5-4 帰来する煩悶

 鏡に映ったのは眼鏡をかけた少女。頭髪は白く、顔はあどけない。まるで白いウサギを擬人化したようで、かわいらしい。

 自分の姿が変わったことを朱里が認識した時、再び暗転。場面が変わった。

 洗面台から――今度は枯れた桜が生い茂る千堂の公園の入り口に。


(あれは――兄ちゃんと薫さん!)


 そこで朱里が見たものは、自分の兄と兄の彼女がキスをしている瞬間だった。


「どうして?」「なんで?」「私じゃないの――」


 頭に響く、大きな声。ぐわんぐわんと鐘の音のような、残響にさいなまれる朱里。

 ここでも体は思うように動かせなかった。自分の表情さえ、自由でなかった。

 鏡に映った少女は、朱里の兄のことが好きだったのだろう。耐え切れず、その場から走り去った。泣きじゃくりながら、ただひたすら、走り続けた。


「あああああああああ――」


 最愛の人が、他の人と結ばれてしまった。

 その悲しみに駆られ、少女は疾走する。どこに向かっているのか、朱里にはわからない。がむしゃらだった。


「うわああああああああああああああああ――」


 躓き転び、うつぶせに。

 立ち上がることができなかった。悲しみのあまり。

 地面に伏し、少女はこれまでを振り返る。


(なっ、なに――)


 少女の過去が朱里の視覚と聴覚を犯し、過去の扉が開かれる――。




 ……物心ついた時には、少女の母親は死んでいた。

 まず、出てきたのは先ほどあった大倉敏和という男によく似た男。

 彼が、少女の父親らしい。

 少女の父親曰く、お前が母親の命を吸い取ったのだと教えられた。徹底的に、少女は父親から嫌われていた。愛と呼べるものはなく、親の義務というやつで、仕方なくただ生かされていた。生かすために少女の父親は、自分の両親に少女を育てさせた。

 父親からの愛情はなく――ものを与えられるだけだった。絵本や児童小説にある物語に出てくるもので愛を知り、こっそりくすねた母と父が並び立つ写真に、少女は自分を張り付けていた。にこやかに笑う父と母の間に自分を挿し込むコラージュを作り、それを見て少女は幸せな家族を想像していた。

 8歳の時だった、少女に転機が訪れる。

 研究者の父親に実験動物として利用されるだけだったのだが、幼い少女は愛してくれるのだと勘違いした。

 自分を愛してくれるために頑張る少女。

 そんな少女の父が開発していた“あるもの”の実験は過酷だった。そのせいで髪が真っ白になって、周りの子からいじめられるようになった。現実世界と仮想世界の境界線を見失い、言動や情緒が安定しない時期もあった。

 しかし、それでも少女は過酷なテストに耐えた。

 そのおかげで、父の研究は完成した。

 用が済んだら、父親は少女のことなど全く気に留めない。それどころか、さらにきつく当たるようになった。

 そして、少女は気づく。利用されていただけだったことに。

 そのことを知り、少女は絶望した。

 家にも、学校にも、どこにも居場所が無い少女。かなしくってやりきれない。何度、死のうと考えたことやら。

 それでも唯一、少女がやっていたのが、小説を書くことだった。自分の苦しみを文章にすることで癒しを得ていた。

 だが、向月と東尾のいじめのせいで嫌な思い出になろうとしていた。

 そんな時に、朱里の兄と出会った。自分の書いた小説を読んで、面白いと言ってくれた。

 朱里の兄に少女は救われた。

 少女は彼にすべてを打ち明けた。朱里の兄は黙って聞き続け、彼なりに頑張って、周りの人たちに頼り、少女が抱えていたいじめの問題を解決した。

 それからというもの、朱里の兄に会うたび、少女の胸の内が温かくなった。こんなに温かい気持ちになったのは初めてだった。

 時たまに、クラスメートや父親に嫌なことを言われたりしたけど、彼のおかげで耐えられた。たまに朱里が護ってくれた。

 だんだん、少女は朱里の兄のことが好きになっていく。

 そして、溢れんばかりの想い……それをぶつけようとしたのだが――。

 ……彼の幼馴染の女に阻止されてしまった。

 少女は絶対に朱里の兄を自分のものにしたかった。どうしてもそうしたかった。だから、罪悪感に苛まれながらも、ウソをついた。ウソをついて、幼馴染――今の朱里の兄の彼女を傷つけた。

 仕方がなかった。他に良い方法が何も思いつかなかった。

 うまく行った、そう思っていた。

 これでようやく、先輩と一緒になれるんだと。

 しかし、ダメだった。

 告白し、朱里の兄の答えを聞く直前で幼馴染に阻止された。それから幼馴染は、仮想世界の中で自分が何をしたのかを朱里の兄へ告げた。

 これにより、朱里の兄は怒り、少女に絶交を言い渡す。

 朱里の家族から拒否されて、親友だった朱里からは縁を切られた。それでも最後の縁(よすが)である朱里の兄の元へと行ったら、このような形で拒絶されてしまった。





「自分の想いを解ってもらいたい。どれだけ自分があなたのことを愛しているのかを。そのために、会いに行こうとしたらこの始末ですよ。せんぱいが……他の女と結ばれていたんです。自分ではない、だれかと……」


 朱里が気付いたとき、展望台のエントランスに戻ってきた。

 目の前には、裾の破れた白いコートを着たあの少女。


「これほど悲しくてやり切れないことはありませんでした。ただただ、泣き崩れるばかり。もう、どうしようもなかったです。また、独りぼっちになってしまった。何もかもを失って、しまった。また、空っぽになってしまった。鋭い冬の冷気がナイフのように、泣き崩れた私を切り刻みました。この世界は私にどこまでも理不尽で残酷でした――」


 このがらんどうにかすれるような声が響く。その声を聞く、朱里の目はわなないていた。瞳孔が開ききって、体の端々が震えていた。粘っこい冷汗が顔じゅうにまとわりついているが、それをぬぐう余裕は、今の朱里にはなかった。

 少女は口角を上げ、目を細めた。


「お久しぶりですね、朱里さん……私ですよ、大倉こなみです」


 朱里の顔についていた玉のような汗が、展望台のリノリウムに落ちた。

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