02 交換条件
ハルディールの視線は、ともすればそこを向いた。
卓上に置いたのは、乾いた血のこびりつく、二枚のレンズ。
つるは少し歪んで、もしも持ち主が再びそれを身につけようとすれば、耳や鼻を痛くしただろう。
だが幸か不幸か、その眼鏡の持ち主に、もう眼鏡は必要なかった。
(――ハルディール)
(出てこい、この、臆病者が)
ルー=フィンのあからさまな挑発に、年若い王子は簡単にかっとなった。
少年は夜着のままで、大きな扉を開け放した。その瞬間、彼の瞳に映った銀髪の剣士は、獲物を見つけた隼のようだった。
王子を狙って剣を握り締めたルー=フィンの動きは美しくさえあり、ハルディールは恐怖を感じるより先に感嘆を覚えていた。
彼とて、ルー=フィンやタイオス、または〈シリンディンの騎士〉のようには行かずとも、剣の訓練は受けている。とっさのことに身体が固まってしまったのではなかった。
だがシリンドル王子ハルディールはそのとき、そのまま――無防備と言える服装と体勢とで、危険が牙を剥いて襲いかかってくるのを眺めていただけだった。
「ハルディール!」
繰り返し、ルー=フィンが彼を呼んだ。
「客人、お部屋にお戻りを!」
館の護衛兵が剣を片手に叫んだ。
「われわれにお任せください!」
王子の両隣室に詰めていた男たちは、それぞれルー=フィンや、階段との間にいる僧兵たちに立ち向かった。
「無駄なこと」
全員がルー=フィンに向かってやってくれば、さすがの天才剣士も危険だった。だが護衛兵も軍兵も、ルー=フィンと僧兵に対して均等に人数を分けた。
「すぐに終わる!」
仕留めると、それは自信に満ちた声だった。
(神よ――)
祈ったのは、誰であったのか。
そのまま振り下ろされればカル・ディアの軍兵を両断したであろう一撃は、しかし、命中しなかった。
ルー=フィンの視界に、飛び込んでくる何者かの姿が映ったため、彼は攻撃の手をとめたのである。
もっとも、それは廊下の片隅にあった鏡の見せた虚像に過ぎなかった。剣士がそうと気づき、舌打ちして再度剣をかまえたとき、しかしその腕は虚像ではなく実像に押さえられた。
もしもそれがあと五
『およしなさい』
『貴様』
「貴様、放せ、イズラン!」
銀髪の剣士は黒ローブの魔術師に怒鳴った。
「何故とめる」
「ここではよろしくない。どうして、あなたのような慎み深い剣士が、こんな勝手な真似を」
魔術師はしかめ面をしていた。
「この場所で彼を殺す訳にはいかない。少し考えれば、お判りのはずです。私を嫌う――の口車に乗せられたようですね」
その言葉にルー=フィンはイズランと呼んだ魔術師を睨み、イズランは何食わぬ顔で、ルー=フィンを掴んでいない方の手を振った。
負傷した護衛兵や、夜着姿の王子の前から、そうして剣士と魔術師は消えた。
ほんの一
その次の瞬間に、ハルディールははっとなった。
アンエスカがいない。
この騒ぎに、誰よりも早く彼の元へ駆けつけてきそうなのに。
少年は、彼の父と彼自身に誠心誠意仕える男のいるはずの部屋へ、走った。
扉はあっけなく開き、ふわりと風が吹いた。
開け放した大きな窓辺で、紺色の布が揺れた。
寝台には誰も眠っておらず、敷布には不規則な模様があった。
それは、編み込みや刺繍ではなかった。血飛沫が、布に不吉な紋様を描いていた。
ハルディールは、あのときの凍るような思いを忘れない。
床の上には、寝台から剥がされたと思しき、掛け布が広がっていた。不自然なふくらみは、人の形をしていた。
ぴくりとも動かぬそれに掛けられている白い布は、死者の尊厳を守るようでもあったが、子供が悪戯を隠そうとしているかのようでもあった。
だがそれは、隠されていたと同時に、隠されていなかった。
血に濡れた、見覚えのある眼鏡が、ヒトガタの胸の辺りに、無造作に置かれていた。
ハルディールは両の拳を握った。爪が皮膚を破るほどにきつく。
震える足でそれに近づき、震える手で布をめくった。
少年は再び、すぐに遺体に布をかけ、長いこと、その場にひざまずいていた。
状況を見て取った護衛兵たちは、何も言うことができず、困惑した顔で目を見交わしていた。
騒乱の音はいつしか消えており、人数からして多い護衛兵と軍兵たちが勝利を収めたことは、確かめずとも判った。
部屋の外では興奮した声色がああだこうだと言い合っていたが、気を利かせたひとりの兵が、そっと扉を閉めた。
その音でハルディールはぴくりとし、何も言わぬまま、立ち上がった。
「あー……その、殿下」
沈黙に耐えかねて、違う兵士がハルディールを呼んだ。王子は振り返らず、その代わり、室内を見回した。
寝台のすぐ傍にアンエスカの荷を見つけると、ハルディールは震える指でそれに手をかけた。
荷袋の口は、開いていた。
血塗れの手が、それを探ったと見えた。
「――無い」
そこで初めて、王子は声を出した。
「えっ?」
思わず護衛兵は聞き返したが、ハルディールはただ首を振って、蒼白な顔で振り返ると、伯爵閣下に報告を――とだけ、言った。
(ない)
それから一睡もせぬまま、ハルディールはじっと考え込んでいた。
キルヴン伯爵と話し、休むと言って部屋に戻ったが、寝台に潜ることさえしなかった。
アンエスカの荷を部屋に持ってこさせ、何度も、確かめた。
(〈白鷲〉の護符がない)
どういうことなのか。
いったい、どういう。
(この場所で彼を殺す訳にはいかない)
イズランと呼ばれた魔術師の言葉。
ハルディールがこうして生きているのは、運だった。
いや、そうではない。敵が、この場は引くと、ここでハルディールを殺すのはまずいと、そう判断したために、生きている。
(どうして、あなたのような慎み深い剣士が、こんな勝手な真似を)
(タイオスの口車に乗せられたようですね)
――タイオス。
何故、あの場でタイオスの名が?
ヴォース・タイオス。
ハルディールが信頼できると判断し、アンエスカが不要だと言って追い払った戦士。
アンエスカとことごとく衝突し、〈白鷲〉の護符の重要性を知る男。
開け放された窓。毒をあおって死んだ僧兵たちとは明らかに素性の異なる人物が、ルー=フィンのほかにもいたと言う。
死体のなかにいなかったその人物は、アンエスカの部屋の窓から逃げ去ったと見られていた。
それは、黒い髪をした、四十ほどの戦士であったと。
(どういう――)
いったいどういう、ことなのか。
ハルディールは考えた。眠らないで考えた。
答えは、ひとつしかないように思った。
(そういう……ことか)
彼は頭痛をこらえるように、両手で頭を抱え込んだ。
(僕は、昨夜、何を考えた?)
(タイオスが――〈白鷲〉なのではないかと)
きゅ、と全身の筋肉が縮まる感覚があった。
それは、強い緊張に似ていた。
目が眩む思いだった。
だが彼は、こらえねばならなかった。
感情に任せて喚き散らすことはできない。彼は、ハルディール・イアス・シリンドル。シリンドル国の王子なのだ。
キルヴンは謝罪を繰り返し、ハルディールは伯爵の尽力にたいへん感謝している旨を告げ、自らの思うところを語った。
伯爵は驚き、シリンドルへ帰るのは無茶だと王子を説得しようとした。
「この場では危険だ、と連中が引いたことをお忘れか。私はしがない一伯爵に過ぎないが、奴らは『カル・ディアルの貴族』を敵に回すことを避けようとしているのだ。それはカル・ディアルそのものを敵にするきっかけになると」
「仰ることは判ります。僕は、あなたの庇護下にいれば安全だ。ですが僕は、自分だけが安全な場所にいたいとは思わない」
「そのお気持ちも判る。ご立派だと、心から思う。だが、アンエスカ殿は殿下に何と申し上げたか。ここで成人し、王を名乗るようにと、彼はそう言ったはず」
「このような遠い地で王を名乗り、たとえカル・ディアル王の助力を受けることができたところで、どうなるか。仮に政治的、軍事的に支援していただいたとしても、それまでにヨアフォードは自らの勢力を固めてしまう。僕は借り物の軍隊でも率いて、祖国に戻るのか? 故郷を戦場にするために?」
「それしかなければ、そうするしかありません」
「いや、いますぐ、帰るんだ。まだシリンドルが混沌としている内に。反逆者として、ヨアフォードの首を取る。その協力者として〈白鷲〉を求めたが、サナース殿が亡くなられていると判った以上、カル・ディア滞在に意味はないと考えている」
「なりません、殿下」
キルヴンは言った。ハルディールは唇を噛む。アンエスカも、言うだろう。少し眉をひそめて、なりません、と。
だがアンエスカは、いなかった。ハルディールは、自分の考えで行動をすることに決めたのだ。
「まさかおひとりで南下するおつもりではありますまい。そのようなことは断じてさせられませんし、我が兵もお貸しいたしません」
伯爵の決意は固かった。「王子が無茶な真似をしようとすれば、力ずくでもとめる」。それは、彼とアンエスカの約束だった。
「――では」
王子はゆっくりと言った。
「閣下のお考えを尊重いたします。ですが、その代わり」
ハルディールはそっと深呼吸をした。
「お願いしたいことがあります」
「交換条件という訳ですかな」
キルヴンはひとつ、うなずいた。
「何でもお聞きいたします、とは申せませぬが、でき得る限りのことをいたしましょう」
どうぞ、とばかりに男は手を差し出した。ハルディールは少し沈黙をして、それからもう一度深く息を吸うと、口を開いた。
「タイオス」
「は?」
伯爵は首をかしげた。
「戦士ヴォース・タイオスを探して、僕の前に連れてきてください。必ず」
ハルディールはまっすぐに顔を上げていた。
「生きたままで」
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