第六十一夜 ライブに現れる女
江藤は世見町のとある小さなライブハウスで働いていた。
主に店の片隅にあるバーで酒を出すのが仕事だ。もちろんライブハウス自体に雇われているので、掃除やら客の整理やらまで幅広い。
まあ偶には「ここからメジャーになるバンドもあるんだろうか」などと思うこともあったが、基本的には仕事のほうが忙しく、仕事中にそんな風に思う暇はなかった。
それでも何度か出ていたり、面白い曲を作るバンドなんかは記憶に残った。もはやプロ顔負けの歌声を披露する者たちもいて驚かされる。そもそも音楽が嫌いではないからここにいるのであって、接客中とはいえ曲が耳に入ってこないはずがない。
さて、これはそんなバンドの中の一つだ。
仮にAと呼ぶことにしよう。
江藤がAのことを覚えていたのは、やはりいい曲を作るからだ。
四人組のバンドで、ボーカル・ギター・キーボード・ドラムを担当している。曲は激しいロック調だが、メンバーの衣装はやや抑え気味で、見ていて小気味良い連中だった。少なくとも江藤はいわゆる激しいメイクやら見た目やらよりも音楽を重視するタイプだったので、ほぼ好意的に見ていたのだ。
その日も、Aが出ているのを遠くから見ながらグラスを拭いていた。
すると、なにげなく観客のほうを見回したときに、ふと見覚えのある女がいるのを見かけた。
――彼女、確か前にもいたな。
インディーズの客層は、ファンと友人が混ざり合っていることが多かった。少なくとも此処では、だが。趣味でやっているかプロを目指しているかでも違ってくるが、ファンはともかく友人と思われる人々の反応は静かな応援から盛り上がる人まで様々だ。
しかし女はそのどれとも違った。
いつも後ろ姿だったのだが、いつも似たような格好のワンピースなのだ。
まさかあれしか持っていないわけではないだろうが、いつもバンドを見にくるときは同じ色合いのスカートにシャツという出で立ちだった。
じっと立ちすくんだまま、バンドメンバーの一人を見ているのだ。
それも会場の隅からじっとバンドを見つめていて、それでいつの間にかいなくなっている。
顔は見たことがないが、
いつも似たような格好だし、江藤も覚えてしまっていたのだ。
――誰かの恋人かな。
そういうこともありえる。あるいは熱心なファン。それはストーカーともいうけれど。ただ、Aにストーカーがいるという噂は特に聞いた事もなかった。
江藤は気にしないようにしながら、普段と同じように過ごした。
だが一度意識してしまうと、どうしようもない。
――またいる?
後日になって、またあの女がいるのに気が付いた。隅で立ち竦んだままの姿は、まったく同じ服だ。
まさか勝負服なわけはないだろう。
Aはグッズもそこそこ売れている。
ここではインディーズバンドは収入のために自分達のCDの他に、Tシャツなんかも売ることがあるが、それともまったく違う。むしろごく普通のものだ。誰かの恋人やストーカーだというなら、せめてそういうグッズを持っていると思うのだが。
たぶん、当人も気付いてはいないのだ。
まさかこうして同じ服だというのを気付いている人間がいるなんて。
江藤はできるだけ何も言わないことにした。自分はこのライブハウスのスタッフで、アルバイトだ。何ができるというわけでもない。
だが、どうも気になってしまう。
もしも何か証言を求められたりしたら、なんて空想を繰り広げてしまう。
そんな不確かな妄想に浸っていたそのときだった。
「今日はありがとうございます」
前のほうにいるファンから、声があがる。
「今日は最後に新曲を披露します。聞いてください――『ブルームーン』」
照明が赤から青に変わった瞬間、ぎょっとした。
見慣れた彼女の服が、一部分だけ色が違ったのだ。まるでそこだけ何かをこぼしたかのように黒く染まっていた。
――……違う。あれは白いシャツじゃない……?
目を見開いた途端、ぐるりと女の頭だけが動いてこちらを見た。あきらかに人間の動きではなかった。人間の首の可動域を越えていた。
女は見開いた目で江藤を見たかと思うと――にたりと笑った。
江藤はそのままゆっくりと目をそらし、見なかったふりをした。
自分はたまたま其方の方向を向いていただけで、女の姿など見ていないと――。
でなければ、今にも叫び出しそうだったからだ。
それからしばらくして、Aのメンバーの一人が、殺人容疑で逮捕されたのはその後だ。なんでも恋人を自宅の浴室で殺してしまったらしい。逮捕されたとき、そのメンバーはほぼ錯乱状態だったというから、何があったのかは推して知るべきか。
江藤はそれ以上深入りしたくなかった。
おそらく他のメンバーもこんな不祥事は話したくないのだろう。バンドはしばらく形だけは残っていたが、やがて解散し、元メンバーの一人が名前と所属を変えて出ていたのを見たことがある。
しかしあの音楽がもう聴けないのだけが、心残りだった。
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