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5月30日。時刻は午後7時を回っている。
住宅街の細い道。海山家へ続く細い道。街灯の明かり。自動販売機の明かり。近所から漂う夕食の香り。
そんな中を歩く陸。
手は真っ黒に染まっている。夜道も暗い。しかし表情は少し明るかった。
陸は家に着き玄関を開ける。
玄関には空の靴。川谷の靴はない。リビングには明かりがついている。しかし、物音はせず静か。
陸はリビングに入る。人影はない。
食卓テーブルにはラップの掛かったおかず。焼いた鮭とヒジキの煮物。キッチンには鍋にみそ汁。玉ねぎと豆腐のみそ汁。
陸は脱衣所に向かい洗面台で手を洗う。どんなに石鹸を使っても真っ黒に染まった手の色は落ちない。
空腹の合図が腹から響いた。
最近食欲のなかった陸。しかし、今日は違う。
手を洗うのを諦めた陸は、着替えもせず制服のままキッチンに向かう。
黒い手で手に取ったのはしゃもじと茶碗。いつもより多めに米をよそい、みそ汁も注いで席につく。
焼き鮭は冷めていてぬるい温度。しかし、電子レンジで温めもせずラップを取ってかぶりついた。
米も口に運び、みそ汁も流し込む。
陸はみそ汁の味ですぐに分かった。今日のシェフは空だと。
何度も何度も食したことがある空のみそ汁。しかし、陸はとても久しぶりに思えた。
ここ一ヶ月はずっと川谷が夕食を作っていた。たった一ヶ月離れていた味。
このみそ汁には色んな思い出があった。
空が初めて陸に作ったみそ汁も玉ねぎと豆腐のみそ汁だった。このときの陸は大泣きをしていた。
両親が仕事で海外に行ったからだ。両親にとって初めての海外での仕事だった。
空は陸がお腹を空かして泣いていると思い、みそ汁を作った。
豆腐はぐちゃぐちゃで玉ねぎも大きさがバラバラ。出汁などとっておらずただ塩っ辛いだけのみそ汁。
これを飲んだ陸はさらに大泣きをした。おいしくないと。
空は焦った。このままだと陸がご飯を食べてくれないと。
この日は橘食堂で食事を済ませた。
それから空は料理の猛勉強をした。
陸が学校から泣きながら帰ってくると、空はすかさずみそ汁を作った。
陸は言えなかった。髪のことで馬鹿にされたこと。でも、空は陸の頭を優しく撫でてみそ汁を注いだ。
みそ汁を口にした陸は泣き止んだ。とてもおいしかったからだ。
それだけではない。心にしみる温かさ。空の優しい笑顔。撫でる手。
それからというもの、陸が泣いて帰る日は必ず玉ねぎと豆腐のみそ汁が出るようになった。
陸が何度も何度も救われた空のみそ汁。何度も何度も泣き止まさせてくれた空のみそ汁。
半分になった焼き鮭。少し減った米。真っ黒の手で持つみそ汁の器。鼻をすする音。
陸を泣き止ますはずのみそ汁。
しかし、陸は涙が溢れて止まらなかった。
階段を下りてくる音が響く。
陸は急いで涙をぬぐった。
静かにリビングの扉は開かれ、空が入ってきた。
なにも言わずに陸の向かいに座る。
陸は自然を装い食事を進める。
視線を鮭に移し、嫌いな皮を剥がそうとしたそのとき。
陸は頭を優しく撫でられた。
「ご飯。うまいか?」
「…………うん」
陸は顔を上げることができなかった。
「そうか。ちゃんとヒジキも食えよ」
「――わかってるっ!」
空は立ち上がりリビングを出ていく。
陸は堪えていた涙をぽたりと落とした。
「――空ニィのバカ……」
****
次の日。5月31日朝。
陸は目が覚めた。時刻は7時。
さわやかな朝だった。
寝巻のままリビングに向かう。
朝食を作っている空が声をかける。
「今日は
「――? うん」
「俺はちょっと委員会の用事で早めに出るから。戸締りよろしく」
「わかった」
ツインテールもビシッと決まり、支度を済ませた陸は朝食をとる。
空の姿はもうない。
朝のニュースを見ながら口に朝食を運んでいく。
そのときインターホンのチャイムが鳴った。
「もう。めんどくさいなぁ」
陸はセールスの勧誘かなにかだと思いながら、インターホンの画面を見た。
「――!!」
そこに映っていたのは平野と小松の姿。
陸は焦る。
もう嫌がらせは終わったはずだと。
インターホンを通して平野と小松は声を発する。
『海山さん……いるのは分かっていますわ。……いきなり押しかけて申し訳ないと思っています。ただ。わたくしたちはきちんと謝罪をさせていただきたいのです』
『海山ちゃん。あたしホントはあんなことしたくなかったの。ごめんね。ごめんね』
陸は少し考えた後、片眉を下げながら玄関に向かった。そして扉を開ける。
扉が開いたことにより、二人の表情は明るくなる。
そして謝罪をした。何度も何度も。
陸は察しがついていた。これも空ニィの仕業だと。
「リクは謝ってもらったからもういいわ。怒ってもいない。それにいま朝ごはん中なの。もう帰ってくれる?」
扉を閉めようとする陸。
その扉をがっしりと掴む平野。
「――ちょっと! なにさ!?」
「待ってくださいますか! もうひとつお話がありますの!」
陸は力を弱めた。
平野は顔が赤い。そして高飛車のような態度に変わる。腰に手を当てて陸を指さす。勢いよく指さした反動で大きな乳房がボインと弾む。
「わ、わ、わたくしと……と、と、ととと友達になりなさい!」
陸は半眼になる。
「なんで?」
「なんで!? このわたくしが友達になれと言っているのです。光栄なことその上ないわ」
「…………あんたら空ニィの差し金でしょ?」
二人はきょとんとした顔になる。
「あなたのお兄様のことは存じておりますが、差し金などではありませんわ。わたくしたちは誰の指図も受けておりません。本心でここにきたのです」
「そうだよ。清香ちゃんはずっと海山ちゃんのこと気にかけてたんだからね!」
「沙耶さん! そそそそそんなことありませんわよ」
「えー嘘だぁ。いつも話しかけようとしてモジモジしてたじゃんかー」
「だから違いますわ! モジモジなどしておりませんわ」
「一歩進んで二歩下がってって繰り返して教室の壁に激突してたじゃんかー」
「し、知りませんわ。誰のことをおっしゃっているのかしら」
「清香ちゃん」
陸は戸惑っていた。
二人がとても嘘をついているようには見えないからだ。
しばらく二人の謎めいた会話を聞いていた陸は口を開く。
「わかったわ! 友達になってあげる! その代わりといっちゃなんだけど、リクのお願いをひとつ聞いて欲しい」
二人は笑顔になった。
「よろしくてよ。そのお願い聞いてさしあげますわ」
「なんでもこいだよ!」
陸はニヤリと口角を上げた。
****
一年A組の教室。
そこには空の姿があった。
空は図書委員の仕事などしていなかった。ただ少し早く学校にきていただけである。
教室から見えるポプラ通り。
そこを歩く陸、平野、小松の三人。
陸は頬を膨らまし腕を組んでいる。小松を間に挟み、平野も同じく頬を膨らましている。
同じ金髪同士、ツインテールかゆるふわウェーブかで口論をしているのだ。
しかし、空のいる教室まではその会話の内容は聞こえてこない。
空は三人を見て温かい気持ちになった。
陸の
空は今日5月31日。初めて陸が友達と登校しているのを瞳に映した。
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