宇宙一可愛い娘と、小憎たらしい馬の骨と【前編・田端真人視点】
夢を見た。
まだ娘が幼くて、お父さんっ子だった昔の夢だ。
『おとしゃん!』
『あーちゃん…?』
あーちゃんが起こしてくれるなんていい朝だ。
小さくて丸くて可愛くて心優しくてマジで天使なあーちゃんが俺の布団の上に乗っかってきた。こんな可愛い子が俺の娘だなんて幸せ。産んでくれた奥さんに向かって感謝の五体投地したい。
『日曜だからっていつまでも寝てんじゃねーよ。いいかげんに起きろよ、おとしゃん。おかしゃんが早くメシ食えってよ』
…それにしても言葉遣いが乱暴だなぁ…あーちゃんこんな喋り方だったかな?
布団の上に乗っかって、俺の顔を覗き込んでくるあーちゃんは本当に上に乗っているのかってくらい羽根のように軽い。まさか、あーちゃんは本当に天使だったのかな。
黒目がちの瞳は好奇心いっぱい。ふくふくのほっぺたはふんわり桃色に色づき、その頬が不満そうに膨れるも、そんなあーちゃんは世界一可愛い。…いや、宇宙一かな…?
『あやめ』
俺と娘の邪魔をするように、何処からか別の男の声が聞こえてきた。それに反応したのは俺だけじゃない。あーちゃんは瞳をキラキラと輝かせながら、とある方向を熱く見つめたのだ。
『くろばらのプリンスさまだ!』
あーちゃん、それは違う。それは橘君だよ! 黒薔薇の王子はそんなカジュアルな服装じゃなかったでしょ? Tシャツ着ている黒薔薇の王子とかお父さん、アニメでも観たことないよ!?
行っては駄目だと小さなあやめを抱っこして止めるが、娘は橘君を黒薔薇のプリンスと信じ切って暴れる暴れる。
…やけに力が強いし、なんか硬い。いつもご飯たくさん食べて健康体だから筋肉質になっちゃったのかな?
『おとしゃん、離せ!』
駄目だよ! お父さんは許さない!
あいつは娘の心を奪った馬の骨じゃないか! あーちゃんはずっとお父さんと一緒なんだ!
ぽっと出の男なんかに大切な娘を渡さない!
「父さん! いい加減に離せってば!」
大声で怒鳴られた俺はそれに驚いて目を覚ました。
視界に映る見慣れた寝室の天井と、上に乗っかっている今年大学に入学した長男の姿に俺はぽかんとした。
「…あーちゃんは?」
「姉ちゃんなら大分前に大学の友達と遊びに出掛けたよ!」
腕の中で暴れまくる息子の姿を見て、ようやく夢だったのだと理解した。何故息子の和真がここに居るんだろうと、俺は布団の上に寝転がったままボンヤリ考えていた。
やけに力の強いあーちゃんだなと思ったら成長した息子だったか。お父さんは小さなあーちゃんがゴリラになったんじゃないかとちょっと不安になったぞ。
息子よ、たくましくなったな。
「母さんが朝飯早く食べろってよ。…父さんいい加減に娘離れしろよ…」
和真は呆れた顔で乱れた髪をササッと直すと「俺、道場に行ってくるから」と寝室を出ていってしまった。
…あやめばかり可愛がるから、和真はヤキモチを妬いてしまったのであろうか。…そんな事ないぞ? お父さんは和真のことも大切に思っているけど、あいつ最近冷たいんだもん。泣き虫和真はどこに行った? ってくらい生意気になっちゃったんだもん。
父子のコミュニケーションのために和真を夜のドライブにでも誘ってみようかなと考えながら、俺はベッドから降りた。
子ども達が出かけた今。我が家には自分と母さんしかいないことになる。時刻は11時過ぎ。愛用しているあやめと柴犬プリントのTシャツ姿で一階に降りると、母さんは楽しそうに誰かと会話をしていた。
「…あ、お邪魔しています、お父さん」
「…君にお父さんと呼ばれる筋合いはない…!」
起き抜けでこれか。
今の俺はあの悪夢に気持ちが引きずられていて、大人な対応ができないんだ…何故いる…何故母さんは馬の骨と楽しそうにお茶なんか…!
俺の拒絶に言葉を失ったのか、橘君は沈黙してしまった。ちょっと言い過ぎたかなと思ったけど、でもお父さんって呼び方はやめて! とても嫉妬してしまうから!
「全くこんな時間まで寝て…まだそんな恰好なの? 亮介君はお土産を持ってきてくれたのよ。そんな失礼な言い方はないでしょう」
母さんは冷たい。最近いつも橘君の肩を持つよね。母さんは娘を盗られて寂しくないのだろうか。俺は…こんなにも…
「そんな所に突っ立っていないで、はやくご飯食べて頂戴」
そう言って母さんはそっぽ向いてしまった。母さんと橘君が楽しそうに談笑するのを背にして、俺は一人寂しく遅めの朝食を食べた。寂しい。
「それでね、あやめったら…」
あっ、母さんたらあやめと和真の秘蔵アルバムを見せびらかして昔話に花を咲かせているし…!
もそもそ食事をとっている俺の耳に入ってくるのは子どもたちの懐かしい思い出話。その記憶が鮮明に蘇ってきて涙腺が緩みそうになった。生まれたての天使が今や大学生…可愛い娘に生意気な息子。二人共違って二人共可愛い…
鼻をすすりながら朝食の卵焼きをもそもそ食べていると、母さんが橘くんにこんな質問をしていた。
「亮介君とあやめはいつ頃からいい雰囲気になったの? やっぱりあやめのほうが先に亮介君のことを好きになったのかしら?」
俺は耳を疑った。
そんな事聞いて一体どうするつもりなんだ母さん。俺はそんな話聞きたくない…! あーちゃんが…あーちゃんが馬の骨とくっつくまでの軌跡なんて聞きたくない…!
「そうですね…あやめさんは考えていることが態度に出るタイプなので、好かれているのは気づいていましたけど、どっちが先かはわかりません。…無鉄砲すぎて放って置けない後輩だったのが、いつの間にか目が離せなくなって意識していました。…なんたってあの笑顔が可愛いですよね」
橘君は甘く微笑みながらアルバムの中の幼いあーちゃんを眺めていた。
何言ってるのこの馬の骨。何、彼女の親の前で惚気ちゃってんの?
……なに、当然のことを今更言ってるの?
「…笑顔が可愛いのは当然だろうが! ていうかあーちゃんが一番好きなのはお父さんです〜! 小さい小さいあーちゃんはおとしゃん大好きって言ってくれたもんね、君よりも先にお父さんに好きと言ってくれたんだよ!?」
「ごめんねぇ亮介君、無視してくれてもいいのよ」
俺は持っていた箸をテーブルに叩きつけると椅子から立ち上がり、ソファに座っている馬の骨を睥睨した。
ていうかあーちゃんが可愛いのは20年前から知ってますけど? わかってんだよ、んなことぁ!
「この際だからいい加減蹴りつけようよ! どっちがあやめのことを愛しているか、あやめの好きなところをひとつずつ上げていこう!」
「ちょっとお父さん…!」
母さんが俺を抑えようとしてくるが、俺は引いてやらない。いつかは決着を付けなければならないと思っていたんだ…
あーちゃんを一番愛しているのはこの俺だ…! なんたってお父さんだからな!
橘君は眉を八の字にさせて困った顔をして戸惑っている様子であった。なんだ、ひとつも上げられないのか? …君のあやめへの想いはその程度だったのか?
…ならば俺は君を認めてやれない。残念だったな!
「答えられないのか? …君にはがっかりしたよ!」
「お父さん!」
「…さっきも言いましたけど、あやめさんの笑顔が好きです」
膝の上でグッと拳を握りしめた橘君が静かな声で呟いた。その言葉に俺の眉はピクリと反応する。
「……そうじゃない…そういうんじゃないよ! 俺が聞きたいのは君のあやめへの想いだよ! いいかわかるか? 大切に大切に育ててきた愛娘がそのへんの男にかっ攫われるという悔しさを! …君があやめの彼氏として認められたいなら、俺を納得させてくれって言いたいんだよ!」
「さっきお父さんがあやめの好きなところを一個ずつ上げるって言ってたじゃないの」
母さんがなにか言っているが、走り出した感情は今更止まらなかった。橘君は眉をひそめて口ごもっていたが、何やら考え事を始めた様子。
ならば、こちらから先攻といこうか。
俺は遠いようで最近のことのように感じる、あの運命の日を思い浮かべていた。この腕に抱いた体は温かく、柔らかい。乳の匂いのする赤子はまだ目が開いておらず、その皮膚は燃えるように真っ赤だった。
「…生まれたてのあーちゃんは3250グラムの超健康体重でこの世に生まれたんだ。顔はまっかっかのお猿さん、この腕に抱いた時の羽根のような軽さ…。こんな可愛い天使がこの世にいたことを、それが自分の娘である事実に俺が衝撃を受けたことを君は知っているのか?」
橘君の知らないあやめの生まれた頃を話すと、橘君はピクリと肩を揺らした。…どうやら動揺させることに成功したらしい。俺はニヤリと顔を歪めて勝利を確信していた。
「初めてあーちゃんが口にした単語は「あしゅた」だ。当時お隣で飼われていたシベリアンハスキーのアスターがよくあーちゃんと遊んでくれてね……本来なら初めての言葉は「お父さん」だったはずなのに…!」
あの犬、俺があやめを抱っこしようとするたびに唸って妨害してきやがったんだ…! 俺はお父さんだぞ! と説明しても、あやめを我が子のように護衛して離れない…! 中身はアホ犬のくせにアイツ顔が怖いんだよ!
…そのアスターもだいぶ前にお星様になってしまった。恨み言を言っても仕方がないが…今でも悔しい!
「幼稚園年長組の時のおゆうぎ会では、かしこいお魚ス○ミーの主役だったんだぞ! あの時のあーちゃんは勇ましかった!」
「…それ、写真撮影はしたんですか?」
「あるに決まってるだろうが! 動画もあるよ!」
馬鹿にしているのかこの馬の骨。俺がそんな重要イベントで撮影しないわけがない! 撮影しながら娘の成長に感動した俺はむせび泣きながら「頑張れ、スイ○ー…」と応援していたら、隣のご婦人にドン引きされていたんだぞ!
「ぜひ見たいです」
「よぉーし! 首洗って待ってろ! あまりの勇ましさに度肝抜くぞ!」
俺は熱り立ってリビングを飛び出すと、我が子の成長記録を保管している自室に飛び込んだ。
これを見たら、馬の骨も負けを認めざるをえないはずである!
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