わたしの気持ち
特別教室棟の角にある化学室は一般教室よりも一回り大きくて廊下の突き当たりが観音開きの扉になっているのだけど、その扉の取っ手を引いてみてもガチャガチャと音が鳴るだけで開かなかった。授業で実験がある時なんかはフランス落としを下ろして片側を固定してもう一方を開放してあったりするので、もしやと思って反対側にも手をかけてみるもやっぱり動かない。どうやら鍵が閉まっているようだ。
準備室の引き戸のほうも施錠されていて、入室もできず放課後の寒い廊下でどうしたものかとひとり途方に暮れる。トラブルに遭遇しても率先して対処するよりは誰かが動き出すのを待ってそれに倣うタイプなので、自分しかいない状況だと窮してしまう。閉まっているのだから掃除をせずに帰ってしまってもいいよねと開き直って立ち去れれば楽なのにそれもできず無為に時間が過ぎて行く。
化学室の掃除当番になっているのはわたしだけではなく、同じ班の生徒がやって来るのは当然なのに、彼らの姿が現れるまでその事実にすら思い至れなかった。集まって来たクラスメイトに「どうしたの? 入らないの」と声をかけられれば実演を交えて事情を説明できるのというのに、こんな小さなトラブルでさえ頭が真っ白になって立ち尽くしてしまうのだ。鍵、取りに行ってくると切り出して言い終わるやいなや廊下を駆け出し職員室へと向かう同級生の後ろ姿がたのもしかった。
残されたわたしたちは、おのずとこの状況を愚痴るみたいに廊下の隅っこでおしゃべっりに興じる。出席番号順で区割りされた班だから特別仲の良いクラスメイトもいなかったけど、校外学習や一斉清掃といった行事なんかで班ごとで活動する機会も多くて、この一年を通して雑談でそれなりに盛り上がれる程度には親しくはなっていた。
職員室に行った生徒はすぐに戻って来た。けれど、手に鍵を持っていなかった。なんでも、最後のクラスの実験が昨日終わって今年度はもう化学室を使用する機会がないので閉めっぱなしにしてあるから掃除もしなくて良いらしい。単純な伝達ミスだ。うちのクラス担任か化学の教師かは知らないけど連絡忘れとかないわ、ホント勘弁してって感じ、ないわーとひとしきりぼやいているのに付き合ってからわたしは皆と別れ部活へと向かう。
気づけば二月も半ばで、来月の頭には学年末テストも控えている。化学で全クラスの実験が終了したように他の授業でも教科書の残りが少なくなっていたし、進捗が遅い教科は早く終えられそうな教科のコマを借りて急ピッチで授業を進めて計画の調整が計られたりしている。バレンタインは、体育祭や文化祭ほどではないにしても高校生活を彩るイベントだけど、本来は浮かれている時期ではないのかもしれない。
それでも、わたしはこのバレンタインという日を逃してはと思ってしまう。向嶋センパイは二年生で来年には受験が控えている。センパイの進路は知らないし、夏まで部活をやるのかそれとも春には引退してしまうのかもわからないけれど、考えてみれば、どちらにしても放課後に体育館でセンパイたちと一緒に過ごせる時間はそれほど残されてはいはない。あと数ヶ月もすれば、廊下ですれ違って顔を合わせても会釈をするか迷うような微妙な距離感の顔見知りになっていてもおかしくはない。わたしたちは他に接点らしい接点を持っていないなくて、唯一と呼べるつながりがが部活後のあのひとときだけなのだから。
彼の姿を眺められているだけでわたしは充足していた。日常の些事で嫌な気持ちになってもボールを追いかける彼を見ているとそんな暗い感情も吹き飛び元気をもらえるような気がしたし、中学時代はどうやって心を潤していたのかと疑問になるくらいに、帰りに体育館へ寄るのは生活の一部になってい。
いずれ、そうしてセンパイとのわずかな交流さえなくなるという事実に対する一抹の寂しさのようなものがある。けれど終わりが訪れるの自体は、出会いがあれば別れがあるのが当然だと冷静に事実として受け入れている。
わたしが嫌なのは、明確な別れもなくかすかな繋がりさえ絶たれてフェーイドアウトみたいな形になってしまう事だ。利口ぶって、どんな関係にも終わりはあり離別は必然だと頭で理解していても、気持ちは別の所にある。片思いとしてはっきりとした最後もなく学生生活の日常に流され風化するかのように感情が薄らいで思い出になって行くのは、この思いを忘れ全てを嘘にしてしまうみたいで許せなかった。センパイへの好意を胸の奥底に沈め自分自身を欺きたくはないし本物としてちゃんと言葉にしておきたかったのだと、わたしはいまさらながらに気づく。
思いを新たにして人気のない廊下を縦断して、化学室とは反対側の校舎に端にある美術室に辿り着く。室内からは椅子を引きずる音や話し声が聞こえてきていた。鍵の件で多少を時間のロスがあったとはいっても、六限目が終わってからそれほど経っていなくてまだ掃除の時間だった。入室しても邪魔になるだけなので廊下で当番の生徒たちが出てくるまで待ってから扉を開く。
美術室は換気のために窓が開けられていたようで、ついさっきまで人がいたとは信じられないくらいに空気が冷えていた。まだ他の部員は来ていなくて一番乗りのわたし一人のためだけに暖房をつけるのは躊躇われたけれど、そのうちに誰か来るだろうと思い直してストーブのスイッチを入れてそのまますぐ近くの窓際の席に腰を落ち着ける。コートは、床に下ろしたカバンの上に丸めて載せた。
背後にある教室の後ろ側の壁は特別教室棟の本当の端で、外壁を挟んでその向こうには体育館が建っている。二つの棟は平行に並んで建っているけれど、大きさが異なっている上に両棟の中心が微妙にずれていて、俯瞰すると逆さまにした「二」の長い方の棒を横へ滑らせたような若干歪な図になる。特別教室棟の端に横付けするように建った体育館へは、そのずれた長い棒に当たる本棟から連絡通路が伸びていて、ちょうど美術室の窓から見下ろせた。
部活へ行く生徒の姿が現れるようになると自然とわたしの目は向嶋センパイの影を探しはじめる。日は沈みはじめていてるし近くに外灯が設置されているわけでもなく、校舎と体育館の間にみざらの渡しただけの道を照らしているのは両者の建物から漏れた弱々しい光だけで、おまけに斜め上方からの視点で距離もあるので、行き交う生徒の頭頂かせいぜい後頭部くらいしか拝めない。顔なんて識別もできなかったけれど、それでもあれだけ目で追って来たセンパイの姿なのだから見分けられる自信があった。
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