10-2 狂気のるつぼ

 こなみは言った。


「謝りはしませんからね、朱里さん。私はあなたを絶対に許しませんから……」


 大倉が暴れまわったせいで、図書館の連なる棚はドミノのように倒れていた。それらが倒れたばかりだからか、ほこりが舞い上がって息が苦しい。大男の両手でわしづかみにされている朱里はむせてしまった。

 これが夢ならばと思うのだけれども、これは現実。醒めない悪夢に瀕している。絶体絶命だ。


「な゛み゛え゛え゛……」


 くぐもった声を発するこなみの父親。

 朱里さえ、握り潰してしまえば愛してやまない亡妻に会うことができる。先ほどは、娘のせいで意図せぬ再会を果たしてしまい、やむなく妻を手にかけてしまったが、今はそんなことなどどうでもよかった。

 こなみの言葉を待つ大男の顔は、どこまでも穏やかだった。唸り、早く殺させてくれと急かす。


「まだですよ、お父さん……焦らないでください。まだですよ、まだまだ……」


 父親から犬に成り下がってしまった存在は、唸る。口からよだれを垂らしながら、今か今かと待ちわびる。朱里を握り潰す、その時を。

 妻に会いたくて、会いたくて……どうしようもない男は身を悶え、切ない声を上げた。

 この3メートルもの大男の力は強い。女の子の力では、どうしようもなかった。

 恐怖で口が回らない。頭もうまく働かない。なすがまま、されるがままだった。目から光が失われ、希望も何もなかった。

 朱里は静かに来る時を待つ――。

 こなみは想い人を奪われた元凶が、みっともなくもがき苦しみ、死ぬところを見て愉悦に浸る……はずだった。


「あかりいいいいいいいいい!!!」


 凄まじい声のち、けたたましい銃声がふたつ。

 その声に、朱里は聞き覚えがあった。


「……お父さん?」


 朱里を、万力のごとく締めつける大男の手のひらから愛娘を救うべく、秀雄は突貫する。倒れた本棚を軽快に避けながら、朱里の元へ急ぐ。

 この撃ちながら、全力疾走をする男に大倉親子は気を取られた――その時、


「うおおおおおおおおおお!!!」


 現実世界に帰ったと言われた男、博が休憩室から現れた。

 これに大倉が気づいた時、すでに遅かった。大きく振りかぶったスレッジハンマーが脇腹に直撃。強力な一撃を脇腹に叩き込むと、その衝撃に耐えかねて、スレッジハンマーの柄は折れてしまった。

 身体を強化されているとはいえ、ひとたまりもない。


「ああああああああああああ!!! な゛み゛え゛え゛!!!」


 悲痛な声を上げ、朱里を手放してしまう大倉。それから地面をのたうち回る。

 この好機を朱里は逃さなかった。

 地面になんとか着地すると、すぐさま朱里は飛び出した。走って、大倉親子の元から離れる。


「逃しませんよ、朱里さん!」


 だが、こなみがそれを許さない。すかさず右腕を槍に変え、朱里の心臓を貫こうとした。太鼓のように早く脈打つ朱里の心音を頼りに。

 伸びる牙なぞ構わず、父親を信じて朱里は突っ走る。


「久川君、アレ!」

「ハイ!」


 秀雄に促され、博はポケットから黒いパイナップルを取り出した。黒光りするそれに突き刺さるピンを抜き、レバーを握ってスローイング。見事な弧を描き、こなみの足元に手榴弾が落ちた。


「はっ!?」


 こなみがこれに気づいた時、手榴弾が爆ぜた。凄まじい衝撃と爆音にたまらず、こなみは後ろに吹き飛んだ。

 のびてしまったのか?

 こなみは倒れ何もものを言わなくなってしまった。横たわり、白い衣服を血で濡らしていた。

 それはとても痛々しい姿であったが、誰も気を留める者はいない。


「朱里、久川君、こっち! こっち!」


 秀雄が手招く方ヘ、全力疾走する2人。

 倒れてしまった棚にぶつかり、あたふたしながらも、2人は辛うじてこの場から逃げおおせるのであった。


「あと、あと少しだったのに……」


 見えない視覚をカバーしていた聴覚は手榴弾のせいで潰された。そのせいで、耳鳴りが酷い。何も捉えられない状況にこなみはあった。

 そして、そのまま――意識を手放してしまった。

 悶絶していたこなみの父親。

 脇腹の痛みが収まり、よろよろ立ち上がる。最愛の人の名前を呼んだあと、瀕死状態の娘を見つけた。

 何も言わずに、自分の娘を見つめ続けたあと、大倉は彼女を片手で持ち上げた。

 狩られたうさぎのように持ち上げられたこなみ。

 自分の娘をまじまじと見たあと、何かを決意する大倉。そして、こなみを突然食べ始めるのであった。

 信じられないことであった。

 しかし、ここは狂気の坩堝(るつぼ)と化している。彼を止めることは誰にもできなかった。

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