Ⅲ
―――
「いらっしゃいませ!」
「百合ちゃん、今日も元気だね~。いつものやつね。」
「はい!ありがとうございます!」
蒼井さんと別れてから更に1ヶ月が経った。
仕事はずっと続けてたから、生活は彼と出会う前に戻っただけ。
だけど心の何処かに空いた穴は、どうしても埋められなかった。
「お疲れ様でした。」
「お疲れ~。」
今日の仕事も終わり、さて帰ろうかと店長に声をかけた。
「あ、藍沢さん。」
「はい。」
「君にお客さん来てるよ。中で待っててって言ったんだけど、外でいいってさ。」
裏口をあごで指す店長の言葉に、『もしかして……』と思って慌てて外に出た。
「蒼井さっ……!」
「悪かったわね、蒼井じゃなくて。」
「……?」
勢いあまって転びそうになりながら、無意識に彼の名前を呼んだ私に降ってきた声。
顔を上げると、そこには端正な顔立ちの見た事のない女性が立っていた。
「あの…?」
「平田と申します。蒼井とは医学部時代からの同期で、病院での研修でも一緒でした。」
「蒼井さんの同期……」
呟いた言葉は乾いた空気に吸い込まれて消えていく。
私はきっと睨むと声を荒げた。
「で?何しに来たんですか?蒼井さんに頼まれたんですか?私を連れ戻してこいとか。説得しろとか。」
「あいつはそんな事は言わないよ。」
「…じゃあ何ですか?」
自信たっぷりにそう言う彼女に、私はちょっと怯んだ。
「貴女の事は、8年前から知ってる。」
「え…?」
「研修が始まってしばらくした頃かな。あいつの雰囲気が変わったような気がして、冗談半分で聞いたんだ。『好きな子でもできたの?』って。何も言わなかったけど、私にはわかった。直感で。貴女が相手だという事も気づいてた。」
あの頃を思い返しているような、遠い目をして語る平田さん。
私は何故か苛立つ感情を抑えきれなかった。
「何が言いたいんですか?」
「貴女があいつを憎むのは、間違いなんだよ。」
「何が間違いなんですか?蘭はあの人のせいで死んだんでしょう?」
頭の中で警鐘が鳴ってる。この先の言葉は聞いてはいけない気がして、耳を塞ぎたい気分だった。
「あの時、妹さんを医療ミスで死なせてしまったのは、蒼井じゃない。私もあの手術に立ち合っていたから、間違いない。」
「…は…?」
平田さんが話す言葉は日本語のはずなのに、意味がさっぱり入ってこない。
持っていたカバンが力の抜けた手から滑り落ちていったのにも、気付かなかった。
「うそ……」
「嘘じゃない。」
「だったら!何で蒼井さんは、何も言ってくれなかったんですか?」
「それは……」
「それは?」
「貴女を愛してたから。」
平田さんの言葉が真っ直ぐに私の心に届く。
閉じた瞳から零れる涙は、いつまでも頬を濡らした。
――
目を閉じればいつも笑顔だった蘭の顔が、何故か悲しい表情をしている。
明るかった母の顔は、何処か怒っているようだった。
そして愛しい背中に向かって伸ばした私の手首には、冷たい手錠が嵌められていた……
.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます