二人の距離

「渚!」

 ステージの上からナオちゃんがに叫ぶみたいにして呼びかられてやっとわたしは本来の目的を思い出し、スクールバッグを拾い上げて胸の前で抱いて小走りに彼女の元へと駆け寄った。

「どうしたの」

 ナオちゃんがステージから飛び降りてわたしの前に立つ。センパイもすでにステージ近くまで来ていて、おのずと全員の視線がこちらを向くことになった。


「……その、遅いから」

 ほとんど取り囲まれるような恰好でわたしはしどろもどろになりながら声を出した。

「なんだよ、友達待たせてたのかよ」

 色白のほうの男子の口調は少し軽薄だったけど、先に帰ってもいいのにとナオちゃんを追い払うみたいにして冗談めかして手を振っていて、わたしを気遣っているのだと察せられてそんなに悪い気はしなかった。

「別にこいつらに付き合って残ってなくたっていいんだよ」


 背の高いすらりとした女子が、ステージの上から言葉を投げかけるとナオちゃんは振り返った。

「いえ、先輩残して後輩が先に帰るわけにはいきませんから」

 いかにも体育会系っぽい発言があのナオちゃんの口から飛び出したのにびっくりしたけど、先輩という単語の響きが一般論としてのそれではなくて長身の女の先輩個人を指しているような響きがあって、しかもそれを他の誰にでもなく本人に向かって主張するナオちゃんの姿はどこか飼い主にお腹を見せて服従心を示す犬みたいで、彼女を慕っていてだからこそナオちゃんは変わったんだなと納得する気持ちになった。


 時計を一瞥した色白のほうの男子が「もう時間なるし俺らも帰ろう」と提案したため、その日は、完全下校時刻の放送が流れる中ボールのかごを用具室に仕舞って戸締りして五人で体育館を出た。


 帰りの電車でナオちゃんと話をして、色白のほうの男子は澤口先輩、背の高い女子は望月桃花先輩で望月郁子香さんのお姉さんで三人とも二年生だと判明した。


「いつもぎりぎりまで残って何をしてるの?」

「べつに何をってわけでもないんだけど。男子二人がボール触ってる事が多いからそれでマネージャーも残ってるみたいな。私らはだらだらしゃべってるだけなんだけどね」


 居残り練習ってのでもなくって練習の余韻を味わうみたいにしてボールを触っているようなものらしく、わたしが入っていっても邪魔にはならないだろうと翌日から体育館内でナオちゃんを待つようにした。といっても練習終わり直前の生徒がまだいっぱいいる状態で帰宅の流れに逆流して割って入って行くのは抵抗があったから、人が少なくなるまではそれまでと同様に入り口のところで時間を潰していた。


 見回りの先生が鍵を閉めに来るまでのわずかな時間、ゆるめの1 on 1をしたりしている男子二人を眺めながら女の子三人で雑談するのが日課になった。ときにはそこに男子が混ざったりもしたけれど、向嶋センパイはあまりしゃべるほうではなくてときおりぽつりとつぶやいて、澤口先輩がツッコミを入れたり茶化ししていた。その二人の距離感は男の子同士の友情って雰囲気でちょっと羨ましい。


 ナオちゃんが渚と呼ぶからってわけでもないだろうけど、わたしはこのメンバーの中では渚ちゃんで通っていた。

 澤口先輩は最初から気軽に渚ちゃんとわたしを呼んだ。小学校の低学年だとかの幼かった時代は男女関係なく名前で呼び合うのが当たり前だったけど、いつ頃からか幼馴染でも異性は苗字で呼ぶようになり、男子に名前で呼ばれるのはずいぶんと久しぶりだった。けれど、彼は他の子でも同じようにしているのだろうなと容易に想像できる自然さでわたしの名前を口にしたからそんなに抵抗はなかった。

 向嶋センパイは口数の多いほうではないし、わたし以外でも誰かを呼びかけたりはあまりしないけれど、それでも必要に迫られてわたしの名前を口にする事は何度かあった。ナギサちゃん。センパイの声は低めの落ち着いたトーンだけど、異性の名前を呼び慣れてないぎこちなさが微妙に漂っていてそれが余計にわたしを緊張させる。


 へどもどして答えに窮したりトンチンカンな事を口にしてしまったわたしにいつも助け船を出してくれるのは澤口先輩だった。

「あんまり後輩いじめんなよ」

 たったそれだけの台詞で空気がふっと軽くなって小さな笑いが起きる。澤口先輩は話を引き出すのが上手くてわたしでも話しやすく、彼には妹がいて美術部に所属しているという話から転がしていってわたしについていろいろ聞かれたりもした。

 けれど、それだけ。

 どれほど会話が盛り上がってもそこに何かを感じる事はない。会話すれば澤口先輩について知る機会も増えていくし、また逆に彼がわたしについて知っている事もおのずと多くなっていく。そうやって共有する物が多くなればより話しやすくなって距離は縮まっていくけれど、それ異性に対してというより兄弟や家族、あるいは友達なんかに感じるようなただの純粋な親しみで、ときめきやどきどきといった感情からは無縁だった。


 やっぱりわたしが好きなのは向嶋センパイなのだ。

 話が弾むわけでもなく、放課後のわずかな時間一緒にいるだけで特別な出来事があったのでもなく、ただ見ているだけ。澤口先輩と簡易のゲームをしてコートのなかボールを追いかけたりシュートを打つ姿を眺めてきたけれどその視線だって一方通行で彼がわたしを見返してくれた事はない。彼はひたすらにボールを追っていた。同じ体育館にいながら、同じ会話に加わっていながらもずっと遠い存在だった。

 それでもこの気持ちは変わらないし、だからこそきっとこの思いは本物なのだ。


 わたしは、あの日、彼に一目惚れした。

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