者がそこにいる。
勇者への敵意を胸に広場に入ろうとしてたイチキだったが足止めを余儀なくされた。
「これは……」
公園広場を半球状に囲う、強固な壁があったのだ。
その構成を、イチキは一目で見抜く。
イチキのものとは違う。これは秘蹟使いが扱う種類の結界だ。
信仰の壁。魔物に対する最も有用な結界の一つ。隔世という点で、他に追随を許さぬ性質を持つ強固な秘蹟である。
「信仰の壁が、なぜ――」
「しかり。これな光壁こそ信徒に与えられる守護。信仰の結晶である」
横合いからの声に、鋭い視線を向ける。
現れたのは修道服を纏った女だった。余計な装飾の、一切ない素朴さ。反面、背中にはなにが入っているのか、大きな箱を背負っている。
背中に大荷物を背負う特徴的な修道女を見て、イチキは息を飲む。
「イーズ・アン……?」
「いかにも」
面識はない。だがこの国で、イーズ・アンの名は広く知られている。
勇者の、かつての仲間の修道女。皇国打倒の革命運動へ、信仰による正統性を与えた聖女だ。
ここにいるのが、勇者の来訪と別件であるはずがない。イチキは目をきつくして相手をにらむ。
「……あなたがこの都市の神殿にいるの存じておりましたが、また勇者の仲間の真似事をしているとは意外でございますね」
聖女という称号こそ聞こえはいいが、イーズ・アンは狂信者だ。極限近くまで信仰に染まったその思想は、他人というものに興味を示さない。思考回路、行動規範のすべてが神典に基づいており、勇者の仲間であったのも彼女なりの信仰によるものであったはず。
己を神に捧げた人間。
それがなぜ、いまこの時に勇者に与しているのか。
「この地に悲しい来歴の少女がいると聞いて」
姉のことか。
そう思ってから、違うと否定する。
イーズ・アンの信仰とイチキの姉の存在はまったく噛み合わない。でなければ、彼女が革命に協力したはずがない。
そうなると、さっきの『悲しい来歴の少女』とやらの正体は自明だ。
「……もしや、わたくしのことでございますか」
「しかり。異国の生まれ。智恵の子の役割の家系。故国より放逐に近く拐され、寄る辺をなくし、洗礼の機会もなく彷徨うことになった。それゆえに暗き道を歩む非業、悲嘆」
「同情でしたらご親切に、どうもありがとうございます。ここにある結界を解いて消え去ってくださるのが、わたくしにとっては最大のお恵みでございますが?」
「我らが神は人の子の貴賤を問わず、身の沈みゆく少女に救いの道しるべをもたらしたまう」
呼吸をしているのか、疑問に思うほどに抑揚のないの声。まったく動かない表情。
神のしもべになりきった狂信者が、イチキに手を差し伸べる。
「さあ。教会で、洗礼を」
「……」
なにをしに来たのかと思えば、宗教勧誘だった。
イチキは不快にゆがむ口元を袖で隠し、一歩、下がる。
「これだから聖人の類は嫌いでございます」
面と向かっているのに、会話が通じない。信徒への誘いにしたって、他にいくらでもしかるべき相手がいるだろうに、なぜわざわざ自分のもとに来るのか。思考回路がさっぱり理解できない。そもそも、強烈な信者は独自の理論を持っているものだから、行動様式を知ろうと思う方が無駄だ。
だが、イーズ・アンの強さだけは疑いようもない。
イチキの姉が先天的な秘蹟の頂点にあるとしたら、イーズ・アンは後天的な秘蹟の頂点に立つものだ。
あらゆる禁欲を厳守し、苦難の修験を乗り越え、幾多の戒律を踏襲して神の奇跡を希う修道女。奇跡を乞う秘蹟使いの極みだ。
ちらりと広場の方を向く。
勇者がここに入って、どれだけ時間が経ったか。
問答を続けても、この道を開けてくれることはないのだろう。
ならば、挑発を。
「天の壁立つ極み、地の退き限り、御子はあり――でございます」
「異教を唱えるな」
ざわり、とイーズ・アンの声に不穏なものが混ざる。
沸点が異様なほどに低い。だが、予想通りの反応である。
「天は地を生み出した。天の子たる資格は信徒の誓いと洗礼、戒律を遵守した祈りのみ。天に祈らぬ不遜が神の威を纏わんがため天子を名乗る教え、万死に能う」
「果たしてそうでございましょうか? 天子論は世界の歴史に残る概念。事実、この国でも御子があり、最高位の秘蹟が賜れていたはずでございます。それはあなた様方の言うところの、神に認められた証明ではございませんか?」
「異端の口を閉じろ」
イーズ・アンの掌に、光が生まれる。
浄化の光だ。本来、浄化の秘蹟は人を傷つけることはない。人とは異なる魔なるものを滅する力だからだ。
だが教義の解釈によっては、人であろうと異教徒は『魔』であり、浄化の対象になりえる。
イチキは、一息で十五陣の結界を張り巡らさせる。目に見える黒壁。物理的な障害となる壁がそびえるが、イーズ・アンは一顧だにしなかった。
浄化の光を宿した手を前に突き出し、最終勧告。
「異端の放言、撤回せよ」
「あはっ、お断りでございます」
針で突けば弾けそうな声に、イチキは大輪の花が咲くような笑みを浮かべた。
異国装束の袖をふわりと揺らし、行儀よく両掌を合わせて小首を傾げ、一言。
「実はわたくし、無神論者でございますので」
「悔い改めろ」
光が放たれた。
浄化の光が帯をひき、四方へと。イチキが展開した十五陣の魔術障壁を残らず食い破り襲い掛かってくる。防ぐ手立てを失くしたイチキに、直撃した、と見えた瞬間だった。
浄化の光が、イチキをすり抜けた。
防がれたのではなく、すり抜けたという異様な現象。しかしイーズ・アンは揺るがない。イチキの結界の絡繰りを驚くでもなく呟く。
「『階位』」
「さようでございます」
結界の形成に最もポピュラーなものは、壁を作ること。
そして第二に、距離を作ることだ。
魔術は距離を作ることができる。『距離』の概念がない知識体系など存在しないからだ。特に先ほどのやり取りにもあった「天」と「地」は垂直的な世界観より発生するものだ。それに基づいて高低差を造れば、攻撃を空振りさせるのは簡単である。
目に見える障壁は、ブラフだ。距離を作り、認識をずらし、攻撃を届かせないことにこそイチキの得意とする魔術の真骨頂である。
だがイーズ・アンは、異教に対抗して殲滅するためだけに、正しく異教の知識を仕入れている。
知らなければ決して届かないが、知ってさえいれば結界を抜ける方法は簡単だ。高さを測り、距離を測り、認識を正す。高い場所に行くなら足場を作ればいいし、遠い場所に届かせるなら魔力を伸ばせばいい。魔術で距離を作れるのなら、同様に距離を潰せる。当然だ。
だがイチキは、相手にその時間をくれてやるつもりはなかった。
袖から鏡を取り出す。人を映し出ため磨かれた鏡面ではない。複雑怪奇な文様の彫られた、祭事用の銅鏡だ。
勇者を閉じ込めるために用意したものだったが、出し惜しみできる相手ではない。
事前に用意した魔術用具。古い知識概念の世界観を削りだした道具を起点に、最高位の魔術を発動。
「方格規炬四神鏡」
抵抗を、させる間もつくらせなかった。
イチキが創世の祝詞を唱えると同時に、イーズ・アンが銅鏡に吸い込まれる。
これは、結界術の極みの一つ。
高さと、距離と、壁。その三つの術理を理解し魔力で生成することができれば『小さな世界』を創出することができる。イチキはそれに加えて内部の認識を歪め、内部感覚が曲線を描くようになる術を張っている。そうして造り上げた擬似的な無限閉鎖世界にイーズ・アンを叩き込んだのだ。
自分が閉じ込められても、容易には抜けられない。それほどに性質の凶悪な結界に仕上がったと自負している。
「成功、でございますかね」
ただ、結界の極みに閉じ込めてなお油断できる相手ではない。そもそも閉鎖世界に閉じ込めているのに、公園広場に張られていた信仰の壁が解除されていないのがおかしい。
「……」
銅鏡を、慎重にのぞき込む。結界内の相手の状況を探るつもりだった。
瞬間、頭に声が響いた。
「
それは、人の状態を暴く秘蹟の聖句だ。
状況が、とっさに飲み込めなかった。
響いた声と内容に、イチキの思考が混乱する。
秘蹟使いにとって、教えの象徴たる聖句は武器になる。
だが、あらゆる距離と感覚、壁でもってつくったイチキの閉鎖世界に放り込まれたイーズ・アンの声が、なぜ自分に届くのか。
そもそも今のは攻勢の秘蹟ではないはずだ。『
その、はずだった。
「……!?」
イーズ・アンを閉じ込めていた結界が、裏返る。
イチキの目に映ったのは、鏡面の世界。刻一刻と視界の認識と距離が変容するラビリンス。勇者が現れてから創り上げた閉鎖世界だ。
自分の創りだし結界を見せつけられるように、自分の世界に閉じ込められた。
イチキの表情が焦燥に染まる自分の結界が反転し、閉じこめられたのはまずい。だがそれ以上に、なにをされたのか分からないのが最大の問題だった。
「どうして、こんな……!」
「改宗の機会を与える。異端の生涯を悔いろ。己の人生を踏破しろ。修験にこそ悟りは宿る」
焦燥感に炙られるイチキの頭に、再度イーズ・アンの声が響いた。
からん、と音を立てて、地面に銅鏡が転がった。
黒髪の異国風の衣装をまとった少女の姿はない。自らの業により、自らが張った結界の中に閉じ込められている。
彼女の敗因は、一つだ。
「信仰を阻む壁はなく、祈りに届かぬ距離はない」
その確固たる信念が、距離の概念をねじ伏せた。
そして先ほど唱え、異端の少女に捧げた聖句。人の状態をつまびらかにする文言は、極めると、人生を映す祝言となる。その意図で唱えれば、相手に己自身の業を突きつけ、自らの内面世界に導き懺悔を促す聖句となるのだ。
結果、異端の少女は彼女が造り上げた閉鎖世界に閉じこめられた。
地面に転がる銅鏡に、イーズ・アンは無感動の視線をやる。
所詮は学術に頼った魔術の使い手。信仰なき力、神の加護なき相手は、どうということはない。
異国の少女の改宗のために、さらなる厳しい試練を課すべきである。浄化の儀式は厳しいほどに清廉さを増し神の威光を知れる。十重二十重と試練を課すため、新たな聖句を唱えようとしようとした時だった。
「あれ? 先輩?」
全くの善意でイチキへとさらなる追い打ちをかけようとしたイーズ・アンの動きが止まる。
そこにいたのは常連のシスターさんである。
「えっと……」
奴隷少女のもとで今日も力いっぱい愚痴を吐こうとしたところ、たまたま職場の先輩と出くわしたシスターさんは気まずさに頬をかく。
イーズ・アンは職場の先輩だ。
そして彼女は、基本的に戒律に添った行動しかしない。秘蹟使いはおおむねそうだが、イーズ・アンは桁が違う。身をもって、神性とはなにかという生活を体現している様、日々修験に挑んでいることに等しい。
「ファーン」
「はい」
「……もういい」
「えと、なにがですか?」
「己の業を見つめれば、充分な懺悔となる。もういい」
「はあ」
名前を呼ばれたシスターさんは、偶然出会った職場の先輩の言葉に小首を傾げる。相変わらず会話が通じづらくて読めない人だなと思いつつも、スルーするのもよろしくないだろうと判断。今日は奴隷少女のところへ行くのは諦め、この不可思議な先輩が禁制と戒律に添った行動規範以外に唯一興味を示す話題を出す。
「よくわからないですけど、先輩、時間が空いてるのなら神典議論でもしますか?」
「悪くない」
シスターさんの言葉に、イーズ・アンはいそいそと手持ちの神典を取り出した。彼女の背負っている箱には、ぎっしりと本が詰まっている。表紙が人の顔面より大きい紙面で、一冊に付き五百項越え。全三十四巻にわたる神典原本の手製写本全巻に、その他もろもろ教義教典解釈論本。
そして常連シスターさんは、無表情な先輩との話題づくりのためだけにそれらを全て読み込んでいた。ちなみに彼女は人の治療のために神殿に勤めているから、別に信仰はさほど強くないし、興味もない。あくまで同僚の先輩と趣味を合わせているだけだ。
「それで先輩、どうしてこんなところにいるんですか」
「それは……もういい」
「そうですか? まあ、先輩がいいなら別にいいんですけど」
常連のシスターさんと肩を並べるイーズ・アンは、用がすんだとあっさり公園広場に張っていた信仰の壁を解除。
閉じ込めたイチキを放置して、神殿へと向かった。
イチキが自分の結界に閉じ込められた挙句に放置されている頃。
広場では、勇者と奴隷少女が対面していた。
「やあ」
「……」
二度目の勇者の訪れだ。
口元にプラカードを寄せている奴隷少女は、眦をつりあげる。そして、ちらりと視線を広場の外に向ける。
「気になっているのは、君の仲間のことかな。ごめんね。知り合いに頼んで、足止めさせてもらっている」
「……」
奴隷少女の目線を読んだのか、その返答に、奴隷少女はますます目つきを鋭くする。
「いま君がどうしているのか、調べさせてもらった。その上で、言うよ」
勇者が穏やかに、しかし確固たる口調で告げる。
「君は、いまいるところにいちゃいけない」
それはきっと、いま現在の奴隷少女の身の上を思ってのことだった。
『騎士隊より厳格なる必要悪』
勇者は、その名を冠する幼い欺瞞に気が付いたのだろう。
「……」
奴隷少女が、プラカードを裏返す。
そうしてあらわになった唇は、犬歯がむき出しになっているほど敵意があらわれていた。
「二度も言わせないで欲しかったの……!」
震えた語尾は、嫌悪ではない。
それは、純然たる怒りだ。
過去の自分は、別にいい。この首輪を付けられる以前の自分なら、なんとでも罵られようが憐れまれようが好きにしろと切り捨てられる。
だがいまの自分の立ち位置を、どうしてよりにもよって目の前の人物――勇者に、否定されなければいけないのか。
人生で一番長く泣いたあの日に、妹と一緒につくったプラカード。
『全肯定奴隷少女:1回10分1000リン』
『全否定奴隷少女:回数時間・無制限・無料』
兄が語った二つの文言。
夢を記した看板を斧のように構えて勇者を睨み、いつも以上の大声で。
「とっとと消え失せるの!!!!!!!!!! ぺっ!!!!!!!」
奴隷少女の、どすの効いたハスキーボイスが響き渡った。
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