66
空は夢から現実に戻ってきている。
だんだん暗くなっていく世界。
荒野で感じていた風。匂い。音。これらも遠くなっていく。
しかし、新たな音や匂いが近くなってくる。
そして世界が暗いのは、自分が瞼を閉じているせいだと気づく。
体勢は仰向け。匂いはホコリ臭い。
耳には会話の声や、ひと昔前のゲームのBGM。ゲームの電子音が入ってくる。
「あー南っち! 危ないじゃん!! 騒ぐな!! あー人体模型が!!」
「あー!!」
ゴンと鈍い音がした。空は目を開ける。
「――うわッ!?」
空は小さく声を出して驚いた。
空の目の前には人体模型がいた。
ソファの腰かけ部分に頭をぶつけた人体模型。
あと数センチで口づけという距離。
ここは特別教室棟の空き教室。文化部の物置として機能している場所。
万力の付いたテーブル。穴の空いたソファ。人体模型などがある教室。
黄色マスクと金子が戦った場所。
今はブラウン管テレビに何世代か前のゲーム機がつなげられている。
ゲームをしているのは金子と桃木。
折り畳み式のパイプ椅子に座る茶木。
小清水は本棚の前で本を物色している。
陸は床に座った状態でソファに寄りかかり眠っている。
そして、万力の付いたテーブルの脚にロープで縛られている椿沢。頭巾はかぶっていない。
そんな騒がしい教室。普段は桃木、茶木、金子のサボり部屋である。
誰も空の驚いた声には気づいていない。
金子は倒してしまった人体模型を立て直す。その際に空と目が合った。
「あ! このツンツン眼鏡起きてるよ」
この一声で小清水は逃げる態勢になる。茶木も立ち上がり構えた。腰を低くし、左手と左足を前に出した構え。右手は胸の前。
空は体を起こす。すると、額からツルリとこんにゃくが滑り落ちた。
同時に自分が着ている服が目に入った。淡い青色の病衣。
「なにこの服。それにここは??」
茫然としている空に、小清水は話しかける。
「お前もう普通か?? もう襲ってこないか??」
空はなにも言わない。
「垂れ目。安心しろじゃん。この丸眼鏡が暴れたらまたケーオーしてやんじゃん! さっきは回し蹴りだったから次は踵落としじゃん!」
茶木は口角を上げながらそう言った。
そのときぺチンと音がした。クニツルが床への着地を失敗して転んだのだ。
クニツルはピョンとテーブルに飛び乗る
「空坊はもう大丈夫だ。垂れ目を追いかけたりはしない。サキュバスも倒した」
ゲームに集中している桃木と寝ている陸以外の皆は、ほっとした表情になる。
「空坊。こっちでなにが起きていたのか説明していなかったな。今から教えよう」
空は現実世界での出来事を聞かされた。
祭りの一日目夜からずっと寝ていたこと。病院に運ばれたこと。病院を抜け出して小清水を追っていたこと。
茶木に蹴られてノックダウンしていたこと。この教室でクニツルの存在をここのメンバーに教えたこと。
クニツルはさっきまで空の額に張り付いて、夢の世界に入っていたこと。
ここは特別教室棟の三階の教室ということ。今は六時限目の授業中ということ。
渕田三雲のこと。湊と渕田は今授業に出ていること。
椿沢とサキュバスの契約をクニツルが断ち切ったこと。
クニツルは一通り話し終えると、ペタンと体を横にした。
「俺はそんなことを……それに…………皆勤賞が……」
「いや! そこ落ち込むとこじゃないだろ!!」
小清水がすかさずツッコミをいれた。
「残った問題は、こいつをどうするかだな」
小清水は椿沢を指さしながら言った。
椿沢はずっとうつむいたままである。
空はソファから立ち上がり声をあげた。
「椿沢さんと二人で話がしたい。そのロープをほどいてあげてくれないか?」
小清水は顔をしかめた。
「お前な、まだこの女のこと気にしてんのかよ!! なにされたか分かってんのか!!」
「いいから!! 話をさせてくれ!!」
空の怒鳴り声で部屋が静まる。
小清水は腕を組んで座り込む。
「クソっ……好きにしろよ」
空は椿沢の元に歩み寄ってロープを自分でほどいた。そして、手を引いて教室を出ていく。
空は教室すぐ横の階段を上がり屋上に向かった。
外は風が強い。着ている服がバサバサと音を立てる。
二人は適当に腰を下ろした。入口のある塔屋に背中をつけて。
空は話をしたいと言って出てきたが、なにを話すかなど頭になかった。
最初に口を開いたのは椿沢。
「空さん。ごめんなさい。謝って済むことではないというのは分かっています。それでもごめんなさい」
「…………やっぱり本当だったんですね。小説のために俺を利用したこと」
「ごめんなさい」
「いえ。いいんです。悪い扱いには慣れてますから」
「わたしは小説のためにサキュバスと契約しました。あのときのわたしは本当にどうかしていました」
「…………」
「それに……。空さんの純粋な気持ちを弄んでしまいました……これをお返しします」
椿沢はブレザーのポケットからそれを取り出し、空に渡した。
「これは俺の書いた手紙……」
渡されたものは空が『42円のお釣り』を包んだ手紙。ここ、屋上で椿沢に渡した手紙。
中にはお釣りが包まれたままである。
「わたしはそこに書いてあるぶつかった人ではありません」
「――え!?」
「なぜかは分かりませんが。空さんはわたしをその人と勘違いしていました。わたしは手紙を渡された日、家に帰ってから読みました。
そして魔が差したのです。ここで空さんを叩いたときに見た素顔。それはまさしく噂のイケメン君。そのイケメン君がわたしを支えだと……天使だと勘違いしているのです。
その日の夜です。サキュバスがわたしの夢に入ってきたのは。……わたしは契約を結びました」
「待って!! でも、シャンプーの匂いが同じなんです! 勘違いだなんて……そんなわけないです!」
「シャンプーの匂い? 空さん。同じシャンプーを使っている人は沢山いると思いますよ? それに、なぜ匂いだけで判断したのですか?」
「俺は目が悪いんです。ぶつかったときに眼鏡が外れていました。……はっきりしない視界で顔は分かりませんでした。分かったのはシャンプーの匂いです」
「そうですか。わたしはぶつかった記憶も200円渡した記憶もありません。ちなみにぶつかった場所はどこですか?」
「ピッピ―マートです」
「たしか空さんのお家に行くときに寄ったスーパーですね。……わたしは、あのときが初めてです。ピッピ―マートへ足を運んだのは」
「そんな…………」
「あ! でも……このシャンプーなんですが。おそらくここ札幌に同じシャンプーを使っている人はいないでしょうね」
「どういうことですか?」
「これはわたしが春休みに旅行で東京へ行ったときに買ったものです。小さな専門店で、そこでしか買えません。先日そのシャンプーが少なくなってきていたので、ネットで買おうと思いましたがネット販売はしていないようです」
「そんな!? でも俺はピッピ―マートで匂いを嗅ぎましたよ?」
「うーん。わたしと同じように東京で買った人でしょうか? もしくは旅行で札幌に来た人がそのシャンプーを使っていた……とかですかね?」
「東京…………」
「空さん。わたしはそろそろ教室へ戻ります。生徒会役員が授業をサボっていたなんて知れたら大変なことです」
「はい」
椿沢は立ち上がる。風により顔周りの髪は全て後ろに流れている。
そして、屋上の扉の前に立ち、ドアノブに手をかけた。
「本当にごめんなさい。でも一つだけ言わせてください」
空も立ち上がる。
風が止んだ。
「一緒に帰ったり。一緒にご飯食べたり。一緒にお祭りにいったり。……あれはサキュバスの意思ではないです。本当に楽しかった。空さんに好意を寄せられて嬉しかった」
「…………」
「空さん。わたし――――」
椿沢の言葉を消すように、止んだかと思われた風が再度強く流れた。
風により椿沢がなんと言ったのか空は聞き取ることができなかった。
「――です。でも……さようなら。それとありがとう」
椿沢は空が今までに見たことのない笑顔でそう言った。
そして涙を流していた。
扉は開かれ、椿沢は走るようにして屋上から出ていった。
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