第7話 ライブ

 リハーサルも終わり、そろそろ本番だ。チケットは当日券を含め、全て完売したらしい。業界でも〈夏いぜガールズ〉は新進気鋭の注目株だし、その人気の高さが垣間見える。


 打ち合わせを一通り済ませた俺は他にやることがなくなり、差し入れを買うついでに会場の様子を確認してきたのだった。


「どんな感じだった?」

「なんかもう、ゴミゴミしてたぞ」

「言い方☆」


 自分たちで汗に流れない程度の、軽いメイクを施し、鏡を見ながら最終チェックをしている。化粧は薄くとも血色は良く、体調は万全そうだった。


「今日も調子良さそうだけど、出場する準備は整ったのか?」

「……バッチリ」


 今日の衣装は学校の制服に近いものだった。先輩プロデューサーの渡部さんに指定されたものだが、そのまま着ると味気無いため、それぞれが勝手なアレンジを加えている。


 最初に返事をした大越は、黒の半袖シャツに、首元まで締めた短めの赤いネクタイを装着していた。シャツの裾を黒いスカートの中に入れ、そのスカートには二本の赤い縦と横のクロスラインが引かれている。その下に黒タイツを履いているのだが、足元をハイカットコンバースの赤い靴にすることによって、一気にストリートっぽくなった。


 少しでもシンプルにしてしまうと、アイドルと言うよりかはモデルのような出で立ちになってしまう大越だったが、懐古的なジャンク品を投入することで、年相応の少女らしい一面が表れてくる。左手首の赤いバングルにより、全体のバランスを整えているのも良い。


 歌山は黒のプリーツスカートに、白地で青ストライプの半袖シャツをタックインし、無地の黒ネクタイを身につけていた。シャツはボタンを上まで閉め、ネクタイの先をシャツの第二ボタンと第三ボタンとの間に入れている。そして、もはやレザー製品は彼女のトレンドとなっているのか、黒い指抜き皮手袋を両手に嵌め、膝下まであるブーツを履いていた。


 いかにもタバコが似合いそうな格好だが、歌山の幼い容姿と不釣り合いなため、そこには何とも形容し難い親近感が生まれている。まるで近所の悪戯っ子が成長したような、エスコートしたくなる父性をくすぐられるのだ。


 少女趣味であるヘラは、他の二人より女子高生らしい着こなし方をしている。三人ともスカートは黒で統一しているようだが、その上にヘラは薄ピンクの半袖ポロシャツを着用していた。そして白とピンクのボーダー柄であるニーソックスを履き、黒のローファーで全体を引き締めている。


 胸元を大胆に開けているにもかかわらず、なぜかポロシャツ効果で優等生に見えてきた。優等生を通り越してスポーティな印象にならないよう、腰に巻いたグレーのカーディガンが良いアクセントになっている。男ウケを狙った可愛さなのに、不思議と軽くならない健全さがドストライクだ。


 俺の好みはいいとして、衣装には彼女たちの私物も混ざっている。基本的にはレンタルなのだが、安く買い取って自分たちのデザインにしているのだ。どういうわけか三人とも裁縫が得意らしく、意見を出し合って衣装のコンセプトを決めているらしい。


 今までファッションに興味の無かった大越までもが、複数の女性ファッション誌を読み比べているくらいだ。それでも相変わらず私服はダサいが、研究熱心な努力家である。


「良くできている衣装だな。三人とも似合ってるぞ」

「にひひー♪」


 素直に感想を述べると、歌山は嬉しそうに笑みを零した。日向井のせいで機嫌が悪そうだったが、これでライブも純粋に楽しもうとしてくれるはずだろう。


 舞台袖へ移動すると、既に〈夏いぜガールズ〉の二人がスタンバイしていた。二人はマーチングバンドの指揮者をモチーフとした、赤と青の衣装を着ている。


「遅いじゃない。早く流れを確認するわよ」


 共演者とのライブを成功させるには、共通認識を何度も深めることが重要だ。楽水は最終チェックを怠らず、後輩たちの緊張を解そうとする。


「私たちが四曲ほど披露した後に、〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉の三人をお呼びします。いきなり歌うのではなく、間にトークを挟むのですが大丈夫そうですか?」

「オッケー☆」


 緊張を解すどころか、馴れ馴れしい態度に先輩アイドル二人は唖然としていた。


「だ、大丈夫そうですね。トーク内容は打ち合わせ通りにお願いします」

「任せて」


 一番喋らないキャラの大越が、なぜか自信あり気に答えている。トーク内容は事前に伝えてあるが、ちゃんと五人で軽快なコミュニケーションをとれる気がしない。


「そういうことだから、せいぜいわたしたちの足を引っ張らないことね」

「分かったから、さっさと行けば?」

「くぬぅ!」


 日向井の挑発に乗らなかった歌山は偉い。偉いが、これでまた二組の溝は深まった。日向井は皮肉を言い残すことができずにステージの持ち場へつき、それを目の当たりにした楽水には悩みの種が植えつけられる。


「……本当に大丈夫かな?」


 その気持ちは非常に共感できるぞ。しかし、前回もそうだったように、こいつらは心臓に毛が生えている。あまり心配をせずとも、本番になれば実力以上のものを発揮してくれるはずだ。俺はそう信じている。


「凄い歓声だね☆」


 ステージの暗幕が上がり切り、ライトが点灯された瞬間に〈夏いぜガールズ〉の歌が始まった。ライブを心待ちにしていたファンたちの熱気が、舞台袖にいる俺にも伝わってくる。最初から絶好調だ。


「……聞いていたよりも、人が多いように感じる」


 ライブハウスの収容人数は五百人ほどであり、少なくはないが決して多くもない。それでも大越のような感想が漏れてしまうのは、全体的な会場の圧迫感のせいだろう。


 観客席は立ち見であり、もっと近くでアイドルを観ようと、人がステージの方へ押し寄せてくる。そうすると後ろの方へスペースができるのだが、ステージ側から見ると奥は真っ暗闇のため、人間がギュウギュウ詰めになっていると錯覚してしまうのだ。


 それだけではなく、ステージから流れる音楽が会場内を乱反射し、音がまるで血液のように心臓へと循環されていく。鼓動は跳ね上がり、緊張の糸が切れ、高揚する気分をコントロールできなければ、おそらく自我を保ってはいられないだろう。


「生きている証拠でしょ」


 普通の新人アイドルならば、前回の野外ライブの比ではない重圧に押しつぶされそうなものだが、歌山はそれをいとも簡単に跳ね除ける。


「ま、序の口だよね☆」

「……なんてことない」


 どうして彼女たちがプレッシャーに押し潰されないのか、今更になって理由が判明した。彼女たちが自分を信じられているのは、お互いに実力を認め合っているからだ。自分の信じる相手が自分を信じてくれていることで、安心できる絶対的な基盤を構築している。


 てっきり罵り合っていただけかと思いきや、日常的に本音を言い合うことで、虚偽性の無い信頼関係が確立していた。彼女たちの純真さが生んだ奇跡である。


「そろそろ出番じゃないのか?」


 怒涛の四曲を歌い終わった日向井と楽水は、後輩アイドル〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉を迎い入れる前説を始めていた。


「普通にするよ、普通に」


 歌山たちにとっての普通は、常人とは思考の回路からして別物だ。観客たちにとっては異常でも、歌山たちからすれば正常である。それが分かっているからこそ、彼女たちはステージの上でも自分らしく在ろうとする。


「じゃ、行ってきます☆」

「頑張れよ」


 ヘラには言葉を、大越には視線を交わした。彼女たちは楽水による合図と同時に、ステージの上へと歩み出したのだった。


「それでは満を持して、わたしたちの後輩アイドルを紹介します! 彼女たちは〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉です!」


 日向井が名前を読み上げると、まるで学校の転校生を歓迎するかのような、暑苦しいヤジが飛び交う。そんな中、歌山たちは笑顔で元気に登場した。楽水が進行役を務める。


「それでは、さっそく自己紹介をお願いします」

「はい。あたしはユニットのリーダー、歌山叶です! 趣味は音楽鑑賞で、座右の銘は【それはそれ、これはこれ】です! よろしくお願いします!」

「こんにちはーっ! ユニットのバランスメーターこと、宇喜田ヘラでーっす! 趣味はアイドル研究で、将来の夢はトップアイドル! よろしくね☆」

「……ユニットの参謀役を務める、大越輿子と申します。こんにちは。趣味は読書で、最近は演劇にも興味があります。よろしく」


 なんだか統一性の無い自己紹介が一通り済んだところで、楽水が打ち合わせ通りのトークを展開させようとする。


「ありがとうございます。個性的な女の子が揃っていますけれど、メンバー同士の相性は良さそうですか?」

「そりゃあ、もう! この衣装も自分たちで制作しました!」


 潔い嘘を吐く歌山だった。最初は個性が飛び抜き過ぎていて、仲の悪さが尋常ではなかった。最近は態度が軟化してきたとはいえ、話題を衣装の方へ向けたのはナイスである。


「あ、それ一目見たときから可愛いと思っていたんです。お互いに意見を言い合える仲なんて、少し羨ましいですね」

「ちょっと! それだとわたしが話を聞かない人みたいじゃない!」


 楽水の影がある言い回しに、相方の日向井が噛みつく。自覚はあるらしい。


「次の話に移りましょうか」

「何か言いなさいよ!」


 二人のやり取りは定番なのか、会場から笑い声が聞こえる。こういう笑いをとっていくトークの仕方も、歌山たちの勉強になれば良いと思う。


「ヘラさんは名字から分かる通り、私たちの事務所の社長さんの娘さんなんですよね。子供の頃からアイドルなるのが夢だと仰っていましたけど、今でも尊敬しているアイドルは誰なのでしょうか?」

「ヘラさんじゃなくて、ヘラのことはヘラって呼び捨てか、ちゃん付けで呼んでね? 真珠ちゃん☆」

「質問に答えてくださいー。後輩らしからぬ提案に、今後の接し方を改めたいと思います。いくら社長の一人娘だろうと手加減しませんからね」


 ヘラに悪気は無いんだが、こういう冗談なのか本気なのか分からない発言は、聞いている人が素直に楽しめないんだよな……。楽水も投げやりになっている。


「尊敬しているアイドルはー、〈夏いぜガールズ〉だよ☆」

「分かりやすい点数稼ぎ、ありがとうございますー。では、次は大越さんに質問です。アイドルになろうと思った動機はなんでしょうか?」

「売名行為」


 迷い無く言い切ったよ。コントなどは演じているというフィルターがあるから、観客が純粋に冗談だと思って笑えていられるのだが、あれ絶対にウケ狙いのギャグとかじゃないよな? 次からは大越に喋らせるな。


「綺麗な踏み台にされていますねー。どうします牡丹ちゃん?」

「どうしようもないわ!」


 上手いぞ二人とも! 絡み辛い新人アイドルの発言を、なんとか紙一重で切り捌いている! おかげで会場から笑い声が響いているぞ!


「それでは最後に、リーダーの歌山さんに質問です。今からライブですが、その意気込みをどうぞ!」

「先輩アイドルに負けないよう、精いっぱい頑張ります!」


 よし、ステージ上での歌山は優等生だ。面白味に欠けるテンプレートな受け答えは、面倒臭いトークをさっさと終わらせたいという魂胆が見え見えだが、今はそれでも及第点を与えよう。しかし、本番前の出来事を根に持っていた日向井は皮肉を言う。


「意外と殊勝な心掛けね。さっきとは別人みたい」


 かなり意地悪な発言に対して、歌山は吹っ切れたように言いたくても言いたかったことを吐き出した。


「個人的には見下していますが、ユニットとしては尊敬しています」

「なっ……」


 自己紹介で言った座右の銘の通り、見事な【それはそれ、これはこれ】だ。歌山が本気で言っているのを感じたのだろう日向井は、まさかの返答に絶句している。


「もう、おだてたって何も出てきやしませんよ」


 さり気なく自分を含めずに躱そうとしたした楽水だったが、社交辞令であることをヘラが否定した。


「嘘じゃないよ☆ ちゃんとCDだって買ったし、先輩たちみたいなアイドルになりたいって心から思うよ☆」

「嬉しいですけれど、私たちの他にもアイドルはいますし……」

「良い意味で、既存の固定概念だった正統派アイドルを貫いていると思う。なんというか、小さい女の子が憧れる感じの」


 歌山の正当な評価に対し、楽水もこれ以上は謙遜できなくなってしまった。


「褒め言葉だと受け取っておきます。それにしても、後輩から尊敬されるというのは気恥ずかしいですね。牡丹ちゃんはどうですか?」

「ぐずっ……」


 日向井は本番中だというのに、思いっきり感動していた。でも、泣くほどか?


「ええっ! どうして泣いているの⁉」

「……うるさいわね~~っ! もうトーク終了! わたしは帰る!」

「まだ途中ですよ! ……ちょっと感激しちゃったのかな? じゃ、後は新人アイドルに任せますね! 〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉よろしくお願いします!」

「……ボクは別に」


 だから大越は喋るな。


「それでは、張り切って行きましょう! 一曲目は『スーパーノヴァ』!」


 歌山が曲紹介をした瞬間、少女に似つかわしくない爆音が会場内に轟く! 自作のエフェクターボードを駆使した、歪みのあるエレクトロサウンドが脳内分泌を促す。


 その音に合わせて派手な動きで踊るアイドルに、観客の視線は釘づけだった。複雑でスピーディな振り付けに対し、繊細な指先から力強い足の踏み込みまで、三人とも完璧に共鳴している。俺まで引き込まれてしまいそうだ。


 “この夜の果て続く限り 君はどこかにいるんだろう?

  さよならも言えずに霜が満ちる 宛名の無いラブレター バイバイ”


 前奏とは一転して落ち着いた曲調になったことで、観客たちの意識がステージに集中する。ちらほらと合いの手を入れてくる声も目立つようになった。


 歌詞は俺が少女らしさを意識して、片想いの異性が遠くへ行ってしまう心情を描いた。男性ファンでも感情移入できるよう、一人称は僕で統一させたのだが、ステージ上に立つ彼女たちも演じるように表情を変えていた。


 “午前零時前改札口 僕は焦って駆け込んだ

  スイカ残金不足で出られない 乗り換え列車に乗り遅れ

  非情にも発車する列車を見送り 僕の心は凍てついた”


 会いたいのに会えない。伝えたいことがあるのに言葉にできない。日常に甘んじていた自分を戒めるような、突然の運命に翻弄される恋愛事情。

アイドルたちは歌詞の役になり切り、切なさの激情を歌声に乗せる。


 “ただ真っ黒い海を眺めながら 思いを馳せるよ

  できればキミの傍にいたかったな あの星のように

  熱い缶コーヒー飲みながら 時が流れるよ

  キミが来るのを信じるしかない 時折光る流れ星に願って”


 夜空に消え入るような声の響きを残し、いつしか風に流された。駅のホームに佇む情景の中で、寂しさを誤魔化すようなサウンドが頭から離れない。


 ×   ×


 出番が終われば、次は物販に精を出さなければいけない。事務所のスタッフは〈夏いぜガールズ〉の方にかかきりきのため、〈ゲットバッグ ザ アナーキーズ〉はアイドルが自ら売り子になり、値段の安いCDを販売していた。


「お買い上げ、ありがとうございます☆」


 売り子は交代制で、今はヘラの番だ。CDを買ってくれたファンに対し、握手をしている。ちなみに指名制ではない。大越はヘラの隣で料金を受け取っている。


 CDの内容は歌が三曲と、アイドル三人の自己紹介音声である。先着で写真も付けていたのだが、早々に無くなってしまった。予想外の売れ行きに焦り、ひたすらPCでCDを大量複製していた俺に、休憩中の歌山が世間話を持ち掛けてきた。


「こんなの勝手に売っていいの? 確かCDとかって、何かの商標登録が必要なんじゃなかったっけ?」

「それはメジャーでの話。インディーズなら自主製作が当たり前だ」


 事務所にあった簡単な機材だけでレコーディングし、そのデータをCDに移しただけの代物である。ジャケットも無く、ビジュアル的にはデモテープと変わりないのだが、なぜか売れていく。リーズナブルな値段設定にしたからか?


「もっと他にグッズ無いの? ポンコツCDだけじゃ大した儲けにならないよ」

「千円の団扇でも売れってか? この商業主義者め! そもそもライブに参加したのはPR活動の一環であって、物販の売り上げが目的じゃないぞ」

「じゃあ、もうCDを刷るの止めなよ。給料が上がらないなら、早く家に帰りたいー」

「活動資金は大切だ」

「ああ言えば、こう言うなー」


 そこは【それはそれ、これはこれ】と言ってほしい。最初は何をするにも金が要る。CDやグッズを制作する際、何よりも重要なのはデザインだ。そして、そのデザイン費に金がかかる。CDジャケット以外にも、ユニット名のロゴや、Tシャツのプリントだって綿密に考えねばならない。


 それらをアイドル活動と並行させて行うと、どうしても妥協できない部分で時間が合わなくなるのだ。今回だって一度のチャンスしかないPR活動を優先して、本業であるCDデビューを先延ばしにしている。歌山を商業主義者と罵っておきながら、俺も人のことは言えないのであった。


「叶ちゃん交代だよ☆」

「はいよー」

歌山と売り子を交代し、ヘラが俺の隣に座る。

「お疲れ。流石にCDの売れ行きは落ち着いたか?」

「そうだね☆ もう刷らなくていいかも☆」


 いつにも増して語尾に星マークの付いたヘラは、非常に機嫌が良さそうだ。見ているこっちまで楽しい気分になってくる。


「ライブ終わりだってのに元気だな」

「すっごく嬉しいんだもん☆ だって念願の夢が叶ったんだから!」


 そうか、ヘラはもう夢の一歩を叶えたことになるのか……。自分の過去を思い出すと感傷的になってしまいそうだが、俺が彼女の背中を支えてやらなければいけない。こんな売れないバンドマンみたいなCDを、いつまでも売っているわけにはいかないのだ。


「次はメジャーデビューだな」

「約束だよ☆」


 ヘラと共に固い決意を交わしていると、売り場の方から歌山の叫び声が聞こえてきた。


「プロデューサーっ! ちょっとこっち来て!」

「どうした?」


 歌山が指し示す方向には大越がおり、その手元にはアルコールスプレーが握られていた。それだけで全てを理解する。


「今すぐ止めろ!」


 休憩したばかりのヘラと代わってもらい、大越を物販ブースの裏へ引き込む。大越がアルコールスプレーを所持していたということは、それをファンと握手する度に使用していたということだ。


「大越の潔癖症は分かっているから消毒するなとは言わんが、ファンの見えるところでやるのは駄目だ。傷つくだろ」

「……こう、他人と触った手で、他人と触る方が失礼」


 こいつは異性に触ると妊娠するとでも思っているのか? とはいえ、男性が苦手と言うわけでもないし、ただ単純に言い訳だろう。


「良かれと思ってやったことなのは分かった。でも駄目なものは駄目だ!」

「…………」


 大越は冷徹な目で左手を添え、そのまま俺の頬を引っ叩いた。


「痛いっ! 暴力も駄目!」


 俺の話を聞くことなく、アルコールスプレーで叩いた手を除菌していた。いくらなんでも自由すぎるだろ……。ここでキレてはいけない。なんとか理性で怒りを抑え、大越を改心させるための気を取り直す。


「ヘラを見ろ。嫌な顔一つせずに、笑顔でファンと接している」

「お買い上げ、ありがとうございます☆」


 握手を機械的な単純作業と割り切っている歌山とは違い、ヘラは最初から今まで笑顔を絶やしてはいない。アットホームな雰囲気でファンを楽しませていた。


「……笑顔の押し売り」

「否定できん」

「いや、そこは否定しろよ」


 あいつは地獄耳か何かか? 歌山に的確なツッコミを入れられるようでは、俺も大丈夫ではないな……。


「まだ知名度の低い新人アイドルなのに、ああしてCDを買ってファンになってくれているんだ。ちゃんと感謝しないとだろ?」

「……ボクはあの人たちのために歌っているわけじゃない」

「じゃ、誰のために歌っているんだ? 自分のためか?」

「……それは、分からない」


 誰のためにというか、何のために自分がアイドルをやっているのか迷っているのだろう。ヘラのように目標があるわけでもなく、その場凌ぎとして中途半端な活動をしている自分に対し、ファンと接することで罪悪感が芽生えたのか。


「よし、了解した。お前はそのままでいい。無理して自分を変える必要も無い」


 気持ちの整理がつかないのに、アイドルとしての振る舞いを押し付けるわけにもいかない。大越は自己の内面と向き合う時間が必要だ。


「……ありがとう」


 お礼を言われても困る。俺はただ問題を先延ばしにしただけだ。


「えー、何か甘くない?」


 いいから歌山は仕事に集中しろ。この様子だと、今の会話は全て聞かれていたらしいな。


 聞かれていても特に問題は無いのだが、このせいでこれからのユニットは方向性が大きく傾いていった。

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