6.大激闘
雪葉が三号棟の217号室を後にし、同棟の108号室に帰還したのは午後七時過ぎのことだった。
岬から聞いた情報をいち早く暁音に伝えたかったが、簡単にはいかなかった。憎き一条和佐の部屋に向かったことに腹を立てた暁音は、露骨に幼馴染との接触を避けていたからである。食堂でも姿を見かけず、入浴の時間も会えずじまい。
ようやく再会を果たせたのは、暁音が忍耐の限界を迎えて自習室から戻ってきた午後一〇時前のことであった。
どことなく虚ろげな表情でベッドに横たわる暁音に、雪葉は慎重な口調で呼びかけた。
「なあ、あかね」
「…………」
「えんじゅが言ってたぞ。始業式のときに役に立てなかったことは気にすんなって」
能面に近かった暁音の顔が初めてしかめられる。
黒々とした瞳を雪葉に向けた。
「……岬から聞いたのか」
「え? まあ、そうだけど」
「ふーん、やっぱりな」
実につまらなさそうな返事である。
二週間前、円珠が退学宣言をした際、それを引き留めたのは三人の少女だった。編入生の上野岬、円珠の姉様である一条和佐、そして円珠の友人の春山雪葉。岬は即時に作戦を組み立て、和佐は実際に説得のために行動し、雪葉はそのサポートを果たしたのだった。
暁音も円珠の親友の一人だが、その自分だけが何の役目も果たせなかった点を岬は指摘したのである。自分の不甲斐なさを痛感し、その申し訳なさが円珠と距離をおく原因につながったのではないか、と。
それを聞いた雪葉は「あかねなら思いかねないな」と納得し、円珠も岬姉様の推察に理解を示した。白髪の美少女は自分のことを棚に上げて「面倒な女」とまで評したものである。
「えんじゅに申し訳ないと思ってるなら、いつまでも過去の失敗を引きずってないで、この先どう喜ばせるかを考えた方がいいって、みさきが言ってたぞ。ゆきはもそう思う」
「あいつの言うことは信じるんだな」
無感情を装った冷ややかさで言い放つ。すねた幼馴染に雪葉は居心地の悪さをおぼえた。
ベッドの上で身じろぎしながら、暁音は別のことを尋ねた。
「一条の野郎に何もされなかったか?」
「何もって言うか……三年前のことについて謝られたよ」
「なんだと?」
驚いて上半身を起こす。そして、露骨な胡散臭そうな表情になって幼馴染の鳶色の瞳を見つめた。
「まさか雪葉、あいつの謝罪を真に受けたんじゃないだろうな?」
質問ではなく完全に要求の口調ある。「謝罪を受け入れたら許さない」という念入りを受けて、雪葉は困り果ててしまった。
もはや雪葉の顔に答えが顔に書かれてあるのも同然で、暁音は黒い瞳をカッと開かせて怒号を弾けさせた。
「馬鹿が‼ あいつの悪行は『ごめんなさい』の一言で済まされるものじゃ決してないんだ!」
「じゃ、じゃあ、どうすればカズ嬢は許されるって言うんだよ」
「許される必要なんかない! どうしてもって言うなら、今すぐ黎女を出てって私たちの前から消えたら少しは考えてやる!」
「あかねぇ……これじゃあカズ嬢より怖いぞ」
雪葉の言葉に、暁音は衝撃のあまりに怒気が引っ込んだ。幼馴染の態度は、まるで嫌がらせのキスをした加害者を擁護し、こちらの態度を責めているかのように見えたのだ。自分はただ、初めてを奪った白髪少女が正しい報いを受けるべきと考えていただけで、幼馴染といがみ合う気はこれっぽっちもなかったというのに。
「雪葉……お前はそれでいいのかよ? うわべだけの謝罪で、一条の野郎のキスをなかったことにできるのかよ?」
「別になかったことにするわけじゃない」
真剣な顔で雪葉が応じた。
「確かにみさきに言われなきゃカズ嬢は謝ったりなんかしなかったさ。でも、形だけでも謝る気になってくれたことがゆきはには嬉しかったんだよ」
暁音はさらに身動きがとれなくなった。驚いたのは和佐の変化ではなく雪葉の変化の方だった。
嫌がらせのキスであれだけ泣かされた雪葉が、一条和佐のことを許す?
それじゃあ、一緒に絶望と憎しみを分かち合った自分の立場はどうなるんだ?
実際に経過した時間はそれほどではなかったが、暁音の中では巨大な時間の流れであった。そして、導き出された回答は、彼女の表情をどす黒く染め上げるものだった。
「そうか……お前……岬だけじゃなく一条の野郎にも尻尾を振ろうっていうんだな⁉ 屈辱も忘れて加害者にあっさり乗せられちまうなんて、そこまで頭の悪い奴だったのかよ⁉」
「なんでそうなるんだよお‼」
雪葉もついに苛立ちが弾け飛んだ。
「どーでもいいことをズルズル引きずりやがって! あかねの言葉を借りるなら、これはカズ嬢とゆきはの問題で、あかねには何の関係もないだろ‼」
反論より先に、暁音は行動に移っていた。雪葉のベッドに横たわっていた巨大キノコアザラシのぬいぐるみを引っ掴むと、それを勢いよく持ち主の顔面に投げつけたのである。アザラシの弾力のおかげで実害は無いに等しいが、雪葉の心に受けた衝撃は計り知れない。
剛速球を直撃したのと変わらない痛みが、悲しみを瞬時に引き起こした。
「うっ……うわああぁぁあああんッッ‼」
理不尽な制裁に雪葉は声を上げて泣き出した。もともと幼げな印象の彼女が幼児に戻ったかのように泣きわめき、そんな雪葉に暁音はさらに追い打ちをかけた。
「出てけ‼ お前の顔なんか二度と見たくない‼」
「きらいだ! もうあかねなんか大きらいだッ‼ このわからずや! 一生ここでぐずったらいいんだあ! うわあああん! うわああぁぁんっ‼」
さらに甲高く叫ぶと、そっぽを向く幼馴染の姿も見ずに、雪葉は部屋を飛び出した。廊下にいた寮生らが泣きじゃくる少女を見て何事かと立ち尽くすが、周囲の反応も雪葉の目には届かない。
同棟の217号室に再び駆けつけ、応対した岬は驚いてプルーン色の瞳を丸くさせた。
「雪葉、一体どうしたの?」
「みさき……」
泣き腫らした瞳をさらに潤ませ、雪葉は立ち尽くす岬をまっすぐ見つめてこう叫んだ。
「お願いだ、ゆきはをこの部屋に泊めてくれ‼」
「…………は⁉」
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