―――


「いらっしゃいませ!」

「百合ちゃん、今日も元気だね~。いつものやつね。」

「はい!ありがとうございます!」


 蒼井さんと別れてから更に1ヶ月が経った。

 仕事はずっと続けてたから、生活は彼と出会う前に戻っただけ。


 だけど心の何処かに空いた穴は、どうしても埋められなかった。


「お疲れ様でした。」

「お疲れ~。」

 今日の仕事も終わり、さて帰ろうかと店長に声をかけた。


「あ、藍沢さん。」

「はい。」

「君にお客さん来てるよ。中で待っててって言ったんだけど、外でいいってさ。」

 裏口をあごで指す店長の言葉に、『もしかして……』と思って慌てて外に出た。


「蒼井さっ……!」

「悪かったわね、蒼井じゃなくて。」

「……?」

 勢いあまって転びそうになりながら、無意識に彼の名前を呼んだ私に降ってきた声。

 顔を上げると、そこには端正な顔立ちの見た事のない女性が立っていた。


「あの…?」

「平田と申します。蒼井とは医学部時代からの同期で、病院での研修でも一緒でした。」

「蒼井さんの同期……」

 呟いた言葉は乾いた空気に吸い込まれて消えていく。


 私はきっと睨むと声を荒げた。


「で?何しに来たんですか?蒼井さんに頼まれたんですか?私を連れ戻してこいとか。説得しろとか。」

「あいつはそんな事は言わないよ。」

「…じゃあ何ですか?」

 自信たっぷりにそう言う彼女に、私はちょっと怯んだ。


「貴女の事は、8年前から知ってる。」

「え…?」

「研修が始まってしばらくした頃かな。あいつの雰囲気が変わったような気がして、冗談半分で聞いたんだ。『好きな子でもできたの?』って。何も言わなかったけど、私にはわかった。直感で。貴女が相手だという事も気づいてた。」

 あの頃を思い返しているような、遠い目をして語る平田さん。

 私は何故か苛立つ感情を抑えきれなかった。


「何が言いたいんですか?」

「貴女があいつを憎むのは、間違いなんだよ。」

「何が間違いなんですか?蘭はあの人のせいで死んだんでしょう?」

 頭の中で警鐘が鳴ってる。この先の言葉は聞いてはいけない気がして、耳を塞ぎたい気分だった。


「あの時、妹さんを医療ミスで死なせてしまったのは、蒼井じゃない。私もあの手術に立ち合っていたから、間違いない。」

「…は…?」

 平田さんが話す言葉は日本語のはずなのに、意味がさっぱり入ってこない。

 持っていたカバンが力の抜けた手から滑り落ちていったのにも、気付かなかった。


「うそ……」

「嘘じゃない。」

「だったら!何で蒼井さんは、何も言ってくれなかったんですか?」

「それは……」

「それは?」


「貴女を愛してたから。」


 平田さんの言葉が真っ直ぐに私の心に届く。

 閉じた瞳から零れる涙は、いつまでも頬を濡らした。



――


 目を閉じればいつも笑顔だった蘭の顔が、何故か悲しい表情をしている。


 明るかった母の顔は、何処か怒っているようだった。



 そして愛しい背中に向かって伸ばした私の手首には、冷たい手錠が嵌められていた……



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る