2.沙織子おねーさん奮闘記

 和佐の予感は、悪い方に当たってしまったようだ。


 この日、寮を出た岬が戻ってきたのは午後七時過ぎのことだった。巡回の職員が学舎区の敷地の外れで呆然と立ち尽くす岬を発見し、半ば連行するかたちで寮棟区へ帰したのである。


 この時にはすでに、岬の豹変は寮内中で噂になっていた。円珠が寮内に噂を広めた効果もあったのだろう。


 特に衝撃が大きかったのは編入生の少女と浅からぬ関係を持つ東野暁音と春山雪葉の二人であった。


 日中に岬と会えずじまいだった108号室の二人は円珠からその情報を聞かされたとき、和佐同様、すぐにそれを信じることができなかった。そのため、岬が本棟に帰還したと知ると、真相を確かめるために真っ先に彼女のもとまで駆けつけた。


 決して憶病でないはずの暁音も、岬の凄絶な気配をさとった瞬間、二の句が継げなかった。

 雪葉も一瞬で表情が変わった。それだけ変態淑女の様子は尋常ではなかったのである。


「み、みさき、どうしたんだよ……何かぜんぜん、印象がちがうぞ」

「違う? 確かにそうかもね」


 震える声で尋ねた雪葉に対して、岬の返答は完全に投げやりであった。

 冷たくあしらわれるかたちとなって、雪葉はさらなる衝撃で棒立ちとなった。


 代わりに果敢に立ち向かったのが幼馴染である暁音である。


「お前なあ、いくら虫の居所が悪いからって雪葉に当たるのはやめろよな。何かあるってなら、とりあえず聞いてやっから」


 口は悪いが、暁音としても岬の態度は心配するには十分すぎるものだった。

 珍しく親切心を発揮させたというのに、編入生の頑固さは白髪少女のルームメイトを軽く凌いでいた。


「聞いたところで何にもならないんだよ。頼むからほっといて」

「み、みさきぃぃ……」


 雪葉は早くも半泣きの有様だ。

 一方で暁音は三つ編み少女の不遜な態度に喧嘩腰で詰め寄った。襟首を締め上げなかったのがほとんど奇跡の有様である。


「いい加減にしろよ、岬! 普段のお前なら、たとえ変態でも相手をコケにするような真似はしなかったはずだ! 数少ないお前のいいところも一つ残らず捨てちまうことになるんだぞ⁉」

「あたしのいいところなんて、何もないよ。わかったら、これ以上邪魔をしないで」


 プルーン色の瞳が物騒にきらめいた。鬱陶しいという態度が露骨で、殴り合いも辞さないという雰囲気。


 暁音としては「望むところだ」という展開であるはずだが、苛立ちが湧きつつも、不気味さの方が先立って暁音は舌打ちをしてその場から去ってしまった。雪葉は去就に迷ったが、岬の態度に現状手の打ちようがなく、最終的には慌てて幼馴染の後を追いかけた。


 渡り廊下を通って三号棟に戻ってきた岬だが、そのまま217号室に引き返すことはできなかった。

 途中で新たな障害に立ち向かう必要があったからだ。


 障害の名は赤城沙織子という。彼女も岬の異変はすでに聞いていたが、他の生徒の相談に乗っていたため、編入生の後輩との出会いは暁音や雪葉よりもだいぶ出遅れるかたちとなった。


 沙織子おねーさんの反応も、他の面々のそれと大差なかった。

 彼女は一月前の入寮期間中に、変態淑女の彼女が屋内プールのシャワーブースで全裸で暁音に襲いかかろうとした場面を目撃したことがあった。その時の編入生の様子と、今の彼女の様子は明らかにかけ離れていた。


「う、上野さん、一体何があったというの? 辛いことがあるなら相談に乗るわよ?」

「相談したって意味はありません。あたしは何でもないんです」


 矛盾した説明だが、岬は気にした様子もない。

 沙織子は眉をひそめた。後輩の意固地な態度に好感をおぼえていないのは明らかだった。


 この場には沙織子のルームメイトである都丸千佳とまるちかもいた。彼女は明らかに野次馬根性で変態淑女の様子をうかがいに来たのであった。


 いちおう愛しの黎明おねえさまの恋敵に当たる存在であるが、今の彼女を見て喧嘩を売る気には千佳はとてもなれなかった。清楚を皮を被った変態淑女を間近で見たのはこれが初めてであるが、それでも今の岬はまともでないとさとるのには十分すぎた。


 沙織子の脇を通り過ぎようとした岬だが、その態度におねーさんの感情にスイッチが入ったらしい。

 勢いよく先回りして、岬の前で両腕を広げた。


「待ちなさい! そんな態度で部屋に帰ることは許さないわ!」

「なんでですか?」


 辛うじて先輩に対する礼儀を保って岬は尋ねたが、沙織子はその問いかけに思わず狼狽してしまう。

 まさか勢い任せで口走ってしまったとも言えない。


「な……なんでもよ! 私は今の上野さんを見過ごすことができないと判断したの。そんな態度をとるくらいなら、まだ女の子を襲っていたときの方がマシよ」


 聞いていた千佳が「おいおいおい」と言いたげな表情をとるも、騒動を聞いて戻ってきた暁音や雪葉は、半ば以上おねーさんの発言に賛同であった。編入生の少女が元に戻るためなら、白髪少女も襲われる役目も喜んで引き受けてくれることであろう。


 だが、ここで一同を唖然とさせる出来事が生じた。何を血迷ったのか、沙織子おねーさんがその襲われる役目を演じると言い出したのである。


「う、上野さん、今すぐ私を押し倒しなさいッ。蒼山さんには私が後で話をつけておくから」


 おねーさんの顔は一瞬で耳まで赤くなった。

 声をうわずらせる先輩に、編入生の少女は当惑と呆れをない交ぜにした微笑で首を傾げた。


「あまり無理をしない方がいいですよ。おねーさん」


 生ぬるい岬の優しさを受けるも、ポニーテールのおねーさんは自分が犠牲になることこそが、気落ちする後輩への救済になると信じて疑っていなかった。


「む無理なんてしてないわよッ。これでもおねーさん、連休中は秋ヶ原あきがはらのメイド喫茶に行ったこともあるんだから! 修行の成果、ここで見せつけちゃってやるわよ!」


 あの秋ヶ原来訪記で一つでも身になるものがあったっけ? と千佳は疑念を禁じ得なかったが、余計な口を挟む場面ではない。

 好奇心も相まって二人のやり取りをうかがっていると、沙織子リコがまたなんか、よくわからないことを言い出した。


「ほほほ、ほら! 私がいいって言うんだから早く襲いなさいよッ。それとも私の身体つきに魅力がないっていうの⁉ た確かに、一条さんに比べたら、へっ、へちゃむくれかもしれないけど……。これでもテニス部からは『いい身体してるわね』ってほほほ褒められてるのよ? 上野さんに、こここここの身体つきを気に入られないのは、心外だわ」


 岬でなくても「無理しない方がいいですよ」と言いたくなるような沙織子の狼狽ぶりであるが、当の編入生の回答はその沙織子の異常事態をも吹き飛ばすような代物であった。


「別に沙織子おねーさんが悪いわけじゃないです。ただ、そんなふしだらな真似をする気はもうなれないというだけなんです」

「ふしだらな真似をする気にはもうなれないですってえっ⁉」


 ご丁寧にも衝撃の内容を復唱した沙織子である。


 その反応を滑稽と思う寮生は、この場には誰も存在しなかった。雪葉はもちろん、シャワーブースで全裸で襲われかけた暁音も、それを目撃した沙織子も、変態淑女のこの発言には言葉がなかった。


 岬の同年代の少女に対する変態ぶりは、入寮した翌日に悔悟室かいごしつに送られた事実からも明白であった。その彼女が変態行為を『ふしだら』と言ってのけたのだ。しかも岬の口ぶりや表情を見る限り、ふざけた冗談のようには到底見えなかった。


 編入生の内情をよく知らない千佳もこの事態には面食らい、リコの反応を確かめることにした。

 千佳のポニーテールのルームメイトは、最初は激しく驚いていたが、しだいに完全に岬の態度にムキになり始めたようである。


 寮生委員とかおねーさんの役目とかあまり意識せずに、態度のおかしい編入生に食ってかかる。


「ふ、フン! あなたが心変わりしないなら私もここから動かないからッ。寮部屋に戻りたいなら、さっさと性癖をさらけ出して、この私を倒してからにしててててて……⁉」

「わかりましたよ、おねーさん」


 気だるげに応じると、岬はこれ以上の茶番はもう結構とばかりに沙織子の頬を引き寄せて唇を重ねた。


 これが人生を通しての、赤城沙織子のファーストキスとなったのだった。


 編入生の表情はムードの欠片もなかったが、ウブなおねーさんを過呼吸におちいらせるには十分であった。

 顔色も顔つきも水面から顔を出した金魚のそれになりつつあり、沙織子は健闘むなしく編入生の少女に敗れてしまった。


 鼻血の線が下に伸びると同時に、ポニーテールのおねーさんは奇声を上げてひっくり返った。


 さりげなく離れた岬は、ぐったりと横たわる寮生委員会の先輩をちらりと見やると、そのまま無情に歩み去った。無用な時間をとられたことに、特に感慨はないように見えた。


 状況は深刻の一途を辿っているというのに、なぜか滑稽な沈黙がただよう中、最初にその沈黙を破ったのは雪葉だった。

 ぽかんとした顔のまま、呆れたような声が漏れる。


「何しに出てきたんだ、あのねーさん……」


 彼女の言葉は、この場にいる全員の心境を代弁したものであった。

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