夕食、今夜は(ドライ)カレー

「アンタに相談したい事があるのよ」


 姫光に玄関の前で座っている理由を訊いたらそんな答えが返ってきた。

「相談? 昨日の件か?」

「ん、まぁ……積もる話はご飯食べてからにしましょ。あたしもうお腹空いて死にそうだから」

「…………お、おう?」


 問答もそこそこに、玄関の鍵を解錠すると、姫光は遠慮なく我が家に上がり込み、ツカツカと台所に向かって行った。


献立メニューはカレーで良いわよね? アンタ、カレー好きでしょ?」

 不覚にも『好き』という単語に反応して一瞬だけドキリと心臓が跳ねてしまった。

「あ、ああ……好きだよ」

 否定はしない。

 それにカレーが嫌いな日本人ってそうそういないだろうし。

「夜ご飯はあたしが作るからアンタは今のうちにお風呂の掃除しておいてよ」

「お、おう。分かった」


 色々と訊きたいことがあったし、話したい事も、話さなければいけないこともまだあったのに、気が付いたら姫光に主導権を握られ、流されるように了承してから早数分。


 午後七時前。自宅の風呂場。

「いや、呑気に風呂掃除してる場合じゃないんだよなぁ……」

 スポンジブラシでゴシゴシと浴槽を洗いながらそんな事を独り言ちる。


「また大きいバッグ持ってたし、どう考えてもアレはもう一度うちに泊まるつもりだよなぁ……」


 いや、姫光に頼られるのは素直に嬉しいよ? 嬉しいけど。

 どう考えても、これは間違った対応だ。

 姫光のやってることは世間的に見ても非行なんだ。

 良いか悪いかで言えば間違いなく悪い事だ。

 あの感じだと多分家にも帰ってなさそうだし。

 姫光の力にはなってやりたいけど。物事の分別に公私混同は良くない。


 これ以上家出や非行に走るなら何とかして説得しないと。

 何かの拍子で警察のお世話にでもなれば絶対良くない噂が流れる。

 姫光の為にもそれだけは何としても回避しないと。


 それに、だ。

「何よりも自分の邪な性衝動リビドーを抑制するすべが無いんだよなぁ……」

 現状姫光にとって一番危険な相手は他でも無い俺自身だし。

 昨夜は暗闇のおかげでギリギリ我慢出来たけど。

「…………」

 思い返したら姫光の奴、素っ裸で俺の上に乗ってたんだよなぁ……。


「はぁ……大事な幼馴染おひめさまをエロい目で見ている自分が憎い」

 異性に欲情するのは自然の摂理であり仕方ないとはいえ。

 恋愛感情よりも性欲がまさっているような気がしてムラムラしている事実に自己嫌悪を感じてしまう。


「……昨日みたいに迂闊うかつな事すんなよ」

 それをしたら、いよいよ本物の犯罪者になる。

「二度目は無いからな」

 そう自分自身に言い聞かせて手早く浴槽を洗い上げる。

 今はただ失った信頼だけを取り戻せ。俺はまだ恋愛対象のスタートラインにすら立てていないんだ。


 ゼロ地点どころかマイナスから好感度を上げないといけないんだ。

 ただでさえ遅れているんだ。これ以上つまずいてなんかいられない。

 ピッと。

 決意の証にお風呂の給湯ボタンを押し、浴室を出て台所に向かう。


「ふーんふーんふーん♪」

 台所に入ると陽気な鼻歌を歌いながら野菜をトントンと小気味好く切る姫光の姿があった。

「…………」

 こうして後ろ姿を眺めると、ギャルが台所に立って新婚ごっこをしている様にしか見えない。

 エプロン姿の幼馴染が台所で料理を作っている。しかも割と薄着の格好で。


「…………」

 うむ。

 控えめに言って最高の光景だった。眼福とはまさにこれだよな。


「ら〜ら〜ら〜♪」

 ほんと、相変わらず料理している時と歌っている時は凄え楽しそうだよな。

 俺は暫くの間、コッソリと姫光の作業を後ろから見守ることにした。


 意外に思われるかもしれないが、姫光はあんな性格の割に料理が抜群に上手い。


 高飛車でワガママな性格の女子はだいたい料理が出来ないという固定概念イメージを全力でぶち壊すレベルで上手いし美味い。


 料理のみならず家事全般なら難なくこなしてしまうほど姫光は女子力が高い。

 意外だろ?

 シャイニー海賊団の船長は女子力の権化なのだ。

 小、中学時代の姫光は五教科の成績は平均以下なのに家庭科と音楽だけはいつも学年でぶっちぎりの一番だった。


 中学時代に至っては『家庭科の女王』とか変な通り名があったくらいだ。

 実際、一緒のクラスだった時期に見た裁縫の授業は姫光だけ課題の提出物が異次元の完成度だった。あの時は同じ材料と制作期間なのに技術の差でこうも違うのかと感心したものだ。


 小学生時代のクラス担任に「この子はどこに出しても恥ずかしくない嫁になれる」と賞賛されるほど、姫光は家事の才能に恵まれていた。おそらくは母親による教育の賜物たまものなのだろう。


 身内の贔屓ひいきを差し引いてもお姫様キャプテンは『学力以外は』基本的に高スペックな女子である。


 正直言って夕飯が楽しみでしょうがない。期待感に胸が踊る。ワクワクした気持ちが止まらない。


 それに。

「進め〜天下無敵の〜シャイニー海賊団〜♪」

 楽しそうな姫光の歌を聴いていると何だかこっちまで楽しい気分になれる。


 災い転じて福となす、とまでは言わないけど。

 久しぶりに幼馴染の手料理を食えて歌も聴けるとか役得過ぎて後が怖い。運使い果たして明日死んだりしないよな?


「ふーんふーんふーん……ん?」

 俺の気配に気づいたのか、クルリと振り返った姫光とバチっと視線がかち合う。

「ピョッ!?」

 状況を理解したのか、姫光の顔が羞恥の色に染まり、みるみると熟れたトマトの様に紅潮していく。


「な、な、な……」

 エプロン姿の姫光はワナワナと身体を震わせる。どうやら、俺に歌を聴かれたのが恥ずかしかったみたいだ。

「い、いつからそこに居たのよ!?」

「え? ついさっき」

「ついさっきってどの辺りよ!?」

「鼻歌からシャイニー海賊団のテーマに変わった辺りから」

「それは『ついさっき』じゃなくて『ちょっと前』よ!!」

「そうか?」

「そうよ!」


 どっちも一緒だと思うけど。

 具体的な数字のない単位とか感覚って人によってまばらだから。

 もしかしたら。

 そういう感覚の違いとか価値観の違いが最終的に『思い違い』になって気持ちがすれ違うのかもしれない。


 意思の疎通も相互理解も。

 言葉を交わしただけでは相手に伝わらない事がある。

 俺はそれを今夜、改めて痛感する事になる。


「てゆーか、お風呂掃除が終わったんならこっち手伝ってよ!」

 プリプリと怒る姫光に俺はありのまま事実を伝える。

「ふっ、俺が料理出来るとでも?」

「何キメ顔でしょうもないこと言ってんのよ! 食器並べるとか手伝うこと色々あるでしょ!」

「へいへい、分かったよ」


 食器棚からカチャカチャと皿とかスプーンなどの食器を適当に出しながらふと思う。

 深く考えないで喋った方がスムーズに話が出来るな?

 少なくとも昨日よりは自然に会話している。

 まるで昔みたいに。


「あとちょっとでご飯炊けるからアンタは食器並べたら大人しくそこで待ってなさいよ?」

 そうだよ。昔に戻ればいいんだ。難しい事は一旦忘れて今はこの時間を楽しむんだ。

「……ご飯は炊けても肝心のカレーがまだ出来てないみたいだけど? もしかしてレトルトなのか?」


 俺の問いに姫光は得意げな表情で「あたしを見くびるんじゃないわよ」と返す。

「今から光の速さでちゃっちゃとカレー作るから見てなさいよ?」


 高速はともかく光速だと人間は死ぬと思うけど、と言いたい気持ちをグッと堪える。

 女の戦場である台所で余計な茶々を入れるのは無粋だと思うから。「見てなさいよ」と言われた以上、観戦しないわけにもいくまい。


「カレーなんて『下ごしらえ』さえしてればすぐなんだから」

 そう言って姫光はフライパンを火にかける。

「…………」

「…………」

 フライパンが熱くなるのって結構時間かかるよな。


「……や、流石に秒でカレーは作れないからね?」

 光の速さで、とかいらない見栄を張ったせいだろうか姫光はそんな言い訳をする。


「……べつに急いでないからゆっくりやれよ」

「ゆっくりしてたらあたしが困るの! お腹ぺこぺこだから!」

「そうか、急いで怪我すんなよ」

「むぅ、人のこと馬鹿にして見てなさいよね」


 そう言って姫光は熱したフライパンに挽き肉と思わしき茶色い塊を落とす。

 ジュワッと油の跳ねる音が聞こえる。

「見てなさいよ。あたしのカレーはここからが早いんだから」

 フライパンに入れた茶色い塊から肉の焼ける香ばしい匂いとカレー特有の香辛料の香りが台所にモワモワと広がる。

 良いな。

 この匂いだけで既に美味しい。やっぱカレーの醍醐味はこのスパイシーな香りだよな。


「大和、電子レンジからボウル出して」

「ボウル? このラップしてあるやつか?」

「そう、それ」

 電子レンジから野菜のみじん切りが入ったボウルを姫光に手渡す。

「ありがと」

 ボウルを受け取った姫光は野菜をフライパンに投入して手早くかき混ぜる。


 そこからが本当に早かった。トマトの缶詰やら調味料の類を入れるなどの細かい作業こそあれ体感でも三分かからずにフライパンがコンロから上がる。


「ほらね、すぐに出来たでしょ?」

 出来上がった物は一般的なカレーとは異なる水分が少ないそぼろ状の物だった。

 俺はこのカレーを何と呼ぶか知っている。


「おお……ドライカレーか──」

 ペロリと。

 髪を避けてカレーの味見をする姫光。そのなまめかしい仕草に言葉が詰まり唇に視線が釘付けになる。


「うん、おいし。流石あたしね」

 作った本人も自賛するならこのカレーはさぞかし美味いのだろう。

「ほら、アンタも味見してみなさいよ」

 そう言って姫光はスプーンに一口分のカレーをすくい俺にずいっと差し出す。いかにも「はい、あーん」という動きだ。


「…………えっ」

 反応に困る俺。

 はい、あーんも照れるけど。何よりも、その差し出されたスプーンは姫光が既に『使用した物』だから。


「むぅ、何よ! あたしのカレー食べたくないって言いたいわけ!?」

「いや、そうじゃなくて」

「何よ、ドライカレーだって立派なカレーでしょ? 作ってもらったくせに好き嫌いすんの?」

「いや、そうじゃなくて」


 姫光が昔のノリで接してくれるのは嬉しい。嬉しいけど全てが昔のままというワケにはいかない。当然、相手が年頃の異性だって事は重々承知している。


 だからこそ。

「悪い。それは流石に恥ずかしい……」

 俺は一定の距離を置く。

「…………そう? あたしはべつに平気だけど?」

 そう言って姫光はスプーンをパクリと自分の口に運ぶ。

「……あっ」

 俺の心情を理解したのか姫光は気不味そうに視線を逸らす。


「そっか。そうだよね……あたしの使ったスプーンは──嫌だよね」

 カァッと、耳の先まで羞恥の色に染まった姫光はモニョモニョとそんな事を呟く。

「……べつに、気にすんな」

 肯定でも否定でもない曖昧な返事。

「…………」

「…………」


 気不味い沈黙が我が家の台所を満たした後はそれはもうつらかった。

 とにかく辛かった。

 カレーではない場の雰囲気がだ。

 全身にとろろ芋でも塗りたくたかの様なむず痒さに苛まされながら「カレー美味いな」「ありがと」とか「サラダとスープも作ったんだ」「へぇ、お前、相変わらず手際が良いな」とか「おかわり食べる?」「ああ、もらうよ」みたいな一言で終わる短い会話のキャッチボールを繰り返しながら食べる夕飯。食器の音がやけに鮮明に聞こえるほどの気不味い空気。

 そんな空気で真面目な話が出来るわけもなく。


「し、食器は俺が洗うから……」

 食べ終わっても気不味い雰囲気は続いて場の空気に流されるままに──。

「じ、じゃあ、あたし先にお風呂入るから……」

 お互いが抱える話さなければいけない事を置き去りにして。

「相談はその後にするから……」

「お、おう。分かった」


 時計の針は無慈悲にも刻一刻と進んでいく。

 その瞬間ときに向かうために。

 分かり合う事の難しさを知るために。


 ただ一つだけ言える事は。

 俺にとっても、姫光にとっても。今夜はお互いにとってかけがえのない時間であり、想い出に残る青春の一ページになる事だけは確かなんだろう。


 そして、夕飯から数分後。時間も経ち、気持ちも落ち着いた午後八時。

 風呂から上がった姫光はリビングで衝撃の一言を俺にお見舞いする。


「あたしをこの家に住まわせて」

 一瞬、言われている意味が分からなかった。

 俺は「どういうことだ?」と訊き返す。

「決まってんじゃない。アンタはこの家であたしと同棲どうせいするのよ」

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