第4章
01 とにかく、腹が立つ
酒でも飲まなければやっていられない。
こうした気分になったのは、久しぶりだ。しばらくはよくも悪くも、無感動だった。
いや、笑ったり怒ったりすることは普通にあったが、かっとなっても大笑いしても、すぐに平常心に戻った。
たとえ理不尽な出来事に行き合っても、「どうしようもないことはどうしようもないものだ」と割り切ることができるようになっていた。或いは、諦めて受け流すようになってしまっていた。
しかし、実に十年ぶりくらいに、ヴォース・タイオスは腹が立って仕方なくなっていた。
肩をすくめて嘆息し、もう忘れようと考えることができない。
とにかく、腹が立つ。
(報酬も寄越さずに追い出した、それはいい)
(約束は成功報酬。そして肝心の〈白鷲〉には出会っていない)
一方的な契約破棄ではあるが、不履行ではない。彼もあの場で「ハルか眼鏡を出せ」とは言い張らず――剣で脅されては難しかったが――、結局は甘んじたことで破棄に同意したのだ。
それは判っているし、そもそも金が得られなかったことに怒っているのではない。
無駄な時間を過ごしたことにはなるが、タイオス自身が面倒ごとから解放されて、向こうは向こうで新しい戦士を見つけるのならば、それでいいだろうと思う。
だが。
(解放されて、ない)
彼の〈白鷲〉疑惑――ヨアティアが抱いている大間違いの勘違いは、残ったままなのだ。
(アンエスカのクソ野郎め)
(俺が死んだところで何とも思わないどころか、攪乱になってけっこうだ、とでも思うんだろう)
本当に王子の情報を連中に売ってやろうか、とも戦士は少し思った。
しかし、ハルディールのことを考えると、それもできない。あの少年は悪くない。気の毒な境遇で、まっすぐな瞳を持ち、国のことを思う立派な王子殿下だ。
アンエスカだけ売り飛ばしてやれればどれだけ胸がすくか知れないが、ハルディールに触れずにアンエスカの情報だけというのは無理だし、やはり王子のことを思うなら、彼の傍らから保護者を奪う訳にもいかない。
だいたい、アンエスカに復讐してやれば胸はすっとするし、もしかしたら報酬を得られるかもしれないが、ちょっとばかりの小金に決まっている。馬鹿らしいと思った。
タイオスは、
これからどうするべきか。
コミンにはまだ戻らない方がいいだろうと思った。
黒服の一団はもうみんなこっちにきているものとは思うが、彼らが引き返すときにでも行き会えば面倒だ。
(そう考えると)
(シリンドルから離れる方角に向かって、しばらくほとぼりを冷ますのがいいかもしれんな)
契約の最中にはそうした選択肢を採る可能性はなかったものの、言うなれば解雇された訳だ。
アンエスカの独断であり、ハルディールの知るところではないだろう。だが解雇は解雇だ。少なくともタイオスはそう考えていた。
(どれだけ経てば、ほとぼりは冷めるもんかね)
(ひと月……半年……いや、一年は見た方がいいか)
戦士は嘆息した。コミンを拠点に日々を送って、限界を覚えたら引退、あとは田舎でのんびり暮らすはずだったのに、また新しい町を探さないとならないのか。
戦士はまるで頭痛か腹痛に悩まされているかのようにうなり、もう何杯目になるのか、酒をかっくらった。
「あーら、おニイさん」
そこに陽気な声がかかる。タイオスは気だるげに顔を上げた。
「荒れてるね。嫌なことでもあった?」
そう言って彼の肩に手をかけ、甘い香りを振りまいて、タイオスの好みから言えば派手すぎる化粧をした若い女が商売女であることは、考えてみるまでもなかった。
「ありまくりだ」
タイオスは呟いた。
「それなら、あたしといいコトしましょ。最高の気分にしてあげる」
春女は彼にすりよってきた。タイオスは息を吐く。
「あのな。嬢ちゃん」
「リーラリーって呼んで」
二十歳かそこらの娘は名乗り、タイオスは片眉を上げた。
「変わった名前だな」
「歌ってるみたいで素敵でしょ?」
そう言ってリーラリーは、何やら歌を少し口ずさんだ。
「ねね、お兄さん」
「あー、リーラリー」
彼は彼女の名を呼んだ。
「まず、『お兄さん』はやめてくれ」
「あら。どうして?」
「あんたみたいな嬢ちゃんにそう呼ばれて、まだまだ俺も若い、とにんまりするような微妙な年代は過ぎちまったんだよ」
タイオスは肩をすくめた。
「『おじさん』でけっこう」
その言葉に、女はぷっと吹き出した。
「面白い人だね。……おじさん?」
「タイオス」
彼は名乗った。
「そう呼んでくれ。『おじさん』の年代なのは確かなんだが、どこかではまだ俺も若いと思ってるようだ」
コミンの町ではだいたい顔を知られているから、「おじさん」の年代になってからもそう呼ばれることがあまりなかったのだな、などと彼は実にどうでもいいことに気づいた。
笑いを取ろうとした訳でもなかったが、リーラリーはますます笑った。誰もが認める美人、という感じではないが、笑うと愛嬌がある。
「やあだ、タイオス。ほんと、面白い。ねえ、これから、どう?」
「悪いが、金がない」
タイオスは手を振った。リーラリーは首を振る。
「〈青薔薇の蕾〉亭はそんなに高くないよ。それに、正規の値段よりも安くしとくよ。楽しい人は好きだもの」
「嬉しいがね、本当にないんだ」
戦士は苦笑した。
「ここの飲み代を払ったら、スー銭貨しか残らない」
スーは、ラル銀貨よりぐっと価値の落ちるびた銭だ。
「あら」
リーラリーは目をぱちぱちさせた。
「そんなにぎりぎりなのに、飲んでるの? お金が入るとなくなるまで飲んじゃうタイプ?」
「いや、そういう訳じゃないんだが。今宵の宿代を取っておく理性を働かせるより、ひたすら飲んでいたいときってのもあるもんだ」
「そう。何かつらいことがあったのね。可哀想なタイオス」
女は彼の頭を抱きかかえて、豊満な胸に押しつけた。
「サービスしてもらって悪いが、本当に買えないんだ」
彼はまた苦笑して繰り返し、リーラリーをそっと押しやった。
実際、金はない。
仕事を終えて得たばかりだった報酬は、財布ごと〈紅鈴館〉に置いてきたままだ。あのとき取りに戻ってルー=フィンと鉢合わせするなど馬鹿らしかったし、経費はハルディールの財布から出るのだからと諦めた。もしかしたらティエが気を利かせて取っておいてくれるかもしれない、などとわずかに期待していたが、そんな希望に意味はない。
ティエ以外が手にすれば確実に中身を抜くだろうし、第一、コミンに戻れるものかも判らない。
「それから」
こほん、とタイオスは咳払いをした。
「俺には近づかない方がいい」
「あら」
「どうして? 春女を殴るような酷い男だったりするの?」
「女には優しくするもんだ」
彼は少し笑った。
「だがな。俺は狙われてるんだ。俺といると、死ぬかもしれん。何しろ数日前、女といたところに襲撃を受けて、その女は死んじまったからな」
タイオスは本当のことを言って追悼の仕草をしたが、リーラリーが信じるとは思っていなかった。案の定、女は目をぱちくりとさせて、また笑う。
「断るにしたって、そんな独創的な言い訳、初めてよ」
「本当なんだよ」
中年男が繰り返したのは、信じてもらおうと思ってではない。酔っ払いの戯言と思えば、彼女も離れていくだろうと思っただけだ。
「俺といると――」
そこでタイオスは、饒舌をとめた。
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