第五十三夜 収録された声
世見町の裏道にある小さなレコーディングスタジオには、出るという噂があった。
噂だけで具体的な話は出たことはないが、とあるインディーズバンドに所属する田浦という男が、以前一度だけ妙なことがあったと話していた。
その日、田浦は思わず声をあげていた。
「うわー、マジかよこれ」
「それがなあ、マジなんだよ……」
バンドメンバーの一人が芝居がかったように肩をすくめた。
それは初めて来るレコーディングスタジオだった。
世見町にあるのだから、せめてもう少し綺麗なものを想像していたが、実際は小汚いビルだった。もうすぐ取壊されるんじゃないかと思うくらいで、思わず口から出てしまったのである。
「……まあ、いいや。使う分には問題ねえならそれでいいだろ。いつものとこより安かったし、こんなもんだろ。もう少ししたらリョージとトモも来るらしいから、とりあえずやれるようにはしとこうぜ」
田浦はやや顔を顰めながらも言った。
「そうだなあ。使えそうならいいか」
彼らはインディーズバンドのメンバーで、普段は基本的に別のレコーディングスタジオを使っていた。今回は全員の予定がスタジオの予約状況と合わなかったのだ。でも次回のライブにあわせて新曲も作りたかったし、そろそろ時間が無い。それで別のスタジオを借りたのだ。
初めて使うスタジオに多少手間取ったものの、すぐに慣れた。田浦も今のバンドに入るまではいろいろなスタジオに入ったし、今でも助っ人として別のバンドのスタジオに行く奴もいる。バンドの解散や脱退、新規メンバーの加入は珍しいことじゃない。
雰囲気が多少暗いことを除けば、なんと言うこともない。
しばらく音合わせをしている内に他のメンバーもやってきたが、皆、スタジオの雰囲気に引きつったり面白がったりしながら入ってきた。
最後に作曲担当のメンバーがやってきて、彼の指示で何度か気になった所を直したり、通し稽古をした。
「どうだ?」
休憩時間に、田浦はそれとなく使い勝手を尋ねる。
作曲担当は機材を触りながら少し唸った。
「うーん、多少古臭いけど機材はまあまあかな。特に普段と変わらないと思う。欲を言えばもうちょっといいのでやりたかったけど、仕方ないか」
田浦は笑った。
「せっかくの新曲だしな」
「そうだよ、今回は気合い入れて作ったし」
「へえ。じゃあいつもは?」
「おい」
くだらないことで笑いながら、ひとまず問題はなさそうだと安心する。
レコーディングの本番に入ると、余計な音が入らないように気をつけながら歌い上げた。約五分の曲が終わると、皆満足そうな顔をした。
「どうだった? 今の良かったんじゃないか!?」
「おう、今のはいいだろ、絶対。聞いてみようぜ」
そんなことを言い合いながら、全員が集まって収録したばかりの曲を流す。こうして全員の音で聞いてみるのははじめてだったが、なかなかいい仕上がりになったと自負できる。
ところがしばらく聞いていると、予定には無かった音が入っているのに気が付いた。
「……あれ? ちょっと待った。今のところいいか?」
「なんかおかしかったか?」
「五秒くらい前のところ、変な音入ってないか?」
田浦の指摘で全員が巻き戻して再び聞く。
「あっ、確かに聞こえるな。声か?」
「外で誰か喋ってたか?」
「そんなことは無いと思うけど……まあ古い建物だから、防音が効かなくなってるところもあるのかもしれないな」
そんなこともあるのかなあ等と言い合いながら、首をかしげる。
何を言っているのかまではボソボソとしていてわからないが、せっかく良い感じに仕上がったのに残念だ。
「時間があるし、もう一度録りなおしてみるか」
だがそれからもう一度やっても、また同じところで声が聞こえることが続く。
「もしかして廊下に誰かいる?」
何度か確認してみたが、スタジオは貸し切り状態だ。管理人が通っているとか覗いているということもなさそうだし、どうもおかしい。しかしこのままでは納得いかない。更に三度目の正直で録ってみて、じっと聞いている時だった。
「なあ、思ったんだけど。なんだか声、大きくなってないか?」
全員が顔を見合わせた。音を少しずつ大きくして、なんとか聞き取れないか聞いてみる。
音を調整しながら全員が耳を澄ませたそのときだった。
『……うるさい』
低い女の声だった。
しかも壁の向こうとかで出された声ではなく、マイクのすぐ近くで呟いたような声。全員が黙り込んだ。それ以上誰も何も言えなくなり、その日はすぐに解散になった。
結局、新曲は録れず、バンドも一年後には解散した。
田浦は別のバンドに入ったが、あれ以来あのスタジオだけは避けている。他にも別のバンドに加入したメンバーもいたが、そのまま辞めてしまった奴もいる。
ひとつだけ惜しいのは、あの時の作曲担当のメンバーが、それ以来曲が作れなくなったことだけだ。
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