第十四章 姉妹の距離(後編)

1.ホテルを後にして

 翌朝、一同は自室で身支度を済ませると、ホテルのロビーでそれぞれ落ち合った。


 この場にいなかったのは部屋の予約を急遽とった三枝キャリーだけであるが、誰も彼女のことは気に留めなかった。招かれざる来客に和佐も円珠も好感をおぼえなかったし、風月としては今後のご主人様の動向の方に関心が強く、当のご主人様は異邦の友人に会う覚悟を決めかねていたのであった。


 ブラウスとハイウエスト・ロングスカート姿に着替えた和佐は、一足お先にホテルを出ようとする円珠を見送った。彼女は若草色のチェックのワンピースを身に纏い、脇にキノコアザラシのポーチを提げている。この後、円珠は父親とショッピングを堪能し、それから暁音と雪葉と合流して、そのアザラシのコラボカフェを訪ねる予定らしい。


 妹からの「また学校で」の言葉を受けたとき、和佐の胸の内に妙なむず痒さをおぼえた。

 決して悪い感触ではないが、このような気恥ずかしさにも似た感覚をおぼえたのはいつ以来のことであろう。


 父親とともに後輩の友人がホテルを出るのを、白髪の姉様は穏やかな表情で見届けたが、そのかんばせも長くは保たなかった。

 円珠の姿が見えなくなると同時に、エレベーターの扉が開き、異邦人の賑やかな日本語が響いたからである。


「Oh! レイ、フウ、カズサ。おはようございます! ワタシ寝坊して、危うくチェックアウトの時間、過ぎるところでした」


 そう言う割には、三枝キャリーの身なりは綺麗に整えられていた。

 彼女は水色のストライプシャツに黒のパンツスーツという格好であった。ネクタイはしておらず、一番上のボタンを外した胸元は魅力的な谷間の線を描いている。大きさで言えば一条和佐に引けを取らず、黎明としては昨日の情事を思い返され、この場から逃げ出したい衝動に駆られるのだった。


 もっとも、実際に逃亡するわけにもいかず、露出を抑えた白のロリータドレスに着替えた聖花さまは、一呼吸おいてキャリーと向き合って挨拶した。


「そう言えば、キャリーはどちらへ向かわれますの?」


 表情は友好的だが、社交辞令な空気は隠しきれていない。

 一方で英国美女の反応は、いたって気さくであった。


「もちろんレイの行くとこまで! ……と言いたいのですが、今日は撮影の時間があるのでした。イギリスの雑誌見た日本の出版社さんが、ワタシのことぜひを使いたいと」

「まあ、素晴らしいではありませんの!」


 このときの黎明の驚きは正直であった。


「キャリーならさぞいいが撮れるのでしょうね。おめでとうございます」

「Oh、ワタシもです! 完成した暁には百部でも千部でも贈って差し上げますですよ」


 それは在庫処理と言うのではないかしら……と和佐が呆れたのも束の間、キャリーが感極まった様子で黎明に抱擁しようとする。

 和佐の中で憎悪と殺意が瞬時によみがえったが、最悪の光景が実現される前に、メイド服の風月が飛びかかるキャリーを制していた。


「……キャリー様」


 普段のクラシカルなメイド服に着替えられた喜びもあるのだろう。風月の動作は、心なしか軽やかに見えた。それでいて一切の隙がない。


「昨夜の忠告、もはやお忘れではございますまい?」

「お、Oh……もちろん心得てますですよ」


 引きつった笑みでキャリーは一歩退く。その忠告が何なのか、和佐は聞く気にもなれなかった。

 和佐は最初から、姉がこの英国美女と肉体関係を結んでいると確信していた。昨晩もそうだったのだろう。円珠の部屋に突如として現れた彼女を姉のもとへ追いやったのは、他ならぬ自分自身なのだから。何もなしで終わったとは考えにくい。


 平淡なやり取りを経てキャリーがようやく去ってくれると、黎明は追い払ってくれたメイドに対して礼を述べた。


「ふうちゃん、感謝いたしますわ」

「いえ。ご主人様のお気持ちを汲んで行動するのがメイドの務めですから」


 そのご主人様は限りなく疑わしい目つきでメイドを見つめた。

 お気持ちを汲んだのなら、昨晩背中やうなじを舐め上げたのは何だったのかとよほど言いたかったが、妹の前でそんなことを打ち明けるわけにもいかない。


 その風月にうながされてご主人様は妹とともにピンクのアルトラパンに乗り込む。

 昨日と異なり、黎明は今度は助手席に収まっている。後部座席に座ろうとしたのを妹に拒否されたからであった。


「黎明は助手席にして。窮屈でたまらないわ」


 その時の妹の灰色の瞳にほとばしった敵意に、黎明はたじろいだ。妹が抱いているであろう疑惑が、この時は紛れもない事実であったからである。だがそれを打ち明ける勇気を、黎明は持ち合わせていなかった。


 車を発進させてすぐに、和佐は初めて知った異邦美女について姉に問いただした。


「それで、あの女は一体何者なのよ。先ほど撮影とか言っていたけれど」

「キャリーは大学に通いつつ、モデルとしても活動してますの」


 黎明の口調は過剰に慎重だった。


「短期大学時代の知り合いということは、彼女の大学はハーグリーヴス?」

「ええ、ええ。まさにそうですわ」

「妹相手に極端に身構えてどうするのよ」


 冷然と和佐は姉の態度に毒づいた。


 和佐にとってハーグリーヴス大学は関連の薄い場所であるが、その附属校であるハーグリーヴス女学院となると、事情は異なる。聖黎女学園の姉妹校の一つであり、女学院からエスカレーター式に大学に進学できるシステムは、狙ったわけではないだろうが聖黎女学園を彷彿とさせる。和佐は姉ほどではないが流暢に英語を話せたため、女学院から来日した留学生の相手を任されることがあったのだ。


 黎明と風月は短期大学在籍中、ハーグリーヴス大学に半年間留学していた。最初の一ヶ月は寮で過ごしていたが、キャリーと知り合ってからは双方の希望により、彼女のところにホームステイするようになったという。


 黎明の留学事情に関して、和佐はあまり詳しく把握していない。姉が触ってくれないことで不信感が募っていた時期でもあったため、英国滞在記に関して進んで耳を傾けようと思わなかったのだ。自業自得と言えばそれまでだが、こちらが詮索しないのをいいことに、姉が他の女と懇ろになって、それを隠していたのかと思うと、和佐の中に、ふさぎ込んでいた当時の鬱屈さがよみがえるかのようであった。


 ぎらつかせた灰色の双眸をフロントガラスに反射させながら、和佐はさらに直接的な質問を投げかけた。


「それで、あなたは昨晩キャリーと関係を結び直したわけ?」


 黎明は全神経を集中させて、衝撃と動揺を内面のみに留めた。

 少しでも不穏な反応を示したら、指摘が事実であるとさとられてしまう。だが、聡明な妹にとっては沈黙する姉の態度は無駄なあがき以外の何物でもなかった。


「どうせ私に触れられない寂しさを、他の女で紛らわせようと思ったのでしょう。入寮期間には編入生にも襲っておいて、何今さら清純ぶって隠そうとしているのよ」


 この指摘に興がったのは運転席のメイドの方であった。


「おや、岬様からそのことをうかがったのですか?」

「そうよ。いきなり襲いかかる点は問題だけれど、テクニックに関しては申し分ないと評価していたわ」

「……何とももはや、実に岬様らしいご感想ですね」


 風月は深い苦笑をたたえたが、黎明は笑うどころではなかった。岬のことを知られた以上、キャリーのこともひた隠しして何になるのかと判断し、彼女はシートの陰から後部座席を覗き込んで、固い声で呼びかける。


「ねえ、エミリー……どうか、わたくしの話を聞いてくださらない?」

「社交辞令として聞くわ。言ってごらんなさい」

「エミリーがお察しの通り、わたくしは昨晩、キャリーと一夜を共にいたしましたわ……」

「それは知っているわ。そもそも黎明の部屋の番号を教えたのは私だもの」

「でも、わたくしがキャリーと身体を重ねたのは彼女と愉しむためではありませんの。あの子と一番の関係になれば、エミリーへの過剰な愛情も薄まることになって、あなたに触れることができるのではないかと……」


 掛け値なしの本心であったが、意中の相手に触れるために他の女に浮気するなど、まさに狂人の理屈だ。

 主張のおかしさを自覚しているため、黎明の声は自然と弱々しいものになってしまい、妹の眼光が冷ややかになるのも無理からぬものだった。


「無理をしなくていいわ、黎明」

「エミリー……?」

「私に気を遣って変な言い訳しなくていいって言っているの。大体、本当に私のためと言うのなら、なぜそこまで自信のなさそうな口ぶりで話すのよ」

「そ、それは、エミリーが簡単には納得しないだろうと思って……」

「努力すれば納得させられると思っている時点で、あなたの甘さが透けて見えるというものだわ」


 すっかり気分を害してしまった和佐は、さらに言い募ろうとする姉をわざとらしく無視し、運転席のメイドに呼びかけた。


「そう言えば、風月にも聞きたいことがあるのだけれど」

「なんでございましょう? お二人の情事をお止めにならなかったこととか?」

「違うわ。風月も黎明と同室だったわけでしょう。あなたはキャリーに襲われなかったの?」

「そのようなことを許すとでもお思いですか」


 楽しげに応じたが、それ以上に風月の口調は辛辣である。


「キャリー様には身体を重ねる意志はないという旨をきちんと説明いたしました。加えまして、ご主人様とお嬢様は姉妹水入らずで休暇を過ごすため、無用な接触はご遠慮いただくよう、併せてご忠告させていただきました」

「それで素直に応じるかしらね。引き上げる振りをして黎明の部屋に乗り込もうとした女でしょう」

「現に私は襲われませんでしたので、効果は期待できるかと。キャリー様は最後まで名残惜しそうにされておりましたが、納得させるすべは心得ておりますゆえ」

「黎明はそれを持っていなかったわけね。いえ、最初からあの女を誘いかける目的なら、あらがう必要もないということかしら……」


 毒刃を込めて言い放つ。それ以降、薄桃色のアルトラパンは曇天色の沈黙に覆われることとなり、白い髪とドレスの美女は見た目の華やかさとは裏腹に、苦悩に心が揉まれ続けている有様だった。

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