09 死ぬなよ
〈峠〉の神がどうとか、という〈痩せ猫〉プルーグの言葉を思い出した。
(だが、〈峠〉とやらを守っているのが、シリンドル……つまり、ハルの一族だろう)
(その王家に徒なす連中が唱えるということは、違う神か?)
(まいったな、信仰戦争じゃないだろうな)
〈創造神〉フィディアル、〈公正なる〉ラ・ザイン、〈母なる大地〉ムーン・ルー、〈恋の女神〉ピルア・ルー、〈真理の探り手〉メジーディス、〈幸運神〉ヘルサラク、〈破壊神〉ナズクーファの神界七大神、及び〈魂の裁き手〉コズディムをはじめとする冥界神を崇める
一方で、名を口にするだけで忌まわしい出来事を呼ぶとされる、獄界の怖ろしい神々がいる。まさかその神殿などは、どの街にもない。影ではそうした不幸を呼ぶ神を信仰する狂人もいると噂される。
ほかにも、地火風水を司る神、星々の神、眠りの神やら食の神やら、「信仰対象」とはならぬ自然界の神もいれば、あまり一般に名を聞かぬ神も、大量に存在する。
八大神殿以外の神官や信者は滅多にいないものだったが、皆無ではない。彼らは通常、神界や冥界の神々とその神官に敬意を払い、自らの
だがごく稀に、狂信者と言われるような者たちも現れる。
我が神は至高なり、と瞳をぎらつかせて、信仰に帰依せぬ者を殺害するような、とんでもない連中。
そうした集団が活動すれば、八大神殿は一丸となって対抗する。
そうそうあることではなく、自称神官たるオンドーンの引き起こした「センエルの戦」はほとんど伝説か何かのように言われているが、図書館や魔術師協会の記録を見れば、目も当てられぬ酷い歴史であったと判る。
オンドーンと「センエルの戦」ほど有名ではなくとも、狂信に端を発する信仰戦争は、いつでも怖ろしい被害を生み出した。大した騒ぎにはならないが、六十年に一度の〈変異〉の年が近くなると、〈春先の雑草〉のごとく芽を出してくる新興宗教もあると言う。
〈変異〉の年はまだ先だし、タイオスは「センエルの戦」のことも聞いたことがあるだけだが、そんな騒動には巻き込まれたくないなと常々思っていた。
「顔色が悪いぞ」
イリエードは言った。
「気味の悪いもんを見たからな」
タイオスはそうとだけ返した。
「……この腕輪」
死んだ男のもとにしゃがみ込んで、タイオスはそれを見た。
「おい、触るな。身につけてたんだから触れて即死ってこたあないだろうが、かなりやばい毒が使われたんだから」
遺体にも触れない方がいい、と知人は言った。
「判ってる。気をつけるさ」
彼は生気のかけらもなくなった死体と、その腕輪を観察した。
取り立てて特徴は見られなかった。
死体にも、腕輪にも。
身分を隠し、捕らえられるようであれば自害も辞さない、それはどのような信念によるものか?
狂信――と言うのは、とても適しているような気がした。
タイオスは無言で、死人の落とした剣を手にした。
「これはもらってく」
「何?」
「ちょいと、剣をなくしてね」
「阿呆。剣をなくす戦士がどこにいる」
「生憎だが、ここにいるんだよ」
「持ってるじゃないか」
「借り物だ」
タイオスは細剣をくるりと回した。
「ぶち当たる羽目にならなくてよかったよ。折りたいとは思わなかったが、折っちまう危険性は十二分にあった」
そんなことになったら、本当にアンエスカはタイオスを殺そうとしただろう。あれに殺されるとは思わないものの、またハルディールに諫められるのもご免だ。
(……っと)
(肝心のふたり組は、どこに行ったんだ?)
背後を守りながら突破し、一緒に逃げるつもりであったから、落ち合う先などは決めなかった。
(思うようにはいかないもんだな)
考えつつ、慎重に死体から剣帯を外す。やはり、特徴のないものだった。
「じゃあな、イリエード」
素早く帯を締め、適度に調節をすると剣を鞘に収め、タイオスは手を上げた。
「待て、ヴォース」
イリエードは顔をしかめていた。
「お前……どんなやばいことに」
「さあな」
よく判らん、と彼はまた言った。イリエードはじろじろと彼を見ていたが、息を吐いて首を振った。
「死ぬなよ」
「おう。お前もな」
簡単な、しかし心の底から発せられる、それは戦士たちの挨拶だった。
手を振ってタイオスはイリエードと〈ひび割れ落花生〉亭をあとにし、左腰にかかる武器の重みに安堵しながら、ハルディールたちを探しに出た。
今宵の
雨の気配はないが、街灯のないところに入り込めば、月明かりの強弱に気分を惑わされることだろう。
少し歩けば、背後から足音が追ってきた。タイオスは抜き身の細剣を片手に素早く振り返る。
「おっと、よしとくれ。俺だよ、旦那」
「……プルーグ」
タイオスは目をしばたたいて剣を引いた。〈痩せ猫〉の異名を取る情報屋が、そこにいた。
「何だか、騒ぎだったようだね?」
「探りを入れたければ、直接やってこい」
あとにしてきた〈ひび割れ落花生〉にタイオスはあごをしゃくった。プルーグは首を振る。
「話を聞きに行くのは、もう少し状況が落ち着いてからさ。それより、タイオス。あんたのことが心配になってね」
「ああ、約束をすっぽかしちまったな。悪かった」
ここは素直に謝罪した。
「何か掴んできたにせよ、情報は不要になった。もっとも、お前の労力に金は払う。いまは変わらず手持ちがないから、少し待ってくれ」
彼は考えていたことを言った。プルーグはまた首を振る。
「そんなことはいいさ、俺とあんたの仲じゃないか、旦那」
「……気持ちが悪いな」
タイオスは眉をひそめた。
「ただ働きはご免だ、とでも叫ぶかと思ったのに」
「そりゃあ、ただ働きなんてご免だ。だが、この人のためになら動いてやりたい、と思う人物はいるもんだよ。あんたがそれだ、タイオス」
「……何を企んでる?」
胡乱そうにタイオスは言った。
「嫌だなあ、よしとくれ」
〈痩せ猫〉は顔をしかめた。
「その目つき。まさか俺が旦那を売ったなんて思ってるのか?」
「何?」
タイオスはまたも目をぱちぱちとさせた。
「俺の情報なんか、誰が買うんだ」
「そうだねえ」
プルーグは考えるようなふりをした。
「旦那に懸想する若い娘、なんてのはどうだい」
「抜かせ」
タイオスは顔をしかめる。
「もっとも、美人になら売ってもいいが。そのときは俺にもきちんと知らせろよ」
「そうさせてもらう」
情報屋は笑った。
「俺の依頼は、少しはこなせたのか?」
彼はそこを問うた。
「正直、ちっとも」
プルーグは肩をすくめた。
「依頼を取り下げてもらえて助かったと、そう思ってるところだよ」
「何だ何だ」
タイオスは笑う。
「俺はお前が有能だと言っちまったじゃないか」
「誰に」
「ちょっとした知り合いだ」
「シリンドル王子」はもとより、新しい雇い主である、とも言う必要はない。
彼はこの情報屋を有能だと言い、便利だと思って使っているが、何でもぺらぺら話して向こうの飯の種を作ってやることはない。
「ふうん」
情報屋はそこに何か情報がないかとでも探るように戦士をじろじろと見た。
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