7-5 東尾のキモチ

 展望台から放たれた化け物。

 いや、化け物というのには程遠い。奔流と形容した方が正しいか。

 向月と東尾が溶け合い産まれた朱の濁流が、朱里と博に迫りくる。斜面を滑る洪水は勢いを増している。

 これに呑まれたら、ひとたまりもない。

 朱里と博は必死に坂を下る。転がるように、全力で疾走する。


「あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝……」


 水が湧き出る轟音に、底冷えするような声が耳につく。首を絞められた女が苦しんでいる声が追いかけてきているような気がする。馬場葦の斜面は険しい、振り返るのは難しい。この声は何なのか、二人は気になるところであったが、前を向いて逃げるので手いっぱい。

 運動部に所属する博は速かった。あっという間に、朱里の前からいなくなる。博を頼りにして走っていたからか、いなくなって若干のパニックになる朱里。

 轟音の中に潜む声は、折り重なっている。2人の女が喘ぎ、苦しんでいるようだった。背中に目はない。しかし、手を伸ばして助けを求めて迫ってくる向月と東尾の姿が、ありありと目に浮かぶ。

 この恐ろしい幻影から逃れなくてはいけない。

 なぜなら、現実世界に帰れなくなってしまう。助けを求めている東尾と向月に、救いの手を差し伸べるわけにはいかなかった。

 相も変わらず、視界は悪い。猛スピードで走る朱里の目の前に立ちはだかるのは樹木とその根っこ。不意に現れ、朱里を苦しめた。朱里のつま先に根をかけ、何度も転ばせようとした。足をかけられ、躓きそうになったが朱里は何とか踏ん張って、前へ前へと猛進する。こんなところで、死にたくないという想いが朱里をそうさせた。


「あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝……」


 追いかける声は大きくなっていき、朱里はさらに焦る。力の限り、走っている。が、向月と東尾から生まれた奔流との距離は短くなっていく。

 激しく痛む足に、「足よ上がれ」と強く念じる朱里。もう、体はボロボロだ。止まって倒れこみたいレベルにまで疲労していた。でも、足を止められない。死にたくない。けど、死にたくなるほど苦しくてたまらなかった。

 走り斜面を下る朱里、もうどれくらい走ったかわからない。


「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」


 霧深く前がよく見えない。突然現れた崖。勢いあまって、朱里は落ちてしまう。

 2メートルの崖の下は、幸か不幸か水田だった。泥まみれになってしまう朱里。

 田圃はさほど深くはないが、体に限界が来ていた。泥の海の中に溺れ、息ができなくなってしまう。足はつくはずなのに、崖から落ちたせいでパニックになっている。手足をばたつかせ、声を上げる。

 このパニックが収まった時、


「あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝……」


 もう遅かった。

 背中に、向月と東尾から産まれた何かが現れた。

 朱里が振り向いてみたものは、鎌首をもたげた向月と東尾の大きな貌。苦悶のあまり顔は般若のように歪みきっている。この大きな双頭から逃げなくてはいけなかったが、足が泥に沈みこんでうまく動かせなかった。


「うわああああああああああああああああああああああ!!!」


 この濁流に呑まれ、朱里は絶叫する。

 そして、混じり合い――息は途絶えてしまった。それから水田は向月と東尾に飲み込まれ、その色に染まってしまった。




 死んだと思っていた朱里だったが――そうではないらしい。

 そのことに気が付いたとき、朱里は自分が通う高校の視聴覚室にいた。

 山の斜面を走り、水田に落ちた。

 泥だらけのはずだが、泥はどこにもついていない。着ている服は、どこも濡れていなかった。

 今は何ともない状態だ。

 こなみに刺され、破れてしまったパーカーは新品の状態だ。

 首を傾げた後、朱里は気づく。誰が用意したかはわからないが、プロジェクターが置いてあることに。そのプロジェクターは電気がついており、スクリーンに大きな“10”の数字が表示されている。


「あっ……カウントが始まった」


 カウントダウンが始まり、0になった時――真っ暗なスクリーンに。そこから、東尾の声がした。


『児島さん……さっきはごめんね。あの時はまだ、向月雅に騙されていたから、あなたにひどいことをしてしまった。本当にごめんなさい』


 こう前置きした後、東尾の独白は続く。


『中学二年生の時だったかな? 私がいたグループの子がね、向月雅をいじめようって言ったの。私は――そういうの嫌だったから、そっとグループから離れたんだけどね……うん、いじめには加担していないんだよ。でもね、目を付けられちゃったみたい。それで、当時大好きだった幼馴染と泣く泣く離れ離れに……。その時は、この世が終わったかのような感じだった。本当に絶望していたんだよ。でもね、雅が現れたことによって……私は救われた。雅を愛するようになった。友達としてではなく、一人の女性として――雅と結ばれること、それが私の幸せだった。けど、もう……全部が真っ赤なウソだったんだね。もう、私は……どうしようもないみたい』


 そこから先は、言葉はなかった。ただただ、スクリーンの中にいる東尾は泣き続けるだけだった。

 朱里が何とも言えない顔をしたとき、スクリーンによく見知った顔が映った。

 それは――毎朝、食卓でよく見る顔だった。

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