06 苦しみと悔恨の王たれ

「シリンディンよ、我に扉を開き給え。さもなくば、我が命を取り給え!」

 ヨアフォードは大きく両手を振り上げると、叩くようにその手を扉についた。

 そのときであった。

 光が、発した。

 それは扉から、それとも扉の向こうから。

 白く眩しい光に、彼らの誰も、瞳を開けていられなかった。

「これは」

「何だ」

「神の――」

 〈峠〉の神の力なのか。タイオスは信じがたい思いで顔前に手をかざし、どうにか眩さの向こうを見ようと薄目を開けた。

「何が……起きてるんだ」

 神の力。神の光なのか。〈峠〉の神は、ヨアフォード・シリンドレンを新たなる王として認めたのか。これはその、証なのか。

 それは、ものの数トーアもかからなかった。

「ぐわあああああ!」

 怖ろしい悲鳴が上がるとともに、光は幻だったかのように消え去った。

「ヨアフォード!」

 とっさに駆け寄ったのはアンエスカだった。

「手が……手が」

 うずくまって、神殿長は苦痛にうめいていた。

「これは……酷い」

「どうした!」

 タイオスも動いた。金縛りクルランが解けたように、若者たちもまた。

「――イズラン!」

 アンエスカは魔術師を呼んだ。黒ローブの男は短い距離をその魔術で跳び、誰よりも先にそこにたどり着いた。

「酷い……火傷だ」

 うなるように騎士は言った。王になることを拒絶された男の両掌は、赤く熱された鉄の棒でも握り締めたかのように、焼けただれていた。肉の焦げる臭いと不気味な煙が、聖域に漂った。

「どうにか、できるか」

「魔術師は治療師ではありません。一時的に痛みをとめることはできますが……」

「やってくれ」

「よろしいのですか?」

 イズランは首をかしげた。

「神が与えた罰でしょうに」

「いいから、やれ!」

 アンエスカは怒鳴った。イズランは息を吐いてうなずいた。

 しかし、魔術師の術は、男の苦痛を取る様子がなかった。

「イズラン」

「やっています」

 驚いた顔で、イズランは告げた。

「失敗したという感じはしない。私の術は発動した」

「だが、苦しんでいるではないか」

 苛ついたようにアンエスカは首を振った。

「水。水だ。冷やせ」

「試しています。発動した感じがあるのに……水が、生じない」

 魔術師は魔術でその要望に応えようとしていた。しかし、彼が発生するべきだと考える現象は何ひとつ起きなかった。

「らしくないな、アンエスカ」

 タイオスが呟いた。

「イズランの言った通りだ。神様の罰だろ……魔術でどうにかできるもんじゃ、ない」

 最も〈峠〉の神から遠いふたりが、その真実にいち早く気づいた。

「あんたが冷静に述べる台詞だろう。不遜な男に罰が下った、命があるだけ神に感謝をすべきだ……とでもな」

「――私は」

 アンエスカは唇を噛みしめた。

「神よ……神よ」

 ヨアフォードは、ふらふらと立ち上がった。全身を震わせ、まるで手のなかで賽でも転がしているように焦げた両手を合わせて震わせながら、かすれる声で呟いた。

「拒むのか。拒まれたのか、私は。私は……誤ったのか」

「喋るな。両手を握れ、空気に触れさせるな。聞いているのか、ヨアフォード」

「シャーリス、シャーリス。私は……よい王に、なれると……」

「――お前は」

 アンエスカは言葉を探した。

「お前は、立派な神殿長だったろう! それが神に与えられた使命だった。私が騎士であるように。何故……」

「シャーリス……」

 その両手からは、まだ煙が立ち上っていた。

「手が、まだ、燃えてやがる」

 タイオスは呟いた。

 とんでもない痛みが男を襲っているはずだった。常人なら一リアで意識を飛ばしていてもおかしくない。

 ヨアフォードの胆力が、尋常ではないのか。

 まるで、深く斬りつけられても意識を保ったクインダンのように。

(いや……)

 タイオスは感じた。

(楽にはさせない……これもまた、神の罰、だ)

 神は王を殺害した男を天からいかずちで撃つことはしなかった。

 その代わり、それに成り代わろうとしたとき、容赦のない罰を。

(いるのか。本当に。神様ってのが)

 神の罰だと確信すると同時に、胡乱な思いも残る。矛盾であったが、こんなことのあるはずがないと、それが戦士の常識だった。

 これまでの、常識。

 見る間にそれが覆って敬虔なる信者と化す、ということこそ有り得ないが、タイオスは揺らいでいた。

 神。実在すると、神官は言う。信じ、救いを求める者も大勢いる。

 一方で、実在するのしないのではなく、「何となく、もしかしたら、どこかには、超常的なすごい何かがいてもおかしくない」といった程度に思っている者も多い。

 一部には、神というのは人間が作り出した概念に過ぎず、実在はしないと考える学者、或いは偏屈者もいる。それぞれだ。

 タイオスは、二番目と三番目の間というところだった。

 紙一重で死を免れれば、神に感謝する。戦いに巻き込まれて死ぬ子供がいれば、神なんていないと思う。

 矛盾だとは思わなかった。深く考えたことはなかった。彼の人生はこれまで、それで何も問題がなかった。

 だが、いまは。

 苦しむ男の掌のなかで神の火は鎮まらぬのではないかと、そんなふうに感じていた。

その通りアレイス

 高い声がした。

「その苦しみは、終わらない」

 ハルディールのものより、ずっと幼い声だった。

 誰もが振り返った。 ヨアフォードでさえ。

「神は祈りを聞いた。未来永劫、そなたは一瞬たりとも神を忘れぬだろう」

 坪庭に、まるでそこが誂えられた舞台であると言うように、小さな人影が立っていた。

「お前……」

 タイオスははっとした。

『こっち』

『王子は、こっち』

 昨夜、彼の袖を引いて王子のもとへ案内し、そして消えた子供。

 黒い髪を結い上げ、神官衣とは異なる、白い一枚布の装束をかぶっている。腰には髪と同じ、漆黒の帯。

(昨日もこんな格好だったか?)

(いや……)

(覚えていない)

 彼が忘れたと言うのではない。

 子供の顔はよく覚えている。間違いなく昨夜の顔だった。声も同じ。

 だがそれ以外のことは覚えていないのだ。イズランの魔術にかかったときに似ていたが、あのときのような「絶対に知っているはずなのに」という不安や焦燥感はなかった。

 ただ、覚えていない。そして、それで間違いはないのだと思う。

 それは不思議な感覚だった。

「未来永劫、そなたはそなた自身の苦しみと悔恨の王たれ」

 子供の声には一切の感情がなかった。それもまた昨夜と同じだった。ただ、告げる言葉の持つ色合いは異なった。

「神は全てを見ている。そなたらがそれを覚えていようといまいと」

 そのような台詞が彼らの耳に届いたときには、坪庭の上に、誰の姿もなかった。

「消えた……いや」

 イズランがかすかに呟いた。

「いたのか? 本当に?」

 それは小声だったが、どこか耳障りに響いた。

 沈黙が、降りた。

 いまのは何だったのかと、もっともな問い――それとも、愚問を投げかける者は、いなかった。

「苦しみの……王と」

 アンエスカは祈りの仕草をすることも忘れ、その静寂を破った。

「あの焦げ続ける手は、治らぬということか? それほどの」

 彼は口をつぐんだ。「それほどの罰を受けることをしたのか」などという言葉ほど、彼が発するべきではないものもなかった。

「私は部外者であり、神には詳しくありませんが」

 遠慮がちにイズランが再び声を出した。

「先ほどの光は、私が全力で振るう攻撃術よりも強く、そして得体が知れません。私より上位の術師でも同じように言うでしょう。神が存在するのかどうか、魔術師はそれを語る立場にはなく、専門は もちろん神官ですが……」

 彼は言葉を濁して続けた。

「少なくとも、人間から生じるどんな力でもなかった。ヨアフォード殿の手にいまも残るそれも同じ。私が術を行えないのではない、この場所が問題なのでもない、高位の術師やマールギアヌ最高の治療師を用意しても、その火傷は癒えないでしょう」

 不治の病を宣告する医師のようにイズランは神妙に言うと、やはり医師が危篤の男の家族を前にしているかのように、お気の毒ですがとつけ加えた。

「……なあ、ハル」

 不意に呼びかけられて、少年王子はびくりとした。

「お前は、俺が〈白鷲〉だと考えているんだよな? 神の、騎士だと」

 タイオスはぼそりと、そんなことを言った。

「え、ええ。思っています」

 戸惑いながら、ハルディールは返事をした。

「それじゃさっきのガキみたいに効果的に現れたり消えたりできんでも、神の使い……神の騎士だな?」

「ええ――僕はそう思う。でも何故」

「ならこいつは、神のご意志だ」

 ハルディールの問いかけを最後まで聞かず、答えることもせず、戦士は、腰の剣を抜いた。

 かと思うとその刃は水平にかまえられた。

 誰も、アンエスカやルー=フィンですら、とめる間もなく――剣は、ヨアフォードの背中からその心臓を貫いた。

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