密談、昔も今も隣人の彼女

 何時いつからだろう。人に素直になれなくなったのは。

 何時からだろう。人の事が信じられなくなったのは。

 何時からだろう。自分の事を嫌いになったのは。

 何時からだろう。みっともなく足掻くことが恥ずかしいと感じる様になったのは。

 何時からだろう。他人に近付けなくなったのは。


 何時から、何時から、何時から、何時から──。

 なぁ、誰か教えてくれよ。

 俺はどうすれば良かったんだ?

 言いたいことも言わないで黙って従ってれば良かったのか?

 黙り込むと叱られるのに。

 理不尽すぎるだろ。


 なぁ、誰でもいいから教えてくれよ。

 教えてくれよ、教えてくれよ、教えてくれよ、教えてくれよ──。


 教えてよ先生、俺はどうすれば良かったんですか?

 そう一言だけ相談出来ればどんなに楽だっただろう。どんなに救われただろう。

 ──分かってるよ。

 先生はもうこの世にはいない。

 なら、探すしかないだろ?

 俺の気持ちを理解してくれる相手を。俺の悩みを聞いてくれる相手を。


 先生の代わりになってくれる俺だけの相談相手パートナーを。

 見つけよう。

 早くしないと夜のそらから月と星の光が消えて夜が明てしまうから──。


  ■ ■ ■


 鉛の様に重くなった足がこれほど邪魔に感じた事が今まであっただろうか。


 あれから時間も経ち夜もけた午後十時。俺はギリギリで残った最後の希望を手に握りしめ、薄暗い夜道の中をただ一人、亡者の様にとぼとぼと歩いていた。


 目的地は姫川家の自宅である。

 向かう目的は家に置き去りにされたクソ重いバッグを持ち主に返すためだ。


 自転車に乗ればものの十分たらずで着ける程度の距離を俺はわざわざ歩いて向かっていた。自転車に乗ればあっという間、そんな簡単な事にも気付かないほど、俺の精神はぼろ雑巾のようにビリビリに擦り切れていた。


 満身創痍まんしんそうい疲労困憊ひろうこんぱい。コンディションは最悪。

 それでも、何とかここまでは来られた。

 みんなが住んでいるこの集落に。


「ここに来るのも六年ぶりか」

 視線の先にぼんやりと見覚えのある家屋が見える。


 鳥籠とりかごみたいな不自由で窮屈きゅうくつな古巣。昔の我が家。

 もう二度とこの辺りには戻らないと思っていたけど。


『行かないで! 大和!』

 ──ああ、そうだ……ちょうどこの辺りだった。

『やだ! 行かないで! 待ってよ! 行っちゃダメ!』

 引っ越しの当日にアイツはこのあたりで、車に乗ろうとする俺にすがり付いて来たんだ。

『うぇぇぇぇ……うわぁぁぁ──』


 二度と会えなくなるわけでも無いのに必死になって、そんで泣き叫んで。俺はそんな姫光の気持ちが理解出来なくて。


「ほんと、馬鹿だよな」

 そんな事をポツリと呟く。

「ちょっと考えれば分かるだろ。引き止めるって事はつまり『そういう』事なんだよ」

 どうして昔の俺はちょっと考えれば分かる事が分からなかったんだろう。


 いや、昔も今も一緒だ。俺は何も変わっていない。

 だからだろうな。

 また俺は目の前で姫光を泣かせてしまった。


「だから『さようなら』は嫌いなんだよ」

 もう二度と会えなくなる気がするから。

 別れの挨拶は『またね』以外聞きたくない。


「──何が嫌いだって?」

「…………っ!?」

 唐突に背後から投げかけられる耳慣れた声にビクリと身体が震える。


「君さ、こんな時間にこんな場所で何やってんの?」

 振り返らなくても声の主が誰か分かった。そのよく通る澄んだ声はうんざりするほど学校で聞いているから。


 それに古巣の隣は委員長様の家だから。大方、また自分の部屋の窓から外でも見ていたんだろう。

 わざわざ家から出てくるとか、俺に一体何の用だよ。


「……そういうお前こそ、なんでまだ起きてるんだよ? 良い子はもう寝る時間だろ?」

「質問に質問で返さないでくれるかな? 君は本当に人をおちょくるのが好きみたいだね」


 俺は。

「……ああ、そうだな。お前の言う通りだよ。俺は存在自体が不愉快なやつなんだ。悪かったな」


 口論するほどの気力も残っていなかった。ただありのままの事実を受け入れる。この場をやり過ごすにはもうそれしか選択肢が残っていなかった。


「──なんだよ。張り合いがないなぁ……」

 ポツリとそんな事を呟く昔のお隣さん。今は振り返りたくないから、どんな表情をしているかは俺には分からない。


「……ボクはテスト勉強の気晴らしにちょっと夜風に当たりに来ただけだよ。そういう君は随分と長距離の散歩に興じているみたいだけど?」


 こんな時間までテスト勉強とか、本当に真面目だな。まぁ、そんだけ真面目じゃなきゃ進学校で学年主席になんて早々なれないか。


「べつに散歩じゃねーよ。俺はただ……今から土下座しに五軒先の家に行くだけだ」

「ふーん……土下座しに五軒先に、ね。その割にはさっきからずっとそこで立ったままみたいだけど?」


 やっぱり自分の部屋からこっちの様子をうかがっていたのか。委員長様は意外と悪趣味な奴だったんだな。


「なんだ、俺に声を掛けるためにわざわざ外に出て来たのか? なら丁度いい、ちょっと気晴らしに話相手にでもなってくれよ」


 何でこのタイミングでそんなことを言ったのか自分でもよく分からなかった。多分、心に余裕がなかったんだと思う。普段ならそんなこと絶対に言わないだろうし。


「……べつに君のために出てきたわけじゃないんだけど。でも、そうだね……少しくらいなら話に付き合ってあげてもいいよ」

「へぇ、意外だな。委員長様が俺に優しくしてくれるとか、明日は雪どころか空から槍でも降るんじゃないのか?」

「そりゃ優しくするさ『泣いてる相手』にムチを打つほどボクは鬼畜でも外道でもないからね」

「………………」


 なんだよそれ。何で振り返ってないのにそんなことが分かるんだよ。エスパーでもあるまいし。

「……いいのか? 未成年の深夜徘徊は補導の対象だぞ? 非行を見逃すのは職務怠慢じゃないのか?」


 この状況で泣いてねーよ、とは言えなかった。

「生憎、ボクは警察官の娘であって警察官ではないからね。深夜徘徊している未成年を補導する権利はボクにはないんだよ」


 クソ真面目な委員長様にしては珍しい物言いだった。

「そんなことは兎も角、話をするならそろそろこっちを向いてくれないかな?」

「はっ、嫌だね。学校で嫌ってほど顔見てるのに何でプライベートまでお前の顔見ないといけないんだよ」

 俺はこのおよんでガキみたいな悪態をのたまう。


「へぇ、意外だ。君がボクの顔をちゃんと見ていたなんて知らなかったよ。今度からはもう少しメイクに気を使おうかな」

 心なしか声が弾んでいる委員長様。今の悪態のどこに喜ぶ要素があったんだよ。

「安心しろよ。メイクなんてしなくてもお前の顔はそこそこ綺麗だから気にすんな」

「そこそこ、ね。一応褒め言葉として受け取っておくよ」


 まぁ、本当は普通に綺麗な部類なんだけど。そんなこと面と向かって言うどころか、背中越しでも恥ずかしくて言えないけど。

「……なぁ、伊織」

「なんだい?」

「相談に乗ってもらっても良いか?」

「……良いよ。ボクが聞いてあげるから話してみなよ」


 べつに誰でもいいってわけじゃない。それなりに頭が良くて博識な奴が知り合いにコイツしかいなかったから。立場とか立ち位置とかそういう面倒なのは抜きにして真っ当な意見を出してくれる相手を俺は求めていたんだと思う。


「大切な幼馴染と仲直りするにはどうしたらいいんだ?」

「…………」

 しばしの沈黙の後、昔も今も隣人である彼女、帯織伊織は──。

「簡単だよ。素直に謝れば良いんだ」

 と答えた。

「……簡単に言うなよ。それが出来たら今頃こんな風になってなかっただろ」

「そうだね。それは簡単だけど凄く難しいことなのかもしれない」

 ならさ、と伊織は言う。

「ここで一回、予行練習でもしてみれば良いんじゃないかな?」

「…………」


 予行練習、ね。

 嫌味なのか、素直に受け取るべきなのか、判断に困る提案だった。

「なんだ、お前相手に土下座でもしろってか? 悪いけど土下座は本番にとっておきたいんだ」

「心外だなぁ、違うよ。なんていうか、君はボクのことを酷く誤解しているみたいだね」

「昼間に無理やりひざまずかせた奴に誤解も何も無いだろ」

「あれは、その……ボクも少しやり過ぎたとは思ってる……けど」


 クソ真面目な委員長様にしては珍しくモニョモニョと歯切れの悪い返しだった。

「あれは相当心が傷付いたな。犬扱いされて精神が擦り切れそうだった」

「う〜……分かったよ。おびも兼ねてボクが一つ手本を見せてあげるから、よーく聞いておくように」

「は? 手本て何を──」


 伊織は。

「昼間はごめん。君を煽って怒らせるためとはいえ心にも無い事を言ったのはボクも深く反省している。許してくれとは言わないけど謝罪の意志だけは受け取ってくれないかな」

 これが手本だと言わんばかりに素直に謝った。不思議とその言葉だけはいつわりのない伊織の本心の様に感じられた。


「…………なんだよそれ、ズルイだろ」

 そんなこと言われたら余計に振り返れないし、ここで許さないと俺が悪者になるじゃないか。

「そうだね。ボクは卑怯者だ。君の言う通り卑怯者で偽りの正義を振りかざす偽善者さ」


 だって、と伊織は言う。

「ボクは君がから」

「っ!?」

 耳を疑う様な言葉。反射的に身体が後ろに振り向いてしまう。


「……ようやくこっちを向いてくれたね。どうやら、少し勇気を出して謝った甲斐があったみたいだ」

 視線の先には微かに口元が緩むパジャマ姿の委員長様がいた。

 委員長様に良く似合う清楚な感じの白い花柄のパジャマだった。


「お前、なんで……」

 驚愕の発言に俺は酷く混乱し言葉を詰まらせる。

「なんで、か。そうだね……君が現実と向き合う気になったみたいだからボクも現実と向き合う事にしたよ」

「いや、俺が訊きたいのは……」

 なんて言えば、何を訊けば良いか分からない。急すぎて頭の中がぐちゃぐちゃだ。もう訳がわからない。


「……どうやら、これ以上話すと君の頭がパンクしそうだから今日はもうおいとまさせてもらうよ」

 伊織はクルリと振り返り俺に背を向ける。

「でもね、一つだけ言えるのは昼間君にぶつけた言葉は『真実』じゃなくても間違いなく『現実』なんだよ」

「…………」


 君よりも雪雄の方が信頼に値する。真実じゃなくても間違いなくこれは現実。

 確かに、そうなんだろう。結果が全てを物語っている。


「まぁ、君はとりあえず信頼回復の足掛かりのために五軒先の『大切な幼馴染』に無様な土下座を見せ付けてくれば良いよ」

「ふざけんな、土下座はあくまでも最終手段だ」

「はは、そうかい。まぁ、せいぜい頑張ってね大和」


 そんな言葉を残してクソ真面目な委員長様はスタスタと歩いて自分の家に消えて行った。

「…………はっ、うっせ。大きなお世話だよ」

 気がついた時には涙はもう止まっていた。

「微妙にムカつくから礼は言わなねーよ伊織」


 ずっと疑問に思っていた。

 頭の良いあの委員長様が何の証拠もない証言を本気で間に受けるだろうか、と。


 伊織が何を考えてあんな事を言ったのか俺にはさっぱりわからないけど。

 でも一つだけ言える事がある。

 さっきの謝罪はあくまで『予行練習』の言葉。つまりまだ本番じゃない。クソ真面目な委員長様とはまだ仲直りしていない。

 まだ仲直りしていないけど。

 いつかきっとその時が来る。そんな期待感くらいは持っていても良いのかもしれない。


「勇気を貰った以上、素直に謝りに行かないと男じゃないよな」

 そして俺は決意を固めて五軒先の家に向かう。

 大切な幼馴染である姫光の家へ。


 ただ一つ、いや二つ誤算があるとすればそれは──。

 まだ姫光が家に帰っていない事と。

「……お前、何しにここに来た?」


 王子様がお姫様の屋敷の前にいる事くらいだ。

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