七章:奔走 10
「――九……角?」
モニタに映し出された映像の内容が信じられず、トーリは呆然と立ち尽くして彼の名を口にする。
だが、彼の姿は映らない。タワーから身を投げた姿を最後に、映像は彼を追うことを止めていた。
あるいはカメラがないからなのか。それとも、映す必要がないからなのか。どちらにしても、もう彼は――
「ふはは。優秀なランナーと聞いていたが、所詮はあの程度か。魔女の弟子の一人だからと警戒していたのだが……その必要もなかったようだ」
「――本当、拍子抜けをしてしまいました」
エイケンとは異なる声と共に――一人。何処からともなく、華美なドレスに身を包んだ女性が姿を現れる。
ゆらりと、音もなく地に降り立って。その女性はエイケンの隣に優雅に並び立つ。
足元まで隠すスカートを摘まみ、女性はゆっくりと一礼して。
「初めまして、ミスター・カウボーイ。私は、エイダ・ラブレス・バイロン――そういえば、判りますか?」
無表情の口元だけを器用に微笑させてそう名乗る女性――エイダ・ラブレスの姿に、トーリは肩を震わせて睨み付ける。
見ていたのだ。エイケンが用意したあのモニタ越しに。電脳空間――そこで、九角の身に起きたことのあらましを。
この女が、あいつを――九角を殺したのか!
敵意。憎悪。殺意。こみ上げる負の感情の籠った眼光が、エイダを貫く。
だが、彼女は意に介さない。トーリの向ける表情は穏やかなもので、彼の向ける怒りなど微塵も感じていないという風に佇むままだ。
「どうして……二〇〇年も昔の人間が――」
――こうして、姿を現すのか。
普通ならば、有り得ざる邂逅だろう。如何にノスタルギアが常軌を逸した領域だとしてもだ。彼女は――エイダは電脳の側にいた。トーリの生まれ、育った世界の、その電脳都市の中枢たるマザーシステムとして存在していたのだ。流石に、これは容易に看過していいことではない。
そんなトーリの疑問に答えたのは、エイダ本人だった。
「私は遥か昔――まだ電脳はおろか、コンピューターすら世に生まれていなかった頃。我が師バベッジの考案した階差機関の理論から、自らの思考を書き留め、のちの世に残す方法を模索しました。そして晩年、私は自らの出生からこれまでにあった記憶のすべてを事細かに情報化し、遺した――今でいうならば、私は、エイダ・ラブレスの完全なる
そうして、時代は流れ、ネットワークという情報の海が世界に拡大した頃――私の書き記した情報もまた、ネットワーク上に保存された。そして、それを契機に私は目覚めたのです。以後、私はあらゆる情報を吸収しながら自己を肥大化させていきました。そして現代尤も高度と言える演算機械を核として活動を続け――そして彼に、ミスター・エイケンとの邂逅を果たしたのです」
そう、満ち足りた様子で語るエイダ。
対して、トーリは驚きのあまり言葉を失った。まさかそんな遥か昔に、自身を情報体へ転換する術を見出した人物がいたなんて、誰が想像するだろう。
彼女は見越していたというのだろうか? この情報化の発展の果てにやってくる電脳時代を。
背筋も凍るような想像に、トーリは全身の血が引いていくような気分になる。
この人たちは――まるで怪物だ。
そんなトーリの感想を余所に、エイケンたちは粛々と行動を次の段階へ移行させる。
「ミスター・エイケン。
「それは無論、承知しているとも。ミス・エイダ。見給え――これが、これこそが、ノスタルギアの階差機関だ」
エイケンの声に応えるように、彼の背後に佇立していた機械が、ゆっくりと動き出した。駆動音と共に多量の蒸気を噴き出し、その機会は鳴動と共に開闢する。
光芒が溢れ出し、配管とむき出しの配線が姿を見せ、その奥にはこの大型機械を動かすための大型蒸気機関が据えられており。
そして――
「――アゼ、レア?」
トーリは彼女の名前を口にした。
驚き、そして、想像もしなかったその有様に、言葉を失って――
アゼレアは――無数の配線とこまごまとした機械機器を全身に備え付けられた姿で、彼女はそこにいた。
そして何より、彼女の胸元。衣服を裂かれて覗く胸部に脈動する電子核を晒して。
脈動する機関の中枢部に。
まるで磔刑に架せられた聖人のように。
その姿を背景に、
「これこそが我が英知の結晶。
この機関と電脳の階差機関を接続し、我らの大望は現界に顕現する!」
「そして、世界はあるべき姿となる。彼の偉業によって栄える世界に」
そんな言葉を口にして。男と女は、其処に聳える機械を見上げて涙する。
その二人の姿に、トーリは思わず後ずさる。
まるで目の前にいる二人が、得体のしれない何かであるのではとすら疑うほどに、トーリには彼らの目的が判別できない。
大望と、彼らは言う。
だが、その待望のために、どうしてアゼレアや、エコーのような夢幻体を必要とする?
「――彼らは、ノスタルギアと……トーリのいた世界を、混じえる気……なのさ」
漏れるような声が、哄笑の中に響いて。
トーリの視線は、目の前の奇人たちから声の主へ――アゼレアへと向いた。
苦しそうに表情を歪めながら、それでも顔を上げて此方に苦笑して見せて――
「ノスタルギアの世界とトーリのいた世界……それは、異なる歴史を歩んだものだ。彼らは、それを……なんだっけ? ああ……そうだ。電脳空間、と呼ばれる疑似世界を使って繋げ……そして、この階差機関を融合させる……そうすることで、彼らは二つの世界を交わらせ、
「実に、愚かだ」そう言って嘲笑するアゼレアの言葉の意味を、ゆっくり咀嚼する。噛み砕く。飲み込んで、理解、しようとして――
だけど、まるで何を言っているのか判らなかった。目の前の二人が掲げる大望――それが意味するものが、トーリには到底理解できず、想像すら適わない。
彼らの見ている世界は最早別次元だ。世界の在り方を改竄すると、そう言いたいのだろうか? そのやり方はまるで机上の空論を無理矢理実論に転換しようとするような、荒唐無稽で、名状し難い、常人には想像すらつかないような夢想。
彼らが信奉するのは、トーリの生きる科学と電脳の発展した、天井を分厚い板で覆われた世界ではなく――
大量の蒸気とクロームできた機関が世界を席巻する、排煙が生み出した灰色の空の世界で――
そしてその世界を現実のものとするために、今ある電脳の時代を書き換える?
――なんて言われて、理解も納得も肯定もできるわけがない。
いや、そもそもに。
「――そんなこと、可能なのか?」
「無論だとも」
エイケンが力強く答えた。
「そもそものことの発端は、いつだっただろうか……一九七三年の三月。現界の私の死から、始まったとも言えるだろう」
「……何?」
エイケンの言葉に眉を潜める。すると、彼は小莫迦にするように肩を竦めて見せる。
「私もまた、夢幻体だ。カウボーイ、君と同じ、肉体から意識(たましい)を飛ばし、この世界における仮初の身体を得ただけの、虚ろなる身なのだよ」
そう言って、エイケンは祈りを捧げるように胸元に手を当てながら続けた。
「二百年ほど前だ。私はこの世界に迷い込んだ。そして、我が目を疑った。私の知る世界とは余りにも懸け離れた発展を遂げた蒸気機関の群れを前に、私は圧倒された。かつて私が生み出したマシンをはるかに超える、高い演算能力を有した蒸気機関を前に忘我し――そして絶望したよ。
このような高度な演算処理を可能とする演算機械が、電気工学ではなく、蒸気機関技術によって発展したなど……完全電子化により高度な演算を可能になる。今後の技術は電子化こそが世界を席巻すると信じていたのに……この世界の技術力は、私の生きていた時代をはるかに超えていたのだ。それも衰退したはずの蒸気機関でな……」
そう言って自嘲するエイケンだが、トーリに言わせればそれが当然のことだ。蒸気機関は十九世紀の終わりと共に徐々に衰退していき、代わりに発展を遂げた電子工学と科学技術により、世界は今の時代を――電脳時代を歩み始めている。それが間違っているなどと……少なくともトーリには思えなかった。
――だが、彼は違ったらしい。
「私は、失意の中でこの世界のことを調べた。この都市にある
寸前まで自らを嘲ていた彼が、唐突に目を輝かせた。まるで新しい発見をした子供のような嬉々とした顔をして、彼は口元を綻ばせて言う。
「その瞬間、私は悟った。これは、師が私に見せた、本来あるべき世界の姿なのだと! そして、それを見せられた私のなすべきことは、この世界を現実のものとすることなのだと!
無論、それは容易なことではなかった。むしろ困難の連続だった。何せ此処は異史の世界――いわば並行世界だ。枝分かれした世界が互いに干渉することなど、如何なる事象を以てしても不可能に等しかった。私は正史世界に干渉する術を只管求めた。だが、一〇〇年以上の歳月を経ても、その可能性に触れることすら私にはできなかった――しかし、奇跡は訪れたのだよ」
エイケンはアゼレアを見上げ、不敵に笑む。
「あの魔女が齎したのだ。世界と世界の間にある壁を、通り抜ける術を」
「今から二〇年前。ベアトリーチェ・バルティが齎した奇跡。それが、別世界への接続現象を発生させるコード――バルティ・コードの発見なのです。ネットワークの監視者であった私は、彼女の発見したコードを応用し、そして、彼女と同じようにこの世界への接続に成功し――」
「そして、我らは、邂逅した。異なる時代。異なる国に生まれながら、同じ人物を師と仰ぐ我らは、利害を一致させた。師の栄光を、現実のものとすることを!」
淡々と語るエイダの隣で、熱を帯びた様に声を高らかとするエイケン。その頑ななまでにバベッジを信奉するその姿は、盲目的な、狂信の匂いすら漂わせている。
それはトーリに理解できないからなのかそう感じるだけなのかもしれない。だけど、やはり――共感は、し難い。
本人にその自覚はないだろう。どれ程の悪臭を放つ本人に、その臭いの醜悪さは理解できないのだ。
故に――
彼は――
妄信の徒となり果てて――
「一度は阻まれた。だが、今回は違う。魔女はおらず、二つの世界を跨ぐ申し子は我が掌中にあり。阻む者は最早君を除いては他におらず、そして君は私たちの脅威とはなり得ない。今や状況は
エイケンが、ゆっくりと右腕を持ち上げた。そして、その腕を――
「――
振り下ろして――
大気、突き破り。そして――
――鋼鉄が、振り抜かれた。
トーリの認識よりも早く、頭上から掬い上げるように振り抜かれたクロームの槍!
――マラコーダ。
そう呼ばれる鋼鉄の怪物の、長く鋭い穂先を持つ長大な尾が、凄まじい速度でトーリの腹部を貫き、そしてその勢いのままに壁へと縫い付けて。
「――あっ! ぐ……あ……っ……」
腹部を貫かれた激痛と、背中を叩きつけられた衝撃で、悲鳴すら上げる暇もなく、トーリの意識は闇に呑まれて――
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