第五十七夜 外国のコイン
安藤はスリで生計を立てていた男だ。
年齢は五十代。見た目は小さくてうだつの上がらない、しかし油断ならない男という印象だが、三十前後から数えるのをやめたので、はっきりした年齢はわからない。
世見町で飲んだくれている一般人の財布をスるのが仕事で、よく世見の片隅で昔からある和菓子屋で大福を買って食うのが趣味だ。それで指先にはいつも白い粉がついているので、警察は「白手の安藤」などという二つ名を頂戴していた。
それは安藤が三度目の「お勤め」を終え、世見町に帰ってきたときのことだ。
捕まるたびに今度こそ真面目に暮らそうと思うものの、どうしてもここへ戻ってくるたびに同じ事を繰り返してしまう。
まずは普通の人々が二度も刑務所に入ったという事実を敬遠するのもそうだし、そもそもそれまでの暮らしを急に変えることもできない。年齢的にも無理だ。そうなると、結局また元のスリ暮らしに戻ってしまうのだ。
そして、安藤は三度目の改心もうまく機能せず、結局またスリで生計を立てていた。
その日の成果を一つ一つ確認していると、とある財布の中に一枚だけ外国の硬貨が入っているのに気が付いた。
あきらかに日本の百円玉とは違ったし、彫られているのも外国人の横顔だ。それだけ財布の中の硬貨入れとは別の場所に保管されていたので、おそらく持ち主の験担ぎか何かの記念だろうと思った。
少しだけ薄汚れてはいたものの、日本で使えないのなら意味がない。
普段なら空になった財布と一緒に捨ててしまうところを、そのときはどういうわけかポケットにしまい込んだ。
空の財布を暗渠に捨てたあとに、コンビニでワンカップとつまみを買い、コインのことはすっかり忘れてしまった。
ところがその日の夜、安藤は奇妙な夢を見た。
外国の町中らしき場所をふらふらと歩いている夢だ。夢の中の自分は若く健康的だった。鏡を見たわけではないが、どういうわけかまだ自分が若いと感じていた。夢にはよくあることだ。
奇妙な夢だった。
そこかしこを歩いている男たちの財布をすろうにも、自分にはきちんとした財産があって、財布をすらずともポケットの中を調べれば充分なほどの大金がある。そのことをちゃんと理解している夢だった。
良さそうな酒場に入ろうとしたところで、安藤は目を覚ました。
周りは薄汚れた世見町の路上で、酒を飲んだあとひっくり返ったままの自分を見て、少しだけ惜しい気持ちになった。
「なんだ、しょせん夢か」
安藤は外国になど行ったことはない。せいぜいテレビや雑誌でお洒落な町並みが映し出されているのを舌打ち混じりに見ただけだ。
だが、あんな高級そうな酒場に入れたなら、どんなにいい酒が飲めただろう。
それを思うと酷く惜しかった。
しかしそれからというもの、安藤はその外国の夢をたびたび見るようになった。
場所はいつも同じ通りだった。
安藤はそこを歩いている。そして酒場に入ろうとするのだ。
「……またこの夢か」
何度も同じ夢を見たからか、次第に夢の中でも意識がはっきりするようになっていった。夢の中で夢だと自覚すると好きなように動ける、というのを、遠い昔に聞いたことがあるような気がする。
「もしかして、今日は酒場じゃなくて違う所へ行けるかもしれないな」
そうして不意に別のところへ足を伸ばすと、ちゃんとそっちへ行くことができた。
振り返ると、後ろを歩いていた通行人が驚いて不審そうにじろじろ見ながら通り過ぎていった。
あまりに現実感のある夢だったので、安藤は起きてもしばらくは夢の内容を引きずったままだった。
現実では再び警察に捕まる可能性に怯えながらスリをし、夢の中では立派な青年として外国の道を歩いている。しかも同じ夢を何度も見たせいか、最近では起きたあとに自分がどこにいるのかわからなくなることがしばしばあった。
それどころか、夢は次第に長くなっていった。
酒場に入ろうと思えば酒場に入れたし、そこで酒を頼むこともできた。
外国語が読めないにもかかわらず、口からはすらすらとどことも知れぬ言語で会話が成立した。そうして頼んで出てきた酒の――なんと美味いことか!
「金もある、酒もある……そして時に女までいる!」
もはや安藤は夢のほうが現実ではないかとすら疑いはじめた。
起きたあとに自分が何故異国の路上で寝ているのか理解できず、思わず大声をあげそうになったこともある。そのときに口から出たのが日本語だったのが更に意味が理解できなかったことも。
だがそれでもしょせんは夢だ。
昔の仲間に冗談交じりに話すこともあったが、そのときには決まってこう言った。
「どうせ夢だがな、でもそこで食う飯や酒はとてつもなく美味いんだ。もしかするとあのコインのおかげかもしれねえ」
そう言って笑うのだった。
それからしばらく経った頃、獲物を物色しながら歩いていた安藤は、急に後ろからぼかりと殴られた。
驚いて後ろを見る前に地面に引き倒されると、地面に頭を打ち付けた。目を開けると、何人かの男たちが自分を殴りつけているのに気が付いた。警察ではなく昔の仲間たちだった。
ホームレスまがいの男たちの喧嘩など、誰も気にすることなく、彼らは安藤の懐をまさぐると「これだ」と呟いてコインを奪い取っていった。
「まったく。夢の中でいい思いして、何が楽しいんだか」
安藤は血を小汚い服で拭き取ってから、あーあ、と呟きながら転がった。
その日は夢を見なかった。
その次の日も、そのまた次の日も、夢は見なかった。
殴られた時に顔をかばおうとして変な打撃を受けたのか、次第に自分の指先もうまく動かなくなっていった。
安藤は仕方なくスリも引退せざるをえなくなった。
ここまで続けてきた「仕事」が、怪我のせいで引退となるのはどうも苦笑しか出なかった。
仕方なく、それからしばらくホームレス支援の団体から紹介された仕事を続けたあと、久々にかつての仲間はどうなったのかと思っていると、団体のメンバーが話しているのを聞いた。
「そういえば××さん、先日亡くなったらしいですよ」
××とは、安藤の昔の仲間で、あのときの襲撃メンバーの中心人物だった。
特にこれといって感慨もなく、ああ死んだんだなあ、ぐらいの思っていた。そのときまでは。
「最後のほうは錯乱がひどくなっていったとか……。なんでも自分は外国の御曹司だと言い張って、助けを求めたとか……」
安藤はあの夢のことを思い出していた。
××は夢に耽りすぎたのだろう。そして件のコインが、いったい今は、どこの誰の手に渡ったのだろうと思いを馳せた。
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