第三十一夜 刺青
「ねえ、貴子ママ霊感あるんだって?」
世見町の片隅、「スナックやよい」の貴子ママにはそんな噂があった。
「スナックやよい」は椅子こそ多いが、五、六人がカウンターに陣取ればいっぱいになってしまうような小さな店である。
いつもなら笑って躱されるのが落ちだが、酒が進んでママの機嫌も良くなってくると、その口から出てくるのだ。
「昔、付き合ってた男が刺青の彫り師だったのよ。名前は、高遠とだけ言っておくわね」
そう言葉が出てくると、客達は耳を傾ける。
そんな光景が時折見られるという。
――。
高遠は無愛想な男でね。
確か……十七の時に家出したって言ってたわ。
各地を転々としながら最後にこの世見町にたどり着いたって。一度だけ、本当の生まれはどこなのって聞いたけど、ついぞ教えてくれなかった。
こんな町にいるんだから、聞くだけ野暮だったのかもね。あたしも若かったから。
彫り師って、確か本当は医師免許か何かが必要だった気がするの。だけど、高遠はそんなもの持ってなかったと思うわ。……まあ、言ってることをすべて信じるとするなら、持ってないのは当たり前ね。だけど、何かに打ち込むように彫り師の仕事をしていた。
特に、仏様のデザインに拘ってたわね。
ああいうのって色々とデザインがあるのよ。
他に日本らしいものといえば、龍とか……、ほら見たことない? ちょっと言いにくいけど、ヤクザ者の人とかがよく彫ってるような……ああ、わかる? ならいいわ。それだけで察してちょうだい。
とにかくどういうわけか、仏様のデザインだけを集中していた。
まあ、何かに拘る人間なんてそこら中に溢れているわけだし。ただ、仏様なんて普通の人間はあまりやらないでしょ?
カタギの人間だって、やるのはそんなに大きなものじゃないから。
それに、ああいうのって、医師免許を持ってる人が未成年にやっちゃうと、面倒な事になっちゃうみたいね。グレーゾーンでやってることだから。
まあそれもあるからかしらッて、それぐらいに考えてたわ。
そんな彼だけどね。
どうしても左腕の包帯だけは取ろうとしなかった。
ちょうど二の腕のところにいつも包帯をしていてね。絶対にタンクトップや袖の無い服は着ようとしなかった。
一度ベッドの上でからかってやろうと思って、包帯に手を伸ばしたことがあったけど、凄い剣幕で手を取られたわ。物凄い痛みで、おかげで痣になりかけた。
あたしもちょっとカチンと来てね。
何すんのよッ、て怒鳴ってやったけど、あいつの目を見たらぞっとした。
本気であたしを殺そうとしていたような目だった。そのくせ、目の奥に怯えのようなものが見えたの。何も言えなくなっちゃった。
なんだかお互いに気まずくなって、その日の記憶はそれで終わってる。
あれからどうしたのか、思い出そうとしても無理だった。
たぶん、刺青を失敗したとかそういうことなんだろうと思った。
あるいは病気とか事故とかね。
ただ、その包帯は月日が経つごとにだんだん広がっていったの。
最初は気のせいかと思っていたけど、だんだんと半袖だけだったのが長袖しか着ないようになった。
ベッドに誘っても、何かと理由をつけてあたしと一緒にすら寝なくなった。何かに怯えたようにぎょろぎょろとしていた。
さすがに刺青を失敗したにしては、変よね。
その頃から、ちょっと焦りだしたのかしらね。苛々する事が多くなって、ちょっと何か言っただけで殴られることが増えていったわ。こんな商売なんだから、顔を殴るのはやめてほしかったんだけど。
ぼうっとしていたと思えば、急に怒鳴り出したりすることを繰り返すようになった。
さすがになんだかおかしいと思ったわね。
下手に抱かれなかったのだけが運が良かったのかもしれないわ。一度そういう事になりかけたけど、高遠は自分の上着に手をかけたところで、ハッとしたように呆然としたの。それからゆっくりとあたしから離れていった。
何かから隠すように、自分の体を晒さなくなった。
明らかに何かがおかしかったわ。
でも、どうにも離れられなかったのね。
高遠を愛してあげられるのは、支えてあげられるのは自分だけだって、そういうありがちな幻想を抱いてたのよ。
だからあんな幻覚を見たの。
時々、蹲った高遠の背中が蠢いているような気がしたの。
だけど、そんな場所には何も無いでしょう。すぐに気のせいかと思ったけど、何も聞けなかったわ。
ぼろぼろになって毎日を過ごしていた時、ある日、家に帰ると高遠の声がした。
またぞろ罵声を言われてぶん殴られるのかしらんと思っていると、高遠は何かに謝ってるようだった。
「許してくれ、許してくれ、許してくれ、許してくれ、許してくれ、許してくれ……」
高遠は誰もいない空間に向かって土下座していた。
あたしは玄関で言葉を失ったわ。だけど、血まみれになった包帯が見えたら、もうそれどころじゃなかった。
どうしたのッ、て駆け寄ろうとして息を呑んだ。
最初、誰かに抱きしめられているのかと思ったの。
だけど違った。
それは上半身を埋め尽くすアザだった。
それも、人の顔みたいだった。恨めしい顔、っていったらわかるかしら。何かに怒っているような顔の人が、高遠の体を抱きしめるようにして……「居た」の。
「も、もう行かない。もう行かない! あれは遊びだったんだ、許してくれ……」
高遠はそう慟哭したかと思うと、絶叫して、あたしを突き飛ばして飛び出していった。
……。それから二日しても、三日しても、一週間経っても高遠は帰ってこなかった。
この町じゃいつ失踪してもおかしくなかったし、失踪届を出してもいいものかすごく悩んだわ。
高遠が昔、何をしたかはわからない。
けど、何かを刺青で隠そうとしていたのは確かかもしれないわ。仏様にばかり拘っていたのも、そういうことだったのかもしれないわね。
後で少しだけ聞いたけど、高遠は自分の左腕に何度も刺青を入れているところを目撃されていたらしいの。まるで隠すみたいにね。進んでいるのかと思いきや、また同じところに刺青を入れている姿が、何度も目撃されていたらしいわ。
もしかすると……何度彫っても、下から浮き出てきたのかもしれないわね。あの体に憑いていた何かが。
だけど結局……。……結局、そうね、彼の叫びが真実だったのだとしたら、本当に必要だったのはもっと違っていたもののはずよ。
あれ以来、高遠には一度も会ってないし、噂も聞かないわ。
ただの一度きりもね。
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