第三十六夜 見えてる
「おいっ! あぶねえな前見てろや!」
力安はぶつかってきた女に叫んだが、女は泣きながら走り去っていった。その後を追うように追いついた他の女が頭を下げ、慰めるように彼女の隣を歩き始める。
「クソがあ! ブース! ブサイクが揃いやがって!」
どうせ男に棄てられたかでもしたんだろう。忌々しい。いい気味だ、馬鹿野郎どもが。
力安はぶつぶつと呟いた。
巨体を揺らして、不機嫌に道を行く。彼が不機嫌なのは他人にぶつかられたというそれだけではない。
何より力安は女が嫌いだった。
まず頭が悪い。尻が軽い。そして男の邪魔をする汚い生き物だ。
胸と尻を出せば男が靡くと勘違いしているし、誰にでもいい顔をして男を誘う。そのくせ、そんな思わせぶりなのにもかかわらず、他の男に簡単に股を開く。最近じゃ男女平等などと言われているが、男の活躍の場を奪ってなにが平等だ。
結局のところ、自分をちやほやしないのが気に食わない、とそれだけなのだが、そんな自身の性癖の暴露だと気が付かないまま、力安は持論を展開していた。
事実――ネットでの小さなコミュニティはさておき――リアルの付き合いにおいては、力安の主張には誰もが苦笑いをこぼしただけである。
力安はむしゃくしゃとした気持ちを抑えきれずに、苛立ったまま世見町の裏道を歩いていた。するうちに、向こうのほうから赤い色が見えた。
少しずつこちらへ向かって近づいてくる。
女だった。
さっきの女かと思ったが、どうも違うようだ。
足を引きずるような歩き方だが、酔っているのだろう。赤いワンピースの、少しタイトで太ももの出る作りは、水商売の女を連想させる。
力安は女の膨らんだ胸を見ると、まるでその辺にあった鉛筆でも取るように掴もうとした。れっきとした犯罪だが、力安にとっては自然なことである。他者に人格があることをあまり理解していないのだ。
だが、女のほうが先にぴたりと止まった。
そのまま掴もうとした手も思わず止まる。
――なんだよ。
自分の想像通りに行かなかったことにますます腹を立て、これみよがしに舌打ちをしてやる。
だが、女をまじまじと見てぎょっとした。
女の足が、逆側にねじ曲がっているのである。
「あ……あア……ア……」
女の頭が不自然に横に倒されて、その口元が開いていった。
「……みえ……てる……」
女が――あまりに嬉しそうな顔をした。
その笑みの額から、だらりと赤いものが流れた。
「う……うわ」
力安は急に背中から這い上がってくる感覚に、すぐさまきびすを返した。巨体を揺らしながら、ぱたぱたと筋肉のない走り方で前のめり気味に逃げていく。
――なんだあれは、なんだあれは、なんなんだあれは!
なんとかアパートまでたどり着き、震える手で鍵を開けようとする。だが久しぶりに走ったおかげで手先はただでさえ緊張し、鍵が入らない。
――くそっ、くそっ!
憤るまま無茶苦茶に鍵を入れようとする。
「……」
そのとき、不意に気配を感じて隣を見た。
そこには、上のほうから力安を覗き込む赤い女がいた。
悲鳴が轟き、力安はめちゃくちゃに両手を振り回す。
「来るな! 来るんじゃねえ! ぶっ殺すぞ! ああああ!」
力安は叫びながら、赤い女のいると思われる方向に殴りかかる。時間も場所も忘れ、廊下にある古い洗濯機を蹴り飛ばす。
「おい、うるせえぞ!」
出てきた隣の住人に怒鳴られ、ようやく力安は我に返った。
力安が一人であるということに気付いた隣の住人は、力安が何か言う前に舌打ちをすると、勢いよく扉を閉めた。
ハッとして周りとみると、赤い女はいつの間にか消えていた。
「ぐうううっ!」
力安は悔しさからアパートの柵を蹴りつけた。
全部あの赤い女のせいだ。
それから力安は、生活の中でことごとく赤い女を見た。
だが赤い女は、ある時はベランダの隅から。ある時は隙間から。ある時は天井から。ある時はコンビニの外から。ある時はDVDショップの棚の向こうから……。
家の中だろうが外だろうがかまわず現れた。
力安はそのたびにわめき散らし、赤い女は嬉しそうな顔をした。そんなことが何度も続くと、出禁を言い渡される店も多くなってきた。末端の店員ではなくいきなり店長クラスが出てきて、二度と来ないでほしいと頭を下げられたことまであった。力安は二度と来るかと喚きながら出て行ったが、次第に行動範囲が狭まっていった。
こんなことになったのもすべて「女」のせいだ――力安はそう思い込んだが、赤い女はそれ以上だった。
自分のアパートでも似たようなことになった。だが隣の住人も気味悪がったのか、三度目を超えたあたりから何も言わなくなった。
その頃から、力安の部屋はぴたりと静かになっていった。
隣の住人ですら引っ越したのかと思うくらいだった。
だが、力安はまだその部屋にいた。
それから二ヶ月ほどしたあと、力安は久々に人前に出た。
「彼女ができたんだよ」
力安はへらへらと笑いながら言った。
数少ない知人たちは驚いたものである。何しろ力安は女嫌い――といっても、自分の思い通りにならないから嫌いなのだが――を公言していたくらいだ。
それ以上に力安のずいぶんと痩せた姿にも驚いていたが、それはダイエットというよりやつれたと言ったほうが正しかった。
「結婚してやってもいいかなあって思ってるんだ。だって俺の事しか見ないし、三歩下がった良妻っつうのお……? 今時いねえだろお、こんなの」
笑う力安に、からかってやろうと思った知人たちは顔を引きつらせた。どうせストーキングか何かだと思っていたのだが、その目はうつろで、とりとめも無いことを喋ったかと思うと、急に喋らなくなる。そんなときはぼんやりと虚空を見続け、だらりと唾液をこぼす。
さすがに様子がおかしいと思って病院か何かにつれていこうと思ったが、その前に力安は突然知人たちを睨み付けたかと思うと、そのまま店を出て行ったのだ。
あとに残されたメンバーはぽかんとするばかりだった。
「あいつの言う彼女ってやべえよ」
そのうちの一人は震えながら言った。
「あいつの隣に、ずっと居て笑ってたんだ。俺、目合わせないように必死だったんだ」
あまりに現実離れした言葉だったが、どうにも嘘とは思えなかった。
それから一ヶ月ほどした後、力安の部屋からは異臭がしはじめ、大家と警察が踏み込むことになった。ゴミをかき分けながら進むと、力安は虚ろな目をしたまま死んでいた。
兄弟だと名乗る人々が一度だけ様子を見に来たが、結局業者に片付けを頼んだ。葬儀も身内だけという小さなものだった。
だが果たして、力安があの赤い女と幸せになったかどうかは、今もわからない。
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