幕間一

幕間一

「逃げるわよ」

 漆黒に染まる深夜。少女の母親は静かにそう言った。

「また違う村に行くの?」

 深夜に起こされた少女は、眠たそうな瞼を擦って、たどたどしい口調で母親に訊く。少し大人びた顔つきの中に残るあどけなさは、少女を大人と呼ぶにはまだ幼い年齢であることを窺わせる。

「あいつらが嗅ぎ付けてきた。もうここにはいられない」

 実の娘に使うとは思えない棘のある口調で母親は言う。その様子からは不安や焦燥感が見て取れる。

 あいつらがなにを指すのか、もうこの夜逃げを何度も繰り返していくうちに少女も理解していた。魔族だ。どこへ行こうとも何度も何度もしつこく追いかけてくる。そのたびに親子はこうして逃亡を繰り返しているのだ。

「さあ、行くよ」

 必要最低限のものだけを手に持って、母親と少女は数日間泊めてもらっていた家から家主を起こさないように静かに出る。

「本当にごめんなさい」

 家主に聞こえるか聞こえないかの声の大きさで母親は言う。それはまるでこれから起こることへの贖罪のようでもあった。

 村の外に広がる平原をひたすらに親子は走る。どれだけ疲れようとも、足の裏が痛もうとも止まることは許されない。魔族に追い付かれてしまえば一巻の終わりなのだから。

「……またみんなと仲良くなれなかった」

 母親が手を引いて隣で走る少女が息を切らしながら、寂しげな表情でつぶやいた。こんな生活を始めて以来、少女にろくな友達ができたことなど一度もない。そんな余裕など残されていない。生きるために逃げる。それが親子に残されていた唯一の道だった。

 ふと後ろを振り向くと、さきほどまで滞在していた村が煌々と光る赤に染められていた。炎だ。魔族が親子――否、少女をあぶり出すためにやっているのだ。

「――本当に……本当にごめんなさい」

 なんの罪もない人たちが自分たちを受け入れたばかりに殺されている。こんな謝罪の言葉で亡くなった人が生き返るわけでも、この罪を償えるわけでもない。それでも母親は言わずにはいわれなかった。こうでもしないと罪の意識で気が狂ってしまいそうだからだ。

「……お母さん?」

 母親の頬を一筋の涙が伝う。それを見て少女は心配そうに声をかける。

「大丈夫よ。お母さんは大丈夫。心配しないで、絶対にあなたを守る。あなただけは絶対に逃がすから」

 親子は平原をひた走る。もう後戻りはできない。どんな罪を被ろうとも、全てを敵に回してでも娘――ソフィアを魔族から逃してみせると母親は誓った。

 その夜の母親の涙は少女の心に強く焼き付いた。

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