第五十夜 都市伝説『赤い女』
世見町には、『赤い女』という有名な都市伝説がある。
赤い女に捕まると連れて行かれてしまうとか、殺されてしまうとか、都市伝説にしてはよくある類型の話である。
他にも、顔が無いとか、古井戸に住んでいるとか、路地裏で男を誘っているとか、後者に関しては実に世見町らしいとも言えるが、ネットの創作都市伝説も流行した今となっては、むしろシンプルすぎるとも言えよう。
ところがこの赤い女の都市伝説、噂ではなくれっきとした逸話が残っているというから驚きだ。
話は、野木という老人が深夜に救急搬送されてきたことにはじまる。
「大丈夫ですか? お名前言えますか?」
そう声をかけても、小さく呻くだけで返答はなかった。
野木という名前がわかったのも、彼の持っていた古い免許証が出てきたからである。警察によるととっくに期限が切れていたということだが。
野木はふらふらと深夜の世見町――それも繁華街のど真ん中――に路地裏から現れて倒れ込んだ。最初は酔っ払いか浮浪者の類かと思われたが、どこかで頭を打ったらしく血まみれになっていた。驚いて遠巻きに騒ぐ人々が作る奇妙な空間を見て、見回り警戒中の警官が声をかけた。
苦しそうに呻きながらもなんとか助けを求めていたので、救急車で運ばれてきたのだ。
だが、野木は魘されるばかりだった。
「ああ、赤い女が来る……」
そんな言葉を繰り返し、苦しそうに呻き続けるのだ。
「赤い女ってなんだろうな?」
「さあ……。繁華街のほうの裏通りから出てきたって話だから、たぶん奥のほうの怪しげな店にでも行ってたんだと思うけど」
ひそひそと看護師たちは言い合ったが、結局答えは出なかった。
野木は順調に回復していったが、精神のほうはさっぱりだった。ぼんやりとどこかを見ていたかと思えば、急に何かに怯えたようにガタガタと震え出す。やはりその口からは、赤い女のことが出た。
次第に、野木は元々浮浪者か、頭のおかしな人物の類だったのではないかという噂まで出たが、警察の話によるとちゃんと借りたアパートに住んでいた。ところがその報告も、家賃は滞納されていて、そろそろ追い出したかったと大家が語ったことにより、真実味を帯びてしまった。これ以上置いておくことはできないと病院側も判断した。
「なあ爺さん、いつも喚いてる赤い女って、誰のことなんだよ」
その頃、野木の噂を聞いて、そうからかう入院患者も出始めた。
特に若い患者は物笑いの種にしようという者がいた。暇な入院生活ではこういうことは多々起きる。
「あの赤い女は――奴を、奴の目を見てはいかん」
「ふうん、どうして」
「あの女は――井戸の中にいる。井戸を見てはいかんのだ。奴の目を。奴は井戸からやってくる。オレはあの女を見てしまった。奴はオレを連れていく……」
ああ、こいつはもうダメだなあ、と若者は思った。それでも、頭のおかしな老人をからかってやれという腹づもりで、としばらく話を続けようとした。
だが反対に野木は頭を抱えたかと思うと、急に喚きだした。
「来る! 奴が来るんだ! うううう、うあああああ~~」
その無様というか、情けないような声に若者は思わず吹きだしてしまった。
だが喚く野木の声はフロアにすぐに響き渡り、看護師がすっ飛んできた。さすがにまずいと思って逃げ出したが、すぐに見つかって説教されるはめになってしまった。野木のほうは何人かの看護師が抑えつけ、最終的に鎮静剤か何かを打って大人しくさせたのだった。
赤い女の話はすぐに暇な病院内に広まった。
それどころか、赤い女が廊下を歩いているのを見たとかいう話まで広まり、ただの狂人の戯言ではすまなくなってきたのである。
「夜中に、出入り口の付近で赤いワンピースの女を見たんだ」
「やだ、怖い。最近そんなのばっかり。ただでさえ病院って怖いのに」
「そういえば私も見たわ。出入り口じゃなくて階段の所にいたんだ」
「移動してるの?」
「ひええ、そいつあ不気味だ」
最終的に真っ赤な女は死神か何かではないかとまで話が飛躍しはじめた。
だが、病院側のスタッフは気にしなかった。
何しろ噂しているのは患者ばかりだったからだ。
むしろ、患者の中でそんな噂が立つことで、変な不安感を植え付けかねないことを危惧していた。
「例の患者さん、あさって退院ですって」
「例の、って、野木さんのこと?」
「そう。さすがに他の患者さんにも迷惑でしょ」
「迷惑っていうか……あれは……」
だが、そんな夜のことだった。
夜勤で残っていた看護師の一人が、とうとう赤い女を見てしまったのである。
廊下を懐中電灯で照らしながらの見回りのさなか、彼女は近頃の噂になっている赤い女のことを思い出していた。馬鹿馬鹿しい噂話というか、皆気が立っていた。何しろそれは野木という一人の老人の頭の中にしかいないからだ。
見たというのも、何らかの見間違いだろう――そう思っていたのだ。
それでも夜の病院独特の空気は、ややひんやりとした気味の悪いものがある。
小さな足音を立てながら懐中電灯で床を照らすと、奥のほうに赤いものが見えた。
――えっ。
思わず小さな声を出しそうになりながら、ゆっくりと懐中電灯の光をあげていく。
まさか。
見間違いでしょう。
そう願いながら、懐中電灯の光に照らし出されたのは、裸足の二本の足だった。
「ひっ」
腕は止まらない。
真っ赤なドレスのようなものが懐中電灯に照らされた。
いや、違う。真っ赤な血で濡れたドレスだ。
「ひゃあっ、あ、うああっ」
そんな声を出す口を手で急いで塞ぐ。看護師としての矜持だった。
だが大きな音をさせて懐中電灯を取り落としてしまったのはまずかった。慌てて拾い上げると、そのときはもう、赤い女は消えていた。
恐る恐る赤い女がいたところを確認すると、それが野木老人のいた病室だったというから、もうそれ以上どうにもできなかった。看護師は部屋の中を確認することすらせず逃げ帰ったのだ。
翌日、野木が病室で死んでいたことで、噂は更に尾ひれがついた。
それも死因は窒息。溺死だった。彼のベッドは汚水がぶちまかれたように濡れていて、同じように水が肺に詰まっていた。あまりの出来事に、どう処理したものか病院のスタッフたちは一瞬頭を抱えた。
それでも、適当な理由をつけて部屋から運び出し、いつものように、誰からも気付かれないように遺体用エレベーターで送り出したのである。
これが事の顛末で、今でもいくらかの尾ひれとはひれをつけて語り継がれているという。
そして世見町に赤い女の幽霊が出ると噂されたのは、それからのことだった。
世見町の中心にある井戸を覗くと、赤い女の幽霊に呪われ、引きずり込まれるのだ。
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