4.休み時間の出来事

 そして、翌朝。

 一限目の休み時間を迎えると、岬はさっそく春山雪葉の席に訪れた。


 雪葉の方も岬の来訪を歓迎した。交友関係の広い雪葉だが、最近は暁音の件で溌溂(はつらつ)とした顔もすっかり曇りがちである。


 岬に声をかけられて、たちまち表情に生気が戻った。


 春山雪葉は岬より遥かに小柄で、私服だと初等科の児童と見間違えられるほどであった。鳶色(とびいろ)の大きな瞳も亜麻色のストレートの長髪も、素材自体は美少女と呼べる代物であったが、内面の幼さの方がまさり、周囲の生徒も気後れすることなく彼女に接することができた。


 岬の場合、むしろ幼き美少女の容姿に誘われるかたちで交流を重ねており、すっかり挨拶と化している質問を雪葉に投げかけたのであった。


「暁音の調子はどう?」


 雪葉の返答も、もはや定例化されていた。


「あかねのやつ、ぜんぜん理由を話そうとしないんだよ」


 横向きに座り、スカートから伸びたほっそりとした脚を組みながらのぼやきである。大胆に組まれた魅惑的な太ももを密かに堪能しつつ、頭の中で岬は今後の方針を組み立てていた。


 聖黎女学園の制服はライラック色の膝丈のワンピースに紺色のボレロというものであった。胸元に臙脂色(えんじいろ)のリボンをあしらい、腰にはベルト、ハイソックスは紺。普通に着るのが一番楚々とした印象になるため、オリジナリティという名目で着崩そうとする少女は滅多にいない。


 雪葉は大好きなキノコアザラシのキーホルダーを取り出し、手持ち無沙汰な感じで指でくるくると回し始めた。お気に入りのマスコットキャラクターへの扱い方としてはいかがなものだろうか。


「そもそも、暁音は本当に円珠と仲違いをしたいのかな?」


 岬が問うと、雪葉はキノコアザラシの身体と目を回させたまま難しい表情をとる。


「それも聞いたんだけどな、どうやら違うらしい。別に嫌ってるわけじゃない、ってぶっきらぼうに返されたんだ。だったら最初から気を悪くなんかするなっての」


 雪葉のぼやきに岬もおおむね同感である。無自覚に提示された太ももの弾力に精神の潤いを感じつつも、黒髪の三つ編み編入生は一つの結論にたどり着いた。


「やっぱり、暁音本人に直接聞くしかないかあ」

「でもあかね、始業式から全然こっちに来てくれないぞ」


 そんなことは今までなかったのに、と言いたげな雪葉の顔である。

 だが、そのような異常事態でも岬は泰然としていた。


「大丈夫だよ。今から暁音を引っ張り出してみせるから」

「できんのか、みさき!」


 鳶色の瞳を燦然と輝かせた。真ん中に分けた前髪から覗かせたおでこが、テンションに乗じて一気に艶を増したかのように見える。


 雪葉の期待に、岬はにこやかに頷いた。


「もちろん。でも召還の儀式には雪葉の協力が不可欠なんだ。頼まれてくれる?」

「おうとも!」


 キノコアザラシのキーホルダーを手中で握りしめ、雪葉は勢いよく立ち上がった。

 岬はすぐさま暁音召喚の儀式に移った。なにぶん休み時間はわずかしかない。岬の気がはやったのは決して変態淑女の血がたぎったせいだけではなかった。


「うおう……ッ」


 驚きと戸惑いが交じった声を小さく発し、雪葉は岬の『儀式』を受け入れた。背中に岬の腕が回り、健康的なふくらみを示す胸が自分のそれに押し当てられる。


 いきなり岬の抱擁を受けた雪葉は、珍しくうろたえた。彼女の変態淑女ぶりは耳にしていたが、不思議と嫌な気分にはならなかった。


 クラスメイトが呆気にとられてこの光景に魅入っている中で、雪葉は全身をもじもじさせながら問いかけた。


「み、みさき……ほんとにこれが『ぎしき』なのか?」

「うん。……嫌だったらすぐに言ってね?」


 岬の声はあくまで優しく、その気遣いが、幼く快活な少女をさらに戸惑わせた。


「やだっていうか……みさきって、ずいぶんと柔らかいんだな」

「えへへ、そう? 雪葉も意外とあるんだねえ」


 正直な感想を、正直な心情で岬は告げた。ボレロで隠れてなくても雪葉の胸の平たさはわかりやすいが、実際に触れてみると成長の兆しはきちんと感じられたのである。


 変態淑女はさらに雪葉の肢体をきゅっと抱き、亜麻色の髪に近づけた鼻をひくつかせた。


「いいシャンプーの匂いだね。どこのブランド?」

「わかんない。あかねが選んでくれたんだ」

「へえ、暁音も意外とやるなあ」


 感心したような口調で岬が応じると、次の瞬間、けたたましい足音に続いて教室の扉が乱暴に開かれた。見ていた生徒は揃ってぎょっとし、悲鳴を上げるものさえいる。


「私の目を盗んで雪葉に何しようとしやがった⁉」


 外野に一瞥もくれず、怒れる少女は容赦なく抱き合っていた二人を引き剥がした。


 この少女こそが、雪葉のルームメイトかつ幼馴染である東野暁音であった。口調は雪葉のものと近いが、鋭気と殺気は段違いで、幼馴染の雪葉でさえ暁音の怒声に肝を冷やした。見た目の割に肝の据わっている岬も彼女に即座に反抗しようとはしなかった。


 東野暁音は岬と背丈が近く、少年のように刈られた短髪はチョコレートの色艶を成している。肌は浅く日に焼けており、短くしたスカートから伸びる脚は、牝鹿めじかのようにしなやかに引き締まっていた。黒々とした瞳は野性味にあふれ、正直、雪葉にベストなシャンプーを選んだ少女と言われてもにわかに信じがたい。


 編入生から離れた雪葉は、鳶色の瞳を見開かせた状態で幼馴染を見た。


「うわ、マジで来たし……。なんでわかったんだ?」

「でも、来てくれてよかったよー。じゃなかったらどうなるかわからなかったもん。雪葉が」

「岬、お前! これ以上ふざけた真似したら、承知しな……‼」


 噴火寸前の有様で暁音が詰め寄ろうとしたとき、まさに絶妙なタイミングでチャイムが鳴り響いた。授業に遅れるわけにもいかず、暁音は即座に引き上げ、勝負は次の授業の休み時間に持ち越された。


 怒り肩で再訪すると、岬はまず素朴な疑問を暁音に投げかけた。


「雪葉の言葉じゃないけど、よくあたしのすることに気づけたよね。ひょっとして雪葉の監視でもしてた?」

「馬鹿を言うな! お前じゃあるまいし」

「さすがのあたしもそんな不埒な真似はしないよ。……って、そんな雑談をしてる暇はないんだった。暁音、あたしたちの言いたいことはわかるよね?」


 岬の指摘で、暁音の表情が怒りから苦悩に変わっていく。

 黒い瞳を逸らしつつ、問題をはぐらかそうとした。


「……円珠のことは、私とあいつの間で解決すべき問題だ。お前たちには関係ない」

「ならせめて円珠には事情を話してやりなさいって。暁音がぜんっぜん口を開こうとしないから、円珠、ものすごくつらそうにしてたよ」

「私のことなんざほっとけとあいつに言っとけ」


 岬と雪葉は顔を見合わせた。ここまで意固地だと、本音を引き出すのは相当手こずりそうと思ったのだ。

 だが、岬の対応は素早い。清楚な顔をたちまち真剣にして言い放った。


「……わかったよ。そこまで意地を張る気なら、あたしにだって考えがあるから」

「へえ、言ってみろよ」


 暁音の挑発に、岬は力強い笑みで受けて立った。


「今夜、円珠と雪葉を呼んで話し合いをするから。あたしの部屋で」

「な⁉」


 暁音も雪葉も驚いた。


「あたしの部屋」と気軽に言ってくれるが、そこは編入生だけの部屋ではないのだ。春山雪葉をそこに招くということは、三年前の嫌がらせのキスの現場に、その被害者と加害者とを引き合わせる事実を意味しているのである。


 暁音は猛然と岬に掴みかかった。


「ふざけんな! そんなこと認めさせてたまるか‼」

「大丈夫だよ。嫌がらせのキスなんか起こりやしないって。あれは雪葉が一条さんのルームメイトだったから起きたんでしょ? 今の雪葉はルームメイトじゃない」

「そういう問題じゃない! そのせいで雪葉のトラウマがよみがえったらどうすんだ⁉」

「暁音が強がるからいけないんだよ。それに、決めるのは暁音じゃなくて雪葉だからね」

「なんだと……」


 怒りが完全に冷め切らぬまま、暁音は幼馴染を見据える。

 睨まれた雪葉は、すがるような目つきで岬に訴えかけた。


「み、みさきぃ……ゆきはにそんなこと言わすなよ」

「ごめんね。でも円珠の問題を解決するには悪くない手だとは思うんだ」


 そう言われて、雪葉は「うう~」と頭を抱えた。このような板挟みの経験は今までなかったのだろう。


 雪葉の回答を待たずに、岬は暁音に再度言い放った。


「トラウマを負わせたくないなら、さっさと円珠から離れた事情を話しなよ。無理なら本気で雪葉を連れてく」

「……………」

「そうまでして言いたくないんだ? じゃあ雪葉、今夜来てくれるよね?」


 清楚な笑みを向けられ、雪葉は岬の方を見て、それから暁音の方に視線を向き直した。幼馴染の視線は「わかってるよな?」と居丈高であり、当然、雪葉の好ましいものではない。そもそも、円珠につらい目を合わせている時点で、暁音の欲求に共感を示すのは無理がある。


 反応が恐ろしかったが、小さな美少女は編入生の少女に対してはっきりと頷いてみせた。


「……わかった。でも、あかねの責任はゆきはにはとれないぞ」

「もちろん。あたしが言い出したことだもん。その点はあたしが何とかする」


 簡単にいくとは思えないが、岬の態度は「本当に何とかしてくれそう」と思わせるものであった。雪葉は少しずつ安心感がよみがえり、信頼を示すかのように岬に淡い笑みを投げかける。


 屈辱に打ちひしがれたのは、変態淑女を咎めにきた暁音の方であった。彼女としては幼馴染が白髪少女のもとに赴く気になったことが信じられなかった。三年前、あれだけ盛大に泣かされて、キス自体に嫌悪感を示していたというのに。


 驚きの波が引くと、暁音の顔に浮かんだ凄絶な怒気であった。


 隠し事をしている自分の非を棚に上げ、雪葉に焼き刃のような視線を押し当てる。


「雪葉……お前……」

「だってさあ、どう考えてもあかねが悪いじゃんか。えんじゅのこと、何も言わずに避けるんだからさ。少なくとも、ゆきはとえんじゅは今のあかねの態度に迷惑してるんだ」


 なかなか堂々たる態度である。むろん、その発言は暁音の心をさらに燃え上がらせた。

 自業自得とはいえ、幼馴染と編入生に畳みかけられて怒号を叩きつけずにはいられなかった。


「ああ、そうかよ! お前は無理矢理キスされた相手の方に肩を持つってんだな⁉ ならもう勝手にすればいいさ‼」


 頭から湯気を噴き出しかねない勢いで暁音は教室を後にする。しばらく緊張交じりの静寂が空間を覆っていたが、やがて授業開始のチャイムが鳴り響き、教師が来る前に一同は慌てて席に着いた。


「……どうしてそうなるかなあ」


 席に着く直前、しくも岬と雪葉は同じことを考えていたのだった。

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