6 / 未来の歴史
マルクトがフォルセティの部屋を訪ねてきたのはその翌日だった。フォルセティは書き物を、扉が開かれる前に荷物の下に押し込んで隠し、地べたに座った状態で彼を迎えた。
相変わらず監視役であるはずのシャゼリはいないのだが、マルクトは今日はそれを気にする様子もなく、フォルセティの前までやってくると腕を組んで言った。
「話したいことがある」
「お断りです」
「ここで話す内容が外に漏れるおそれは?」
「話聞かねえな……」
マルクトは目を細めると後ろに手を回した。フォルセティは片身を引いて腰を浮かせたが、マルクトが示してきたのは入国当初にフォルセティから預かった彼の得物だった。彼はその場で固まったフォルセティの前で、その筒の端を親指と人差し指でつまむように持ち、ぶらぶらと示してみせた。
応じれば返すということだ。きっと王の意には反する。だからそれを信じていいのか、悪いのか——フォルセティは眉を寄せ、まっすぐ立ち上がるとテーブルを示した。
先にマルクトを座らせると自分の椅子を引く。腰掛けたが椅子の位置は変えない。そうして少しテーブルから離れたところでフォルセティはマルクトを睨んで言った。
「とりあえず用件を聞かせてもらえますか」
「若のことだが」
「若って誰です」
「シャゼリ。オースの主、旧イェルファン王家最後の子」
はあ? と素っ頓狂な声を上げたフォルセティは、その場で腕を組み顎を触りながらマルクトを右から左から眺め、最後に椅子を引いてテーブルに近づくと天板に両肘をついて乗り出した。
「どっちのあんたが芝居です?」
「ご随意に」
「じゃあ聞き方を変えますけど、どっちの臣下なんですか」
「両立するというのが若のお考えらしい」
フォルセティは背もたれに背を預け両手で顔を覆うと天を仰ぎ、それから大きなため息をついて手をだらりと下ろした。
「あいつは、自分はハイロで生まれ育ったから、つってたんですけどね」
「その条件を満たす人間はほかにもいる。私も似たようなものだし」
「でも少なくともあんたはあいつと同じ考え方ではないわけだ」
「理解はするが同調はしていない。リスクの大きい考え方だと思っている」
フォルセティは目を細め、肩をすくめると再びテーブルに肘をついた。
「聞きましょうか。その、話ってのを」
マルクトはゆっくり息を吐くと話し始めた。
「私の父と兄とが仕えた若の母君はエリシュカ様といって、現在後宮でお暮らしだ。十四の頃、ここから西にあった国から
「知ってます」
マルクトは一瞬眉を上げたが、何も聞かずに先を続けた。
「そのエリシュカ様のもとを先頃陛下が訪れ、若の話をされた。町中の揚水設備に施された王の御業を複製したようだと」
「複製っていうか真似て書いただけでしょ、勉強してるんだから当たり前ですよ。でもあいつ何も起きなかったっつってたけどちゃんと通報いってんじゃんな」
マルクトは呆れた顔で続けた。
「とにかくエリシュカ様は、陛下が今度こそ若をどうかするのではないかとひどく心配されてね。それで取り急ぎ私から若にご進言申し上げようとしたが、若はご自身がそんな脅威と思われるはずはないとどこ吹く風で」
「自分は王の眼中にないと固く信じてるみたいですからね」
「あの方はご自身についての弁えが足りなすぎる」
「最初俺も言いましたよ、やばくない? って。でもあいつ、自分が国に、っていうか王にか。とにかく貢献できる力を身につけるにはこれしかない、みたいなこと言って全然聞かねえの。だから俺、俺が教えるわけにはいかないからその辺にいる詳しいやつに勝手に聞けっつったんです」
マルクトは肩を落としたが、続くフォルセティの言葉に顔を上げた。
「でも実際どうなんですかね」
「というと」
「あんたらの陛下の本心は」
「きみに私が伝えたのは陛下からの
フォルセティは眉間に皺を寄せて鼻の頭を掻き、それから頭を振った。
「仮に。仮にですよ。俺が折れて、クレタが子どもを生んで。でもそれがお望みのとおり育つかなんかわからないじゃないですか」
「当然、陛下はしかるべき体制を整えてお育てになる」
「いや、でかくなるって意味ではね、問題ないと思いますよ、本人は。でも育てるってそれだけじゃないでしょ? 第二順位の王位継承権者としてしかるべき体制でお育てあそばされた我が国の姫の狼藉ご存じないですか。そのエリシュカ様にお呼ばれして、生意気言って追い出されてきたんだけど」
「は?」
二の句も継げぬマルクトを前にフォルセティは続けた。
「もちろんこの国と俺の国では国王やその候補者に期待されることは中身も程度も全然違うから比べる意味はないです。だけど現にシャゼリだってエリシュカ様とやらやあんたの希望するとおりにはなっていないわけじゃないですか。あんたらはシャゼリに、目立たないように、可能な限りリスクを避けた生き方をして、おとなしく暮らし、おとなしく血を残しておとなしく死んでいってほしかったんでしょ」
「いや、そこまでは……」
「少なくとも俺にはそう聞こえましたよ、不本意だろうけど。なんにせよとにかくあんたらは子どもがどう育つか、その管理というか支配には失敗したんだ。なのに今度は絶対上手くいく? そんなわけあるか。言っときますけど俺の体質引き継いだ子どもを十分な知識も力もない人間だけで扱うのはかなり命がけですよ。竜と結ぶことは本人次第だから周りは基本、止められない。そしたら下手すりゃ言葉もままならない子どもの機嫌ひとつで嵐が来て雷鳴がとどろき川は
「それは全部きみがやった?」
フォルセティは澄ました顔で「全部ではないですね」と言うと、椅子に掛け直して両手を膝の上に置いた。
「今の話はちょっと、いやだいぶ大げさに言いましたけど、でもそうなってもおかしくはないんです。そしてあんたらの王はむかつくほど周到だ。そういう人が今俺の言った、この国にとっては未知の危険への備えも万全でないのに、その思いつきみたいな一筋に賭けるというのは俺からすれば不自然ですけど。買いかぶり過ぎですか?」
マルクトは眉を寄せ、しばらく俯いていたが顔を上げた。それから彼はテーブルの上で手を組み、フォルセティに問いかけた。
「確かに入国した直後は会おうともしなかったクレアリット様を、きみが来るなり王女と認め、その後すぐにきみにあの申し出をした流れについては、普段の陛下らしくないと評価されうるとは思うよ。でもならばきみは、陛下のきみへの申し出の目的をどう考えている?」
「最初は真に受けて逆上しました」
「それは知っている」
フォルセティはばつの悪い顔をしたが、そのまま続けた。
「今はとにかく選択肢を可能な限り用意したいのかもな、くらいに思ってます。そうは言っても俺からしたら選択肢に挙げること自体許せない話なので、後継者レースの揺さぶりのための単なるブラフであれば一番いいけど、そこまで割り切られてるのかはわからない」
「選択肢? 陛下がお悩みだとでも?」
「跡継ぎ候補が
マルクトは思わず息を呑み、それから深呼吸をして言った。
「それは、若が?」
「勘違いしないでほしいんですけど、あいつはこんな言い方してませんよ。成り代わり引き継ごうと思えるのは、なろうと思えばそうなれる資質があってこそ、優秀だからこそで、自分は足元にも及ばないと」
マルクトが胸をなで下ろすのを一瞥し、フォルセティは続けた。
「でもね。ルーシェ曰く図書室には絢爛豪華な歴史書がいくつも収蔵されていたそうです。俺もちょっとだけ見たけど、どの歴史書も最後まで衰退の様子は窺えなかった。そうして自国を、その王を持ち上げ続けた国は今はすべて消えてガイエルの一部になっている。示唆に富んだ話だと思いませんか? その蔵書をあんたの王はほとんど読んでいると言った。ところでさっきの質問ですが」
「さっきの?」
「この部屋の話は外に漏れないかという。漏れません。扉を閉めさえすれば」
「……なら単刀直入に言ってくれて構わないよ」
すいと目を細めたマルクトを前に、フォルセティは大きく息を吸うとまっすぐ視線を返した。
「おたくの陛下は本当にシャゼリを、見せしめのために生かしてるんですか?」
マルクトは押し黙り、それから長い息を吐いて答えた。
「それは陛下にしかわからないことだ」
「でもあんたはそうであるほうが都合がいいんでしょう。だから他の可能性を、見て見ぬふりをしている」
マルクトはフォルセティを睨みながら答えた。
「私だけじゃない。若の命を大事に思っているものは皆。エリシュカ様も、その家臣も……ただ若を後継者争いに巻き込ませたくない。聞いただろう。名を連ねていること自体が命を脅かす。父に望みをかけた一部の民には悪いが、こうなった以上今ここで最優先にすべきはイェルファンの血が途絶えるのを避けることだ」
「それはあんたの本音か? それとも親父さんや兄貴との約束か」
返ってきたのは突き刺さるような視線だったが、フォルセティは正面から受けて立った。
「あんたらは心配してるふりして、実際はあいつの素直さに甘えてるだけですよ。俺そういうのすげえ嫌い。
フォルセティは目を逸らさない。しばしの睨み合いはマルクトが目を伏せて終わった。彼は一度しまったフォルセティからの預かり物をテーブルに置き、それを真ん中まで押し出しながら言った。
「……エリシュカ様が。若は、きみのことを友人だと思っていると」
「え? まあ間違ってないです」
フォルセティは手を伸ばし、母から預かった大事な祭具をいそいそと所定の位置に戻しながら聞いた。マルクトはその手元など見もせず続けた。
「私たちではどうあがいてもなれないものだ。とは言えきみだからな。エリシュカ様からしたら悪い友だちだ」
「ああ……それも否定しません」
半笑いで頭を搔いたフォルセティを見ながら、マルクトはテーブルに両肘をつき、手を組んだ。そこに額をつけ、下を向いたまま彼は続けた。
「正直言うと私にもよくわからないんだよ。仮定されたひとつの事実に対して、そうであってほしいと祈ることも、そうでなければいいと願うことも、両方あって。ただ、どちらかを選んで進む勇気が持てないから、先延ばししやすい、または挽回しやすいほうを選んできた。後戻りできなくなるのが怖くて……」
「ならシャゼリを信じてあげたらどうですか。少なくともあいつはあなたのこと信用してますよ」
マルクトは顔を上げ、組んだ手の上に顎を乗せ直して聞いた。
「そうかな。自分では、なんというか、距離を置かれていると思っているんだが」
「気を遣ってるとは思いますけど、それと信頼とは両立します。あいつ、俺がどんだけあなたのことボロカスに言っても、毎回完全無視で。もちろんあいつがあなたのこと悪く言ったことも一度もない」
マルクトが不意に口角を上げた。フォルセティは少し天井を見てから言葉を続けた。
「俺、ひとりっ子なのでわかんないんですけどね。要領の悪い弟を見てる出来の良い兄貴って、あんたみたいになるんじゃないかな……」
扉の軋む音が聞こえたので、フォルセティは言い終わらないうちに立ち上がった。それで彼はそのときのマルクトの顔を見ることはなかった。
入ってきたのはシャゼリだった。
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