4.友としての誓い

 一方、談話室を飛び出した円珠は、痛みと疲れに耐えながら、学舎区内の森を走り続けていた。


 学舎区の敷地は施設とそれらをつなぐ道を除けば、箱谷山の自然そのものであった。準備もなしに奥深くまで入ってしまうと、敷地内で迷子という事態もあり得る。過去にそのような事例は何度もあった。


 息を荒げながら、円珠は自分の間抜けさを感じずにはいられなかった。退学宣言をしておきながら、どうして自分は学校の敷地内に飛び込んでしまったのだろう。


 誰かに捕まることを恐れて、がむしゃらに森を突っ切っていた円珠だが、ついに足が限界を迎え、彼女はついに地面に手と膝をつけて泣き崩れた。


「うわああんっ‼ ねえさま、ねえさまあ……ッ‼」


 こぼれ落ちる涙が、乾いた大地に沁み込んでは消えていく。


 談話室では冷たくあしらえたのに、自分はいまだにその相手に恋い焦がれている。

 自分の学校生活を華やかなものにしてくれた姉様と縁を切るなんて、最初からできるはずがなかったのである。わかっていたはずなのに。


(姉様にあんな態度をとっちゃうなんて。もう姉様は許してくださらない。仮に姉様が許してくださっても、不敬を繰り返したわたしが、姉様の妹にふさわしいわけがない……)


 その独白を岬が聞いたら「似た者どうしの姉妹ですね」と答えたことだろう。円珠の姉様も実の姉と釣り合わないという理由で自殺を決行しようとしたのだから。


 失意の少女は、さらに姉様の暗い感情の流れに乗じた。


(もうやだ。これ以上何も考えたくない。このまま衰弱して箱谷山の土にでも還ってしまうべきなんだわ)


 円珠は四つん這いから、地面にうずくまる姿勢に移った。ボレロの袖や剥き出しの脚が汚れるのもお構いなしで、眠りに落ちたかのように彼女は寂寞に包まれた自然の中で動かなくなった。


 数分後、乾いた風の音に混じって、円珠の耳に幻聴が届いた。姉様が必死に自分の名前を呼ぶ声。

 そんなはずはないと、脳内から白髪の姉様の存在を追い払おうとしたが、悲鳴に近い姉様の呼びかけは、何度も円珠の心の中でこだましている。


 そして円珠は、その声が幻聴でないことをさとった。玲瓏な叫びに、慌ただしい足音がどんどん近づいてくる。


「円珠、ここにいたの!」


 和佐の呼びかけに、円珠は即座に身体を起こすことができなかった。衝撃と歓喜がかえって彼女の反射神経を縛ったのである。

 やがて足音がゆっくりになり、それがすぐ背後で止まると、丸まったままにもいかず、心音の高ぶりを感じながら円珠は立ち上がった。


 振り返った円珠は絶句した。

 この瞬間、後輩少女の注意を引いたのは見目麗しい姉様の容貌ではなく、彼女の両手に抱えている物体であった。


 思わず呆然と問いかけてしまう。


「あ、あの、姉様……。そのキノコアザラシちゃんのぬいぐるみを持って学舎区に入られたのですか?」


 その指摘は、全力疾走によって紅潮した和佐の頬をさらに赤くさせた。

 白髪少女の中で冷静さが舞い戻り、それは妹に会うまでの、あまりありがたくない経緯を見つめ直す結果となった。


 人嫌いと言われた自分が、ずんぐりむっくりなぬいぐるみを抱えながら、必死の形相で円珠の行方を尋ねたのだ。聞かれた人が仰天するのも当然である。

 視線の痛々しさが今になって和佐の羞恥心を刺激したが、当時は彼女に会うことが最優先で、顧みる暇などなかったのだ。


 赤い顔はそのままで、呼吸だけどうにか落ち着けると、灰色の瞳に決意の光を宿らせた和佐は、平時の彼女からは想像できぬ奇行を振る舞った。


 アザラシのぬいぐるみを持ち上げ、赤色に染まった自らのかんばせを覆い隠したのである。


「お、おねーちゃん、いきなり皆の前からいなくなったりしちゃったら、めーっ、なにょッ」


 円珠が固まった。

 自分は一体何を聞いたのかと思ったのだ。


 常に硬質さを纏っていた気高き美少女が、ぬいぐるみのまんまるの手をばたつかせながら、そのアザラシのキャラになり切ろうとしているのだ。使い慣れない裏声を用いながら。


 談話室で『先輩』呼びで突き放したことも忘れて、円珠は従来の呼び名で裏声の美少女に呼びかける。


「あ、あ、あの、姉様……?」

「ボ、ボクは『ねーさま』じゃないにゅッ。おねーちゃんがいつも可愛がってくれてるキノコアザラシだにょ~」


 どう問いかけたところで、姉様は演技を辞めるつもりはないらしい。


 正直、似ているかと聞かれたら即座に頷くのは難しいところだが、口にしてしまったたら姉様のせっかくの努力が台無しである。

 それに、あまりに想定外すぎる言動に、ミディアムボブの平凡な少女は舌を動かすことすらままならない状態であったのだ。


 和佐はキノコアザラシを盾にしながら、さらに慣れない演技を続けていた。


「ボク、この学校が好きなにょ。おねーちゃんが嬉しそうに過ごしているこの学校が大好きにゅ。だから、出て行きたいなんて言ったらイヤなにょッ。苦しいことがあったら話を聞いてあげるから、どうか考え直してほしいにゅ……」


 ここまで聞けば、円珠もさすがに姉様の意図をうかがい知ることができた。大好きなキノコアザラシとして説得すれば心を動かしてくれると踏んだのだろう。自前のぬいぐるみを貸した覚えはないから、同じものを持っている春山先輩から拝借したに違いない。


 そこまで洞察して、円珠は驚きで、改めてアザラシの丸い手を振る姉様を見つめ直した。三年前に春山先輩をキスで追い返したことは円珠も知っている。

 その相手から愛用のぬいぐるみを借り受けたのだ。呉越同舟という言葉が、ふと円珠の脳裏をよぎった。


 まさか姉様が自分のために……と思ったが、すぐさま黒髪三つ編みの少女の笑顔が思い起こされた。

 彼女の根回しに違いないということは、一度しか顔を合わせていない円珠にも理解できた。可憐な編入生は初対面ですでに自身の明晰さを証明していたのだから。


 いちおう恋敵に位置する先輩だが、今の円珠は彼女を恨む気にはなれない。編入生の彼女が自分の利益だけを考えれば、逃げ出した愚かな後輩のことなど放置することも可能であったはずだ。


「皆、おねーちゃんのことを心配してるにょ。誰も怒ってはないから、どうか戻ってきてほしいにゅ。暁音おねーちゃんも雪葉おねーちゃんも、おねがいおねがいと待ってるから……。戻ってきてくれなかったらボクは……ボクは……ッ」


 ふいに、和佐はアザラシの白い手をきつく握りしめた。

 ぬいぐるみに意思があれば、間違いなく「ぎえーっ」と悲鳴を上げていたことだろう。


 それを止めさせるべきか円珠が考えたとき、和佐はアザラシのぬいぐるみを臙脂色のリボンのところまで下ろした。

 再びあらわになったかんばせは、灰色の瞳を潤ませ、唇を引き結んだ状態でぷるぷると震わせている。

 アザラシ口調で話しているうちに罪悪感に耐えられなくなったのか、羞恥心が限界を迎えたのか。


 後者の方が強いようだ。姉様の唇からは、やがて低いうめきが漏れ始めた。


「……やっぱり、あいつの馬鹿げた提案に乗るべきじゃなかった」


 岬の語った作戦と、それを聞いた暁音と雪葉の反応を、和佐は思い起こす。

 正常な反応だと、当初から思っていたが、他に作戦が思い浮かばなかったのと、岬の揺るぎない視線が結局、行動を決めるきっかけとなったのだ。

 恥を捨て、学舎区の道行く人々に後輩の行方を尋ね、ここまで漕ぎつけることはできたが、これ以上、アザラシになり切って彼女を説得し続ける気概は湧いてこない。


 和佐は普段の口調で円珠に呼びかけた。無理に裏声を使ったせいで、その声はわずかに枯れている。


「この生物に罪はないけれど、こんな小細工を使ってあなたを取り戻そうとするなんて愚かしい話ね。円珠……改めて私の話を聞いて」


 和佐の緊張が円珠にも伝染したようだった。

 居住まいを正し、白髪少女の持っているぬいぐるみに意識はまったく向かなかった。


「あなたの言うとおり、夢はいずれ覚めるものね。あなたにとって、私は理想的な姉でなかったのよ。あなたのことを都合のいい道具としか見ていなくて、勝手なことばかり押しつけてきた……。自分しか考えてなかった私など、姉様どころか先輩としても落第だわ」

「そんな!」


 円珠は声を張り上げた。


「姉様は落第なんかじゃありません! むしろわたしの方が妹どころか黎女生にふさわしくなかったんです! みんなに迷惑かけたわたしなんか、このまま消えてしまった方がましなんです……」

「だめ! 私の前からいなくなることは絶対に許さない‼」


 泣き出しそうな叫びに、再び逃亡をはかろうとした円珠は立ち尽くした。姉様の声に胸を打たれたことは、もはや疑う必要もなかった。

 かんばせをくしゃくしゃに歪ませながら、白髪少女はさらに泣訴した。


「私はもうあなたの姉様になる資格はないし、あなたの行動を止めるほどの先輩の器量も持ち合わせていなかった。それでも最後に命じさせて。罪を償いきるまで、私から離れないでちょうだい」

「姉様……」


 資格がないと言われても、円珠としてはこの呼び名があまりになじみ過ぎていたため、容易に変えることはできなかった。


 姉様と呼ばれた少女は、灰色の瞳を潤ませて、真正面から後輩少女を見据えた。強い決意と幼子らしいむずかりを同時に発揮させたかんばせは、濡れた薔薇さながらの極上の美を誇っている、と円珠は感じた。


「私はあなたの姉様にはなれない。でも、姉でなく友として、私のそばにいてほしいの!」


 この瞬間、円珠の意固地は完全に崩壊した。

 どっと涙があふれ、泣き顔はさぞみっともなく映ったに違いないが、それに構うこともなかった。


 和佐がキノコアザラシのぬいぐるみをそっと木に寄りかからせる。それと同時に、円珠が泣き声を張り上げて姉様の胸に飛び込んでいた。


「うわあああ! ねえさま、ねえさまぁ……ッ‼︎」


 紺色のボレロに顔をうずめ、自らのありったけの想いを言葉に乗せる。


 姉様呼びを和佐は咎めようとはしなかった。彼女にとっても、その呼称は極めて離れがたいものになっていたのである。


 栗色のミディアムボブをさすりながら、白髪少女は優しい口調で呼びかける。


「私たちの関係はいずれ生徒たちに公表するわ。もし、それによってあなたがいじめられる事態になれば、一人残らず私が叩き伏せてやる」

「姉様……!」


 くしゃくしゃな顔を上げた円珠が驚きに満ちる。

 頬を発熱させたまま、少女は微動だにせず、それを見た白髪の姉様が軽く眉をひそめた。


「どうしたというの、円珠」

「い、いえ! 姉様の笑顔を初めて見たもので……」


 言われて、初めて和佐は自分の表情に気づいたようだ。

 気づいた結果、和佐の無意識に上げた口角は平淡なものに戻ってしまう。

 せっかくの笑顔の萌芽を、気恥ずかしさに耐えかねた姉様は隠したのだ。


 そして、自分の笑顔をごまかすために、和佐は驚くべき行動に出た。


 胡桃色の視線の先に姉様の麗しいかんばせが迫る。

 あまりに突然の事態で、唇に当たった柔らかさに円珠が気づいたのは数瞬遅れてのことだった。


 笑顔よりキスの方が容易なのですか……と思ったのも一瞬で、円珠もまた静かに目を閉じて、姉様が顔を離すまでそのぬくもりを受け入れた。


 たった一つの、それが友としての誓いだった。

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