我慢の限界だ。私は思ったよりも嫉妬深い女らしい。

 体育祭を一週間後に控えたある日、私は久々に雅ちゃんと放課後デートしていた。

 お嬢様な雅ちゃんは基本的に多忙である。私とは生きている世界が180度違うのだが、変わらず私と仲良くしてくれる。


 数ヶ月前、婚約者である伊達先輩に愛想つきた様子の雅ちゃんだったが、お家同士の婚約話であり許嫁候補の中で抜きん出て優秀な雅ちゃんを伊達家の面々が手放すはずもなく、伊達先輩との婚約は未だ継続中だという。

 許嫁がいながら別の女性と親密になっていたことを受けて、将来的に女性関係のスキャンダルを起こさないように伊達家で跡継ぎ息子の再教育がされたとかされなかったとか。


 良家のご子息も大変ね。同情はしないけど。



「来週の日曜日はお弁当を作って体育祭を観に行きますね」

「ええ!? そんな大変でしょ? 気を遣わなくてもいいよ!」

「遠慮なさらないで。私も料理の練習になりますから」


 雅ちゃんも体育祭を見に来てくれるそうだ。

 カッコ悪い所見せられないな。別にカッコいい競技に出るわけじゃないけど。

 

 その日は夕方になっても蒸し暑かったので、アイスでも食べながらブラブラしようかと提案したんだけど、歩き食いをしたことがない雅ちゃんは少し動揺していた。

 あ。歩き食いはちょっとお行儀が悪かったかな?


 だけど雅ちゃんはその提案に乗った。

 ああやばい大和撫子の品を私が落としてしまったかも。


「あやめさん一口どうぞ」

「いいの? じゃあ雅ちゃんも一口良いよ」


 お互いのアイスにスプーンで掬って味見する。


「! パチパチします…」

「あ、苦手だったかな? これ美味しいね。ストロベリーチーズタルトだっけ?」


 私はなんとなく刺激が欲しくてこのアイスにしたけど雅ちゃんはこういう刺激が苦手なのか口元を抑えていた。

 そう言えばこないだ亮介先輩もそんな反応してたな。


「…いろんなアイスクリームがありますのね…びっくりしました…」

「このアイス元々は子供ウケを狙ったアイスだからね。この刺激が癖になるのよ」


 アイスを食べながら雅ちゃんと街を散歩をしていると「あら、あなた…」と背後から声を掛けられた。

 訝しげな顔をして振り返るとそこにはあの光安さんが立っていた。

 ノースリーブのパステルブルーのシャツに、タイトなスリット入りスカート、華奢なピンヒールのパンプス姿の彼女はブランド物の鞄を肩にかけて、自信満々な笑みを浮かべている。

 またあの赤い口紅が塗られた唇を歪めて私を見下していた。


「今帰りなの? 偶然ね」

「…どうもこんにちは」

「…お友達? …これはまぁ…」


 ふふ、と笑う光安さんだが、口に出さなくても思っていることはわかる。

 美少女な雅ちゃんと不釣り合いだと言いたいんだろうな。

 ここにユカがいなくてよかったね。ユカだったらそれでメンチ切ってたところだよ。


「……あやめさんこちらは?」

「亮介先輩の大学の二年生で光安さんて方」

「そう…あやめさんの彼氏さんの…」


 雅ちゃんも彼女の悪意に気づいたのか、人形のような笑みを浮かべていた。雅ちゃんのその笑顔はキレイなんだけど、怖くも感じるんだよね。思わずギクッとしてしまう。

 だけど光安さんは雅ちゃんのこの笑顔が作られたものだとかそんな事知らない。

 だって端から見たら完璧な笑顔だからね。


 彼女は綺麗にコテで巻かれた髪を手で後ろに流しながら、首を傾げる仕草をした。


「この間ね? 橘君が家まで送ってくれたの。私ひどく酔っちゃって…彼ってすごいのね。逞しくって…」

「…剣道で鍛えてますからね」


 何が言いたいのだろうか。

 …あの時、先輩と一緒にどこへ行ったのかな。先輩はこの人とどのくらいの時間一緒にいたのだろうか。

 …逞しいって、それがわかるくらい接触したってことなの?

 …私は何も聞いてない。先輩は何も言っていなかった。

 いちいち行動を報告しろとは言わないけど……どうして?


 どうしてこの人にやさしくするの先輩。

 あぁイライラする。


「あなた、橘君と寝たことないでしょう?」

「!?」

「何をそんなに勿体振っているのかしら。橘君可哀想。…ねぇ、橘君のこと私がもらうわね?」

「は…?」


 堂々と略奪宣言をされた。


 私は呆然と光安さんの後ろ姿を見送っていた。隣で雅ちゃんが「下世話だわ…」と呟いて顔を渋くしている。


 タイミングが良いのか悪いのか、立ちすくむ私の鞄から着信音が鳴った。その音で我に返った私はスマホを取り出すと、液晶には先輩の名前が表示されていた。

 それを見た私は出るのを一瞬躊躇ってしまった。

 遠慮していると思われたのか、雅ちゃんが「どうぞ、お電話に出られて下さい」と言って少し離れていく。


 鳴り続ける着信音。

 私は震える指で受話ボタンをタップして耳にスマホを近づけた。


「…もしもし」

『あやめ?』


 いつもは嬉しい先輩からの電話。

 声を聞けばドキドキするのに今日はなぜかイライラした。


「…どうしたんですか?」

『…なにか嫌なことでもあったのか?』

「え…」

『声がいつもと違う』


 …ダメだ。抑えないと。

 私はいつもどおりの声を出そうと深呼吸をした。


「…何にもないです」

『…そうか?』

「そうですよ。それでどうかしたんですか?」

『あぁ、兄さんから連絡があってな。ちゃんと話すようにと。…光安さんのことをお前が気にしてたと聞いたんだが』


 心臓が跳ねた。

 橘兄、お節介すぎる。あんた、私達の交際を反対してたじゃないのよ。なんでそんなお節介をするんだ。


『今から会えないか?』

「え…」

『どうした、用事でもあるのか?』

「…いま雅ちゃんと遊んでて…」

「構いませんよ。遊ぶのはいつでも出来ますもの。あやめさん、ちゃんと話したほうがよろしいかと思いますよ」


 雅ちゃんの声は思ったよりも通った。電話口の先輩まで聞こえていたらしい。

 私は雅ちゃんに背を押される形で、先輩とこれから会うことになった。


 

 待ち合わせになったのは家の最寄り駅近くにある公園だ。花恋ちゃんと昔遊んだことのある場所であり、専ら私達のデートスポットでもある。

 公園内を生ぬるい風が流れる。梅雨に入って一気に湿気が増した気がする。

 街頭に照らされたベンチに近づくと、すでにそこには先輩が待っていた。

 私は深呼吸をして一歩踏み出す。



「お待たせしました」

「あやめ」


 私の声にスマホを眺めていた先輩が顔を上げる。

 大好きな先輩なのに、どうしても光安さんの影がちらついて見るのが辛くなった。

 辺りが薄暗くてよかった。鏡を見えなくてもわかる。

 私の顔はきっと堅い表情をしているはずだ。


「友達と遊んでいたのに急で悪かったな」

「いえ…」


 私は人一人分くらい空けて先輩の隣に座った。なんとなく気分でである。

 橘兄にも、雅ちゃんにもちゃんと話すようにと言われたけども、どこから話せというのか。

 私の様子がおかしいと気づいた先輩は少し考え込んでから話し始めた。


「…光安さんと一緒にいるところを見ていたってな」

「……はい…泥酔した光安さんを送ったんですよね。本人にさっき言われました」

「光安さんと会っていたのか。…その時は他の先輩も一緒に来てもらったからやましいことは何もないから」

「………」


 信じなきゃ。

 信じないといけないのに溜めに溜めた不満や不安が私の心を頑なにさせる。

 私はスカートの上に乗せていた手をギュウと握りしめて俯いた。


「…なぁあやめ、お前何か言いたいことがあるんだろう? 兄さんには話せるのに何故俺には話さないんだ?」


 亮介先輩のその言葉に私は顔を彼に向けた。

 彼にまっすぐ見つめられ、促されるように口を開こうとしていたがすぐに閉ざした。


 なぜなら見つけてしまったのだ。今までジャケットの影に隠れていて隠れて見えなかったけども…

 彼が上着の下に着用している白いシャツの襟元に赤い口紅の跡があることに。

 その色に見覚えがあった。


 歪んた笑みを浮かべるあの人の意地悪な笑顔が目に浮かんだ。


 あぁ我慢していた感情が溢れ出しそうだ。

 私は下唇を噛み締めていたが、ゆっくり口を開いた。


「…そんな事ないですよ」

「あやめ、俺の目を見ろ。前にも言ったよな。言ってくれないと分からないと。秘密にされている方が迷惑だって」

「お兄さんが大げさに話してるだけですってば。誤解なんですよね。わかりました」

「あやめ、話はまだ」

「門限があるんで帰ります。さよなら先輩」


 私は立ち上がると挨拶をして走り出した。

 このままここに居たら私は先輩を詰ってしまう。

 それこそ山ぴょんの元カノ真優ちゃんのように醜い感情をオープンにして、自分勝手に責め立てるに違いない。


 先輩が違うと言っているんだから信じないといけないというのはわかる。

 だけど、先輩の馬鹿! 信じられない! と詰りたくなるのだ。

 ダメだ、重い女になっちゃダメだ。

 冷静に話し合いたいのに、どうしても感情的になりそうになる。

 逃げちゃダメなのに、弱虫な私は逃げ出してしまった。


 我慢していた涙が溢れ出してきた。

 だけど走らないと追いつかれてしまう。

 私は全力で走って走って、公園から離れた。


「うっ…」


 じわじわと溢れ出す涙を指で拭いながら、自分の家までの道を歩き始める。遠回りの道を歩けば先輩に見つからないだろう。送ってもらう時はいつも決まったルートで帰っていたから。


 泣き止みたいのに涙が止まらない。

 私はいつの間にか泣きじゃくっていた。



「…また君か。今度はどうした」

「……もうやだぁ…顔そっくりなんだから今は会いたくなかったぁ」

「はぁ? …あいつと喧嘩したのか」

「口紅、口紅がぁ」


 泣きじゃくるJKを訝しんだのだろうか。呆れた顔で声を掛けてきたのは先輩によく似た顔立ちの橘兄。大学帰りなのだろうか。

 彼の姿を目にした私は先輩を思い出してしまった。私の涙腺は壊れてしまったのか、ブワッと涙が溢れ出してくる。


「先輩のシャツに口紅がついてたぁ、あの人が先輩もらうってぇぇ…」

「は? …もうちょっと順序立てて話せないのか」


 アイメイクはもう全部落ちてしまったことであろう。私は橘兄に目元をハンカチで拭われながら、一個一個説明していた。

 泣きじゃくっているから聞きづらいだろうに橘兄はうんうんと相槌を打ちながら聞いてくれる。


 うう、橘兄はお兄ちゃんなんだな。面倒見が良いぞこの人。

 おかしいな。私もお姉ちゃんなのに、妹な心境になってきた。


「兄さん!? 何してるんだ!」

「…亮介」

「あやめに何を言ったんだ!? 何故泣かせている」


 幼児よろしく泣きじゃくる私を見た先輩が血相を変えて怒鳴ってきた。

 私を追いかけてきた様子なのに全然息を切らせていない。私は息切れ起こしてるのにどういうことなの。

 先輩の最初から疑いをかけるその言い方には橘兄も流石にイラッとした様子で、険しい顔で弟を睨んでいた。


「お前……お前というやつは…」

「兄さん、あやめから離れてくれ。あやめ、こっちに」

「お兄さんは何も悪くありません! 泣いてる私を心配してくれたんです!」


 私のせいで兄弟仲が悪くなるのは私も願っていない。橘兄を庇うようにして間に入ってそう叫ぶと、目の前にいた先輩は信じられないものを見るかのような顔になった。

 なんでそんな顔してんだよ! 私が泣いているのはあなたのせいだよ! 


「…じゃあなんだ。何故泣いているんだ」

「……それは」

「…亮介、お前は自分の服をよく見てみろ。そんなんじゃ浮気してませんと言っても疑われて当然だぞ」


 口ごもる私の内心を代弁してくれた橘兄の言葉に先輩は訝しげな顔をしながら下を向いて自分の服を見た。ジャケットを見て、おもむろにペラっと捲ってシャツを見ると…血相を変えた。


「!? 何だこれは!」

「女の口紅だろう。そんなことをする女がいることにびっくりする」

「…あ、光安さんか。あの人よく躓いているから」

「…お前はいい加減に気づけ。人が良いにしてもそこまで行くと…」

「あやめ、これは違うんだ」

「………」


 私はずっと嫉妬を我慢していた。

 光安さんと初めて会った時に先輩にはっきり「嫉妬してる」とも言った。言ったんだから、先輩だって理解してくれてると思っていた。


 なのに、あの人とベタベタして。

 口ではどうとでも言える。

 先輩の心の中までは私はわからない。


 違うと言われても今の私は先輩を信用できなくなっていた。


「……信用できません」

「…え?」

「先輩、そう言いながら実際は美女にベタベタされて嬉しいんじゃないですか?」


 思ったよりも私は嫉妬深い質のようだ。

 我慢していた事がついに爆発した。

 自分さえ我慢すればと思っていたけども、もう限界だった。


 皮肉げに笑ってそう言うと目の前の先輩はぽかんとしていた。私がそんな事言うとは思っていなかったのだろうか。

 一度本音を吐き出すと私の口は止まらなくなっていた。


「そりゃそうですよね。だって私みたいな地味な女じゃそりゃ面白みがないですよね。…沙織さんみたいな美人な彼女の次が私って…馬鹿にもされますよ!」


 ジワ、と涙がまた溢れ出してきたが私は目の前の先輩をギッと睨みつけるのをやめなかった。

 今まで何度も容姿のことを罵倒されたけど、今回のはかなり心に来た。分かっていたけどもショックだった。

 

「違うって否定されるたびに私、先輩を信じよう信じようと思ってたけどもう無理です。なんであの人に優しくするんですか!?」

「あやめ、」

「私には付き合う前から男にベタベタするなとか、勘違いさせるような行動とるなとか言っておきながら何なんですか! 先輩は男だから許されるとでも言うんですか!?」


 先輩の行動はそれと同じようなものだろう。

 男の甲斐性という言い訳ならクソくらえである。

 

「違う、あやめ話を」

「いいですか! こういうことですよ!!」


 私を落ち着かせようとする先輩の目の前で、私は橘兄の腕に抱きついた。

 それには橘兄弟二人共ぎょっとしていた。


「…おい、あやめさん…」

「…あやめ、バカなことしてないで」

「こういうことなんですよ! 駅のホームで光安さんにこうされている先輩を見ました。振り払わないでずっとこうしてましたよね! 先輩の行動が許されるなら私だって他の男の人にこうしても許されるってことなんですよ!!」


 いっつも私ばっかり我慢してる!

 その気持ちをわかってほしくてやった行動なんだけど、先輩の顔はどんどん険しくなっていく。


「…いいから離れろ」

「よくありませんよ! 私はいっつもそんな心境で見てきたんです! 不安で不安で仕方がないんですよ! 先輩は口では否定するけど行動が伴ってないです!」


 橘兄の腕を離すまいと固くホールドしながら私は訴える。私は頭に血が上っていたからそんな行動に出たけども、こうでもしないと先輩は分かってくれないと思ったのだ。

 先輩は私を睨みつけてくるが、私は負けじと睨み返す。


「……俺の言うことが信じられないのか」

「…信じられません」


 どのくらい睨み合っていたかわからないが、「もういい」と苛立たしげに呟くと先輩は踵を返していった。

 


「…俺を巻き込まないでくれ…」


 橘兄の情けない声がやけに大きく聞こえた気がした。


 先輩が遠ざかっていくのを見送っていたら、いつの間にか腕の力は抜け、橘兄の腕を解放していた。



 あぁ、やってしまった。

 ……嫌われたかもしれない。


 先輩、怒った顔をしていた。

 すごく、怖い顔で怒っていた。


 

「おい! 亮介!!」


 橘兄が大声で先輩を呼び止めようと追いかけていくのを私はぼんやりと眺めていたのである

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