終章
――後日談。と言っても、語るべきことはそれほどなかった。
レイヤーフィールド降下事件から数日が過ぎ、市内の某病院にて。ことの顛末を九角から聴取した姫宮は、電脳上に保存した会話ログを文面にまとめようとして頭を痛めていた。
「……こんなのどうやってまとめろっていうのよ」
「ご愁傷さま。公僕さんは大変だな」
そう言って苦笑する九角を、姫宮は胡乱な視線で見下ろし……嘆息ひとつ。
「大変なのはどう見ても貴方でしょうに」
「……まあ、それは誰が見たってそう思うだろう」
言いながら、彼は右腕をすっと持ち上げて見せる。肘から先が失くなった腕を、だ。
まるで何でもないという風体で語る彼に、姫宮はうんざりとした気持ちになる。
「まったく。腕が使い物にならなくなったから――なんて理由で、自分の腕を切り落とす人間が何処にいるのよ……って、ああ。いたわね、目の前に」
自分の科白に自分で突っ込みを入れながら、姫宮は呆れ顔になって九角を見れば、
「皮肉にしてはパンチが足りてないぜ、公僕さん」
彼は、ただただ肩を竦めるだけだった。その胸中を推し量る術は姫宮にはない。が、少なくとも気落ちしてるという雰囲気ではない。
なので、姫宮は思い切って聞いてみる。
「貴方、その腕どうするの?」
「ふむ……まあ、こうなったら仕方ないし、機械義手にでも代えるさ。幸い、知り合いに良い技師がいる」
まるでなんでもないという風に、彼はそう言い放って。機械義肢に換装することによって生じる様々なリスクなど、彼ならばとっくに知っているのだろう。
ならば、何も言うまい――そう思って、姫宮は溜息を吐く。
「まあ、貴方が自分で納得しているのなら、私は何も言わないわよ」
「……別にアンタが何を言っても、やることは変わらないがね」
そう言って、彼は窓の外に視線を向けた。外の景色は前と変わらず。巨大な柱が無数に屹立し、空模様の映像を映し続けるレイヤーフィールドが広がっていた。
「――結局、事件は有耶無耶になったな」
「そうね。レイヤーフィールドの降下原因は、質の悪いクラッカーによるテロ行為、ということだったっけ?」
「雑な言い分だが、多くの市民はそれで納得してる。なにせその間に生じた経済的被害は、すべてラースが保証したんだからな」
「……一体どんな経済力してんのよ」
「見聞きした感じ、世界中の国家予算を集めても足りなそうだけどな……だけど、今世間を騒がせているのはこっちだろ」
そう言って、九角は手元のタブレットを操作し、とある情報ページを開いた。
――レイヤーフィールド降下事件に伴い出現した謎の怪物について。
あの日。ノスタルギアとの次元接続――三元融解現象を通じて、一時的にこちら側に姿を現した怪物たち――エネミー・オブ・クローム。
その存在を撮影した画像データが、電脳ネット上に拡散していたのである。
よくもまあ、あの大混乱のさなかにそんな余裕があったものだと、二人は呆れを通り越して感心してしまう。
そしてもう一つ。
画像データを表示して。二人は難しい顔で唸った。
零れるのは辟易からくる溜息か。あるいは、感嘆の吐息か。
黒から覗く、一点の蒼。
それは、京都上空のレイヤーフィールドが降下していた光景を、府外域から撮った一枚。
近畿一帯のレイヤーフィールドの天候映像が消え、上空が黒く染まった中にできた穴――降下したレイヤーフィールドに代わって天板から姿を現したのは、蒼い、蒼い光だった。
それは、かつて青空と呼ばれていた光景だった。
最早誰もが忘れて久しい、本物の空を写した画像データ。
「一気に社会現象にまでなってるのよね、これ」
「人類が忘れて久しい空の光景を見て、心奪われた――ってところか」
この事件によって一時とはいえ、世界が眺めた本物の青空が与えた影響は凄まじく、電脳ネットに広がった画像と
「こんな画像や映像、昔からあったのに……どうして今になってなのかしら?」
「今まで皆、レイヤーフィールドの存在意義を疑っていなかったんだよ。だけど、今回の降下事件によって、その安全性や運用する意味に疑問が生じた――ってことだろう」
「人って身勝手よねぇ」
「いつだってそうだよ。今回の事件の真相も然り。それを揉み消す企業も然り」
うんざりしたように肩を竦めて、彼は再びベッドに背を預けて口を真一文字に結ぶ。
その、何処か子供めいた仕草に失笑しつつ、姫宮は問うた。
「そういえば、あの子――カウボーイ君はどうしてるの? お見舞いには来てくれた?」
「アンタよりも先に。何度も顔を出してるよ」
「あら、友達思いね」
「どうだろうな」
姫宮の言葉に対し肩を竦め、彼は結んでいた口元を僅かに綻ばせると、
「今頃、レディのところにでも行っているかもしれないぞ」
何処か面白がるようにそう言うのだった。
◇◇◇
「――ってな感じで、これが今回の事件の顛末だよ」
第三電脳都市シティ・キョウトの一角。馴染みのあるビルディングの屋上で、トーリはエコーに先の事件――世間では『レイヤーフィールド降下事件』と呼ばれたことの顛末を説明し終えた。
話を聞いたエコーは、なんとも言葉で表現しがたい表情の百面相を繰りひろげた果て――うんざりとした様子で盛大な溜息を吐いた。
「――なんていうかさ、こう……コメントに困るね。事実は小説より奇なりっていうけどさー。いろいろ常識を無視しすぎでしょ。過去の偉人が暗躍とか、if世界とこっちの世界をぶつけて歴史改変とか……これが創作だったら今時絶対受けないね。うん」
「僕に文句を言われてもね。実際事実なんだから仕方がない」
「事実と言えば――トーリ、君記憶喪失だったとか。あとあの『クローム襲撃』に関わってたとかさー。流石にビックリ過ぎるわ!」
「大丈夫、僕が一番ビックリしてる!」
「なにも大丈夫じゃない!」
真顔で告げると、エコーが凄まじい勢いで突っ込みを入れてきた。
「なんかいろいろ衝撃的だわー。支神先輩が凄腕のハッカーかなーくらいには思ってたけど、まさかトーリまでそうだったなんてさー。なんか腹が立つ」
「うっわ、理不尽……」
頬を膨らまして文句を垂れるエコーに、トーリは呆れ顔でそう切り返しておく。対してからからと笑う少女の様子に、トーリは心から安堵した。
事件後。エコーこと七種響を始め、意識不明者だった人たちは全員快復に向かっていた。エコーも明日には退院するらしい。意識不明の期間が長かった人は、今暫く体力の回復と検査のために退院には時間がかかるらしいが。
なにはともあれ、無事でよかった。
なんてことは、言ったらエコーが調子づくから絶対口にしないけど。
なんて考えていると、突然エコーが慌てだした。
「やっば、看護師さん来た! バレたらまた怒られちゃう! ってなわけで、アタシ今日は落ちるね」
「入院生活ってのも大変だね。明日の退院、付き添おうか?」
「いいよ、気にしないで。それじゃね」
にこりと、快活な笑みを残して、エコーは電脳離脱していった。
その姿を見送って、さて――この後どうしようかと首を捻った時である。
――リン、とベルの鳴るような音がして。
トーリは含みのある笑みと共に、プログラムを一つ起動させた。その瞬間――世界が一瞬揺らいだような気配と共に、景色が入れ替わった。
電脳都市から、異貌都市へと。
鋼鉄の建造物と蒸気に溢れる、ノスタルギア。
その世界に再び足を踏み入れたトーリは、目を開くと同時に、
「やあ、アゼレア」
そう、目の前の立つ少女の名を呼んだ。
「やあ、トーリ」
少女がにこっと笑う。トーリもつられて、微笑を浮かべた。
師ベアトリーチェが作ったノスタルギアへの渡航プログラム。『クローム襲撃』以降失われていたのだが、それを再び組み直し、トーリはそれを使うことでノスタルギアの行き来を可能にしていた。
尤も、一からトーリが組み立て直したわけではなく、単に九角が回収したマター・リ=エイダの保有していたデータから再構築しただけなのだが――というのは思考の片隅に置いておいて。
「それ、なかなか似合っているね」
アゼレアがくすくすと笑いながら、指で自分の左蟀谷をつついて見せる。途端、トーリは若干憮然となりながら、自分の額を手で触れた。
其処には長さにして二〇センチ程度の突起があった。ごつごつとしていて、見た目は何処か禍々しい――突起というより、角と呼ぶ部類のものが。
恐らくは、《破戒ノ王手》の乱用による肉体浸蝕だとアゼレアは言った。干渉術式とは、そもそも遺伝子変異の過程で発生する特殊能力であり、結果その乱用は肉体に影響を及ぼすのだという。
「だから使い過ぎは禁物って言っただろう?」と意地悪く微笑むアゼレアに対して「横になるのが大変だよ」と、適当な皮肉を吐きながら、トーリは言った。
「どうかしたの。君から呼び出すなんて珍しいけど」
「用がないと呼んじゃいけないのかい?」
言うや否や、拗ねたように唇を尖らせるアゼレアに、トーリは慌てて「そんなことはないよ」とかぶりを振った。
するとアゼレアは声を上げて笑った。
「あはは! 何もそんな慌てなくたって……別にとって食べるわけじゃないのに」
「笑わないでよ……」
「まあ、用っていえば用があったのは確かだよ」
半眼になるトーリに、アゼレアはそう言って彼の手を取り「こっちに来て」と歩き出す。トーリはそんな彼女の手に引かれるまま、細い路地を右に左にと進んで行き――しばらく歩いた後、唐突に開けた場所に出た。雑然にして混然としたこの都市にこんな開けた場所があるのかと、辺りを見回しながら感心していると、
「トーリ」
と、名を呼ばれて、トーリはアゼレアを振り返る。彼女は含みのある笑みを浮かべたまま、空いているほうの手で、そっと空を指さした。
促されるがままその指の指し示す方に視線を向けて――そして、息を呑んだ。
小さな点のような、排煙の雲に覆われた空に一カ所だけ空いた空洞から覗く、蒼。
――蒼穹。
空の色が、微かに、雲に陰るように、だけど確かに、その色はあった。
思わず、息を呑んで。
言葉、口にするのも忘れて。
空に空いた穴の向こうの光景に、視線も意識も持っていかれた。
すごく、すごく綺麗な色だった。
本物の空を知る人たちの言葉の意味が、今ならば理解できる。あの蒼色は、画像や、体感映像なんかじゃ決して再現できないだろう。
この目で、本物の目で仰ぎ見ることでしか、きっとこの感慨は感じ得ないものだ。
そして、ああ――と何処か納得する。
こんなものを目にした日には、なるほど。
(――九角言うことも、判る気がする)
ほんの小さな穴から覗いた光景だけで、こうも心動かされるのならば。
確かに、
きっと、今自分は子供のように好奇心と期待に満ちた目で空を見ているのだろう。それは、隣で満足げに笑うアゼレアの様子からなんとなくに察することができる。
そして、空を見上げて瞬きした忘れたトーリに、アゼレアは言うのだ。
「すごいだろう? あの事件以降、常に――というわけじゃないけど、たまにこうして覗けるときがあるんだ」
「なるほどね……これは、確かに見てみたくなる」
「だろう」
トーリの言葉に、アゼレアは我がことのように喜色を浮かべる。
「向こうでもさ……事件の最中、遠くから見えた空の画像を撮った人たちがいて、今すごい騒ぎになってるんだ」
「あはは。どっちの世界も似たようなものなのかー。なんだか……歩んだ歴史が違っても、人にそう大差はないってことかな」
「かもね」
そう言って、二人笑う。
ひとしきり意味もなく笑いあって、頭上を見上げて。灰色の雲に陰り、青空が見えなくなった頃、
「トーリ」
再び名前を呼ばれ、トーリは視線を頭上から少女に向ける。彼女は頭に被っていた帽子を外し、それを胸元に抱えて――淡く、微笑んでいた。
「――ありがとう」
一瞬、トーリは何を言われたのか判らなかった。耳から脳に届いた言葉の一言一言をゆっくりと噛み砕き、熟考し、精査して――漸く、彼女がお礼を口にしたということに気付いて。
「えーと……何について?」
どうにか、それだけを言うことができた。
「とりあえず君に、そして君たちに助けられたことに、かな」
そう言って小首を傾げるアゼレア。トーリは納得したという風に肩を竦めて見せ、
「君がそう言っていたって、伝えておくよ」
「そうしてくれ……」
頷くアゼレアが、何かを躊躇するように言葉を区切り、辺りに視線をさ迷わせたながら「あー……」だとか「うー……」だとか唸って、トーリはどうしたんだろうと首を傾げていると、アゼレアはついと背を向けて、
「あとは――約束を覚えていてくれて、だ」
小さく、でもはっきりとトーリの耳に届くくらいの声音でそう言って。
言葉を受け取ったトーリは、少しの間呆けてしまい、ぽかんと間抜けに口を開けて棒立ちになる。
ちらりと、視線だけで振り返ったアゼレアが、途端に鋭い眼光を向けてきた。尤も、頬が見て判るくらい赤く染まっているため、どうにも迫力が欠けていたのだが。
「なにか、言いたいことでもあるの?」
「ああ……いや、何でもない」
本当は、言うべき言葉は沢山あるはずなのだ。
――
――ずっと忘れていてごめん、とか。
――これから、アゼレアはどうするのか、とか。
そういう話をしようと、会うまでは思っていたのに。
そのどれもが、さっきの言葉と表情で吹っ飛んでしまって。
だから、トーリは言葉の代わりに微笑を浮かべて。
「――君が無事でよかったよ」
五年前からこの日まで、無事に生きていてくれてよかった。
エイケンに連れ去らわれた君を、無事に助られてよかった。
また――君に会えてよかった。
そう、心の中で呟いて。
「うーん、もっと気の利いた科白はないの?」
そんなトーリの胸中など知る由もないアゼレアは、少しだけ口を尖らせて、からかうようにそう訊いてくる。トーリは何でもない風を装って、口の端を釣り上げて答える。
「さあ? ないかもしれないし、あるかもしれないよ」
「君はつまらない男の子になっちゃったね?」
「そういう君は、随分言動が仰々しくなった」
「仕方ないだろう。こんな世界で一人生きていたら、自然とこうなるよ」
「かもねー。女の子一人で生きるには厳しそうだし」
「そうなんだよ。色々あったんだ。母がいなくなってから、君のことを忘れてしまってから、本当に大変だったんだぞ」
「へー。例えば?」
「知りたいかい? 知りたいだろう。いいさ、特別に教えてあげよう。この五年間、私が如何に大変で、如何に気高く生きてきたのかを」
そう言ってにやりと笑うアゼレアに、トーリは同調するように微苦笑浮かべて。
「是非、聞かせてくれるかな。ミス・バルティ」
「仕方がないね。だけど、此処で話すには口寂しいな。ご飯を食べながらにしよう。うん、それがいい」
うんうんと、自分の提案に満足げに頷いて。その様子が、どうしてか微笑ましくて。
「君がそうしたいっていうのなら、僕には拒否権ないしね。何処かいい場所はあるの?」
「勿論。近くにいい機関酒場があるよ。飲むによし、食うによしだ」
「じゃあ、そこにしようか」
「うん、いいとも。善は急げ。思い立ったが吉日、だ。行こう、トーリ」
そう言うや否や、トーリの手を取って先導するアゼレア。
楽しそうに。嬉しそうに。心躍らせるようにして、彼女は鮮やかに笑ってみせて。
その表情を見た瞬間、トーリはつられるように笑みを零しながら、
(――ああ、さっきの言葉は訂正するよ)
あの日、あの場所で。
そう。言葉を交わしたあの瞬間と、なに一つ変わりないなと思うほど――
――彼女の笑顔は、灰色の空すら照らすほどの輝きに溢れていて。
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